龍の耳の英雄
@tukimibaku
第1話
「あの…
「あ…あんた、あの時の!本当に来てくれたの⁉︎嬉しい!仲良くしましょうよ!下の名前で呼んでよ。ほら見て、聾者が使う人のあだ名はサインネームって言ってね、こうやって『下弦の月』の表現が、旦那のあたしの呼び方なのよ」
親指と人差し指を、左から右へ、下に弧を描くようにゆっくり開閉させて見せる
「この子といっぱいお話ししたいのに、周りに手話ができる人がいなくて…冷泉さん、貴方だけなんです」
はっと
「この子の耳のことが分かった途端、元々疎遠だった義両親は一切の援助を打ち切りました。それでも夫はしっかり外で稼いでくれているので、贅沢なくらいだとは分かってます。でも、でも…」
「落ち着いて」
ぎゅっと白い手に力を込め、彼女の目をしっかり見据えて、
「…あんたの息子、何dBくらいなの。手帳は何級?伝音と感音どっち?親族に聾者は?」
最後の質問は、殆ど答えは分かっていたが、それでも確認の為に聞いた。
「右耳が100dB、左が90dB…でも、お医者さんからは、いずれもっと悪くなるだろうって言われました。伝音性難聴も感音性難聴も両方持っていて、特に子音の聞き取りがしにくいだろうと言われました」
日本の聴覚障害の等級は、かなり厳しく決められている。特に、難聴の作曲家のゴーストライター騒動から、さらに厳しくなったと、夫の
そして、伝音と感音、どちらの問題もあるということは、混合性難聴。『聴覚障害』と聞くと、普通の音が小さく聴こえるだけだと誤解している人は多いし、
しかし、感音性-内耳より奥側にも問題がある場合、音そのものが歪んで聴こえる問題が発生するのだ。
どのように歪んで聴こえるのかは、人それぞれだ。
例えば、「かきくけこ」という音を聞いた時、母音AIUEOは聞き取れても、子音Kが聞こえない。同じdBの難聴でも、単なる伝音性難聴よりもずっと聞き取りが難しいのだ。
「親しい親族に、聾者はいません。義両親は私の家系のせいだと言っていますが、私自身分からないんです。元々両親のせいで親戚とは疎遠で」
「あんたの義両親が次になんか言ってきたら、『聾者の9割は聞こえる親から生まれてくるんだ』って言い返してやんなさい!…ていうか、実の親も何なのよ⁉︎」
親族に聾者がいない-つまり、聾者にとって命綱となり、最大の意思疎通手段である手話文化を教える者がいないだけでも一大事なのに、実の親さえ支えてくれないなどと。
「とにかく、ずっとここで立ち話もなんだし、大体こんなに冷え切って!中に入って、あったかい紅茶を飲みながら話しましょ」
〈おかえり、
ちょうど持病で仕事を休み、竜ニの世話を見ていた
〈この人〉〈息子〉〈聾〉〈この人〉〈困っている〉〈非常に〉
日本手話でそれらのことを一瞬で夫に伝えると、それだけで
《「さ、
小柄な撫で肩をさらにすぼませる彼女に、
〈この人とはどこで知り合ったんだい?〉 〈聞きたい?私、ヒーローだったのよ〉
数日前、
(…あれ、あの子…視線が、
誰かの顔を見る時の目線の動かし方が、明らかに聴者と違う…。
「おい姉ちゃん、随分若いのにもうガキいんだなぁ」
ふいに、我が子を迎えにきたらしい別の父親が、嫌らしい口振りで母親に話しかけた。
「あ…」
それは、新入りの若い母親が来るたびにベタベタと絡んでくることで有名な、近所の父親だった。もしゃもしゃ髪の男の子が、困った様に、話しかけてきた男の口元を凝視する。
「坊やいくつだい?5歳くらい?お前の母さん、ひょっとして10代でデキ婚かぁ?」
「あ、あぅ…?」 慌てたように母親が間に割って入る。
「やめてくださいっ」
「なんで?にしてもこの子、さっきから一度も話さないし、愛想悪いなぁ。やっぱりデキ婚の頭弱い母親じゃ、その程度の教育が限界かぁ」
「
バカにしたように、男が母親の額を小突いた途端、今まで黙って男と母親の口元を交互に見ていた男の子が、ぱっと両手を広げて母の前に立った。
