第12話 愛する人と幸福の話

 過去を忘れるきっかけに、と。

 私がレテを飼い始めた理由は、非常に単純で、非常に身勝手だったように思う。

 最初は、黒い塊にしか見えなかった。それが猫だと気付くのにそう時間は掛からなかったが、影の中に溶け込んでいるようだと思った。

 忘れるとは心の防衛本能だ。辛かったり苦しかったり悲しかったり、そういうことをいつまでも覚えている方が、心に悪影響を及ぼす。

 だから、人は忘れる。

 精神分析学の始祖が言っているのだから、間違い無いだろう。

 猫は液体、だなんてジョークのような比喩表現を聞いたことがあった。まるで液体のように身体を自由自在に動かすことが出来るからだ。

 だから、冗句のように、忘れ水だなんて名前をつけた。

 レテは私を恨んでいるのだろうか。酷い名付け親がいたものだと、呆れているのだろうか。

 忘れる為の存在だったレテはいつの間にか、忘れてしまわない為の存在に変わっていた。


 甘い匂いが立ち込める。

 原因はシフォンケーキを作っているからなのだけど、どうもそれだけじゃ無い気がする。

 一ヶ月半。

 これを長いと見るか短いと見るかは人によるのだろうけど、私にとってはやはり短かった。

 だけど、初めての大工仕事も慣れない内装作業も、彼女がいたから、楽しかったのだろうか。

 学園祭の準備のようだった。そういう楽しさだと思ったのだが、学生当時の私は学園祭の準備に楽しさを見出せていなかったのだから、少し笑える。

「どう?オーブンの使い心地は」

 コーヒーミルをガリガリ音を立てながら豆を挽いていた菫さんは、腕が疲れたのかエプロンを脱いでシフォンケーキをオーブンから取り出している私の方に近寄ってきた。

 以前の家ならレテが甘い匂いに釣られて寄って来ていただろうけど、一回の大部分は飲食店として利用することもあり、レテは私達の住居スペースである二階と外へ出る為の一階の一部にしか立ち入れないようにしてある。

「やっぱり本格的な奴じゃなくても十分ですね。紅茶のシフォンケーキ、試食してみます?」

 ここのところ喫茶メニューの試作ばかりで少し太ったような気がしたので、私は一欠片だけ口に放り込んで止めておく。

 明日から朝にジョギングでも始めようかな。

 そんなことを思いながら、菫さんにシフォンケーキを勧めると同じ事を考えていたのか、苦笑してから「少しだけ」と控えめに言った。

 甘さを控えめにしたのは、存外に素人であった筈の私達のリフォーム技術が高く、想定よりもシックな内装になったことに対して、店の雰囲気と味を合わせたことに起因する。

 菫さんは意外と、ではないけど、思っていたよりも凝り性で日曜大工を解説する動画配信を熱心に視聴しては、直ぐに納得のいくまで食器棚を作ったりカウンターテーブルを作ったりしていた。

「ね、栞」

「はい?」

 菫さんと二人で作り上げた喫茶店を眺めながら、何かを二人でやり遂げる達成感のようなものに浸っていると、頬杖をついた菫さんが私の顔を見ていた。

「ありがとね」

 何がですか?

 と問いたくもなったが、その言葉は喉の奥の方から顔を見せることはなかった。

 代わりに照れ笑いのような、自分でも適切な表現を持たない笑みが浮かんだだけだった。



 思い悩む、なんてことはしているつもりも無かったが、過ぎ去ってみれば無意識の内に心の何処かで何かが引っかかっていたようだ。

 実家を捨てたこと、その理由などなかったこと。

 私の弱さ、その弱さから目を背けていたこと。

 自分を騙したこと。自分にも他人にも嘘をついているのだと、自身を弾劾して、否定して。そうすることで、自分を許そうとしていたこと。

 何一つ解決などしていないというのに、思えばそれらは過去となっていた。

「——忘れるに任せることが、結局最も美しく思い出すということなのだ」

「川端康成、でしたっけ?」

 夕飯を終えた後の、まったりと流れる時間。レテと戯れながら、菫さんはふと思い出したようにそんなことを言う。

「なんで栞がこの子にレテって名付けたのかなって思ってさ」

 綺麗な思い出のままにしたいことがあったんじゃ無いの?

 言外にそう問われているような気もして、私は思わず口をつぐんだ。

 きっと、菫さんを好きになる前の私だったら直ぐに否定していたのかもしれない。

 だけど、どうだろうか。

 不思議と、そうなのかもしれない、と思ってしまう自分がいた。

 過ぎ去った時が、振り返った時に綺麗な思い出の一つとして穏やかに思い出せるように。

 そんな未来が、そんな幸福が、私に訪れることを縋るように願っていたのかもしれない。

 確証は無いけど、代わりに否定も出来ない。

 だけど、一つだけ言えることは。

 逃げてばかりの私の、あの何も為していなかった時間を、否定してばかりいた時間を、穏やかな気持ちで振り返られるということは、今この瞬間は幸福なのだろうという、確信だけであった。


 逃げた先にあったのは、思いもよらない幸福だった。

 ふと、両親に電話でもしてみようかな。

 そんなことすら考えてしまうのだから、菫さんといる時間は、私にとって余程心地良いものなのだろう。

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