「おあぁあんおいぃえるぅなぁ!」
その瞬間、
「…な、なんだ?ひょっとして足りない子?」
「なッ…!」
思わず
「うちの子は耳が不自由なんです。でも、自分の名前をもう漢字で書けるほど賢い子ですし、家のお手伝いもしてくれるんです。それに、足りない子って、知的な遅れのある子にも、凄く失礼な言い方ですよ…!」
母親の声が悔しさと恐怖に震える。 「あぁ〜そういうことか。随分愛想の悪い子だと思ったが、しかし、随分と親不孝者に生まれたもんだ」
その時、ようやく人混みから脱した
「いい加減にしなさいよ‼︎信じらんない‼︎あんたそれでも人間⁉︎いきなりベタベタ女性に絡んでいった上に何よ⁉︎土下座して謝んなさい‼︎」 「あぁ⁉︎てめぇこそいきなりなんだこの電柱女‼︎」
「怒鳴られても仕方ないことをしてんだろうがあんたが‼︎この子がなんかしたの⁉︎」 「し、してんだろうが‼︎耳聞こえねぇわ愛想は無いわで、生まれてきたこと自体が親不孝で可愛そうだ!」
今度は
「傷害罪だ‼︎訴えてやる‼︎」
「やれるもんならやってみな‼︎あんたの暴言、ぜーんぶ録音してんだから!あんたの会社に電話して責任者に聞かせてやる‼︎」
勿論、録音などというのは謝らせるための口から出任せだったが、男が青ざめて怯んだ。その時、大人達が言い争う足元に、男の息子が何事かと走ってきた。
「パパ、どうしたの⁉︎」
「こ…この女が、勝手に切れてパパを殴ったんだよ!でもパパは悪くないよ、この男の子が全部悪いんだから!」
指差した先の
「お前かよ、ママが言ってた耳無しの子って。ママが言ってたぞ、テレビを大きな音で聴きすぎて、耳が悪くなったんだろ?」
信じられない教育をする親に植え付けられた暴言に、
「はあ…⁉︎」
「俺はちゃんとママが毎日ケンコー管理してるから、お前みたいに耳の聞こえない残念な子にはならないのよって、ママが言ってたぞ!」
酷い言葉が無邪気な幼子の口から飛び出し、それは
「騒ぎのもとになってしまったことは謝るわ。でも、
後半は父親に向かって、震えながら切った啖呵だ。父親は顔を真っ赤にして怒った。
「人の教育方針に口出しするな!」
我が子を抱きしめて庇い、罵声と唾を頭から浴びせられても、
「いくら家の教育方針でも、それじゃ貴方の子も可愛そうだと思います!こんな小さな時から、困難を抱えた仲間を『あの子は悪いことをしたからああなったんだ』って教えられて、優しい人間になれると思いますか?一言『生まれつきなんだ』って言えば分かる話じゃないですか!
「そ…そうよ!」
恐れをなして、それまで言葉を失っていた周りの親達が、堰を切ったように一斉に酷い酷いと父親に向かって抗議し始める。父親は顔をレンガの色にして子供を連れて帰っていった。
「ちょっと‼︎最後にこの子に謝んなさいって‼︎」
大声で父親の背に怒鳴ると、「ガキには聞こえてねえんだからいいだろ!」という暴言が返ってきた。
「あーもう‼︎次会ったら背骨を真っ二つにへし折ってやる‼︎ちょっとあんた!大丈夫⁉︎」
「あ、ありがとうございます…!ごめんね、ごめんね
泣きながら、子どもを抱きしめる母親の背中は震えている。
「自分よりガタイのデカい男なんて、怖くて当たり前よ、あんたはほんとに頑張った!あたしこそちゃんとあいつに謝らせられなくて〈ごめんね〉」
最後は男の子に向かって、流れるような手話で話しかけた。母親が、涙できらきらした目を見開いて
「あの、それ…」
「あぁ、あたしも家族に聾者いるからさ。あっ、ごめんね、あたしもう行かなきゃ!うちの子の風邪が治ったら、また時々この公園来るから。また声かけてね」
「あの、よろしければご住所とお名前を教えてもらってもよろしいですか⁉︎」
震える手で差し出されたレシートの裏に、
〈そうだったのか。やっぱり
そう言いながら
《「あぁ、ごめんごめん!あたしたちだけで話して、分からなかったよね」》
「い、いえ…凄いですね、
うっという小さな嗚咽と共に、大きな垂れ目に涙が盛り上がる。
「私…母親失格ですよね。家事の合間に、色んな手話のニュースや本を読んで勉強してるのに、物覚えが悪くて学がないせいで、ちっとも使いこなせない」
「家事も子育ても重労働なのに、誰の助けも無しに手話をマスターするなんて、スーパーマンでもできないわよ!ねぇあんた、さっきも思ったけど、どういう環境で子育てしてんのよ。助けてくれる家族とか、友達とか、いないの?」
「友達…は、昔は、居ました…」
彼女の生い立ちは壮絶なものだった。 「父は酷く高圧的な性格が原因で次々破談になって、最後に残ったのが、働きたくないけど家事もしたくないという、異常に怠け者の母だったんです。両親は、まだ夫婦仲が上手くいってた時期に産まれた兄は可愛いけど、険悪になってから生まれた私は可愛くないって口癖みたいに言って、何かにつけて差別されてきました」
救いは、学校の友達や先生達が
「何人か、私みたいな家庭環境の子が友人にいたんです。私は一生家にいて家族の世話をしろと言われてましたが、高校を卒業した日、先生達の力を借りて、私達は一斉に遠く離れた街にバラバラに就職したんです」
当時は携帯電話も一般的でなく、規制が緩い田舎だったので、18歳以上高卒済みの子が『事件ではありません、自分の意思で家出します』と書置きを残しておけば、地元のお巡りも真剣には探さなかった。
〈その時に就職先の電話番号の交換とか、しなかったのかい?〉
「私達の中で、1番厳しい虐待を受けていた子が、『どんなきっかけで親に居場所がバレるか分からないから、連絡先交換はお互いしないでくれ』と頼み込んできて…悲しいけど、そうせざるを得ませんでした」
そうして
孤立無援。友人もいない。そんな時に、学ぶ言語が違う子を授かる…想像しただけで、目の前が真っ暗になる。
「でも、私は子供の頃はちゃんと味方になってくれる友達がいました。けれどこの子は、話が通じる友達がいない。公園で、遊ぼうと他の子に話しかけるんです。でも、みんな悪気はないけど『変な声だ』とか『なんで何度も聞き返すの?一回で聞いてよ』って…。
垂れた目尻から大粒の涙を流す
《「…大丈夫よ!友達なら、うちのりゅうz」
「おぇのおぉふ!かえしぇ!」
「ふぇ⁉︎」
「おぇの!あぁ|みさぁん@ぇ‼︎」
目を白黒させて飛び起きた
「
頭を押さえて睨みつける息子に、
〈友達じゃねぇし!つか誰だコイツ!知らない奴に勝手に俺の毛布貸すんじゃねぇ‼︎〉
《「殴っといてその態度は何よ‼︎あの
しかし、わたわたと慌てる
「あ…あの…もしかして、
《「えぇそうよ、この子も両耳とも100dBくらい。でもいくら同じ先天聾で同じ5歳だって言っても、気の優しい
「お願い!
不満顔を向けていた
そして、黒の補聴器が嵌まった
「あ、見て
「あら本当!いつも手話教室の番組を録画して
怪訝そうに
〈なんだ?お前も聾か?〉
瞳をいっぱいに見開いて、一生懸命に
〈お前も聾学校に行くんか〉〈それとも通級か?〉〈そこにいんのはお前の母ちゃんか?父ちゃんは?〉
もの凄いスピードである。父親が同じ先天聾であり、
「んーん…?ゆぅくりぃに、はぁなぁすして…(ゆっくりに話すして)」
大きな瞳を戸惑いに揺らす
〈なんだお前。聾のクセに、手話も出来ねぇ、日本語もハンパだし、聴の奴らの言う木偶の坊みたいだな!〉
『木偶の坊』は、聴文化では『役立たず』だが、聾文化では『最低の男』のような意味がある。このような違いで、聾者と聴者で誤解が起こることもあるのだと、
「ふぇん…」
〈
手話の意味は分からなくとも、馬鹿にされたことだけは分かって、しょぼくれる
〈世界中の聾の子みんなが、
滅多に怒らない父親にしっかり目を見てそう言われ、
〈そうよ!だからあんたが教えてあげなさい!〉 〈はぁ?なんで俺が!んなん聾学校の奴らとかデフコミュニティの大人に教えてもらやぁいいだろ…〉
母親に言い返す
〈つべこべ言わずにさっさと教えな‼︎ハイ決定‼︎〉
その日から、
〈ホラ、これが『クソ野郎』だ、こっちが『死ねアホ』…痛ぇ!何すんだババア‼︎〉
〈何すんだはこっちのセリフよ‼︎アンタさっきから見てれば汚い言葉ばっかり
〈聾をバカにする奴らに言い返すために教えてやってんだ!聴者のババアが口出すなよ!〉
めきめきと手話を上達させていく息子に置いてけぼりにされそうになりながらも、
「あんな耳の聞こえない子と遊んじゃダメよ」
心無い親の言うことを信じて、離れていく友達が出る度、
〈俺だって、お前みたいな耳の聴こえる宇宙人みたいなヤツ、仲間とは思わねーよ!〉
筆談と身振り手振りでそう伝えられた子供はキョトンとしたびっくり顔になり、親は髪の毛を逆立てて怒ったが、
「お前らの喋り方おかしいぞ、怪しいガイジンみたいだ」
自分より体の大きな男の子数人がかりで、そんな風にしつこくからかわれたら、今まで
〈お前、なんて言った!〉
そう言って、手頃な石数個を抱えて、爆弾のように突っ込んでいく。投げた石がいじめっ子に直撃して血が出たが、幸い相手の親がまともで、「うちの子が悪い。申し訳ない」と逆に謝らせてくれた。
そんな
聾学校小学部
「…普通の小学校に通わせようとも思ったけど、やっぱり聾学校にしようと思うんです、私」
もうすぐ2人が就学する時期に差し掛かったころ、
「教育委員会や特別支援学級の先生も、真摯に対応してくださったと思います。でもやっぱり、普通の学校では、
うんうんと
「あ、決して聾学校が普通学校に劣ってるとかじゃなくて…寄宿制だし、遠いから心配で…」
「分かってるわよ、もちろん」
聾学校の数は、当然だが少ない。つまり、住む場所によっては、小学生でも通学に数時間かかったり、あるいは親から離れ、寄宿生活をする子どもも多い。
〈寄宿舎に僕を預けた母親が、泣き叫びながら先生に抱き留められている僕の前から、顔を覆って泣きながら遠ざかっていくんだ。まるで、牢屋学校みたいだと思ったよ〉
「何をするにも私から離れない
「ただでさえ、聴覚障害の子は普通に言葉を教えるのが難しいからね」
聴こえる子どもが自然に言葉を覚えるのは、身の回りで、色んな人が喋っている言葉を、シャワーのように常に聴いているお陰だ。しかし、聴覚障害者には、そのシャワーが無い。
それを解決するために手話や聾学校があるのだが、戦時中など、貧しく教育が不十分な時代に、聾者は自分の言葉を持てなかった。だから、意思を表すために暴れたりなどといった極端な手段に出ざるを得ず、それを「精神的に不安定」と誤解した聴者に、精神病院に入れられたという許されない歴史もある。
それだけでは無い。
【えっ⁉︎
筆談で、
【聾学校で、昔が酷いよ。僕の子ども時代に「健聴者に近づけさせるため」なので、聾学校で口話を使いました。生徒達の手を後ろに縛って手話を禁止するもの。だからです、僕らは授業の内容は分かるない。仲間内で情報共有もできるない。日本語力もあってと学力もなかなか上がるないでした】
【聾の子の手を縛るなんて…そんな酷いこと…】
(なんでそんなことをするの?聾って、耳が聞こえないことなのよ。それなのに音声言語で教えても、役に立たないことくらい、ちょっと考えればわかるでしょ?ひょっとして、今の聾学校もそうなの…⁉︎)
絶望の思いで、
「今は手話を禁止していませんよ。聾の子に聴者に近づけと強制した時代には、手話を教えようとする聾の教師を免職させ、口話を教える聴者の教師ばかりを雇っていました。しかし今は、手話を学ぶ教師も多くなってますし、授業も日本語対応手話と指文字を取り入れています」
ホッとしつつ、悩み抜いた末に決めた聾学校には電車で2時間以上もかかり、やはり始業の時刻を考えると寄宿しかない。
〈お母さんと離れるのやだ!〉「おぁーぁんといっょにいう!」
「いぃ、いずくうぅ〜…」
桜が舞う新学期。普通なら校庭は我が子の就学を祝う親でごった返すものだが、聾学校では幼くして離れることになる子と親の愁嘆場が繰り広げられることも多い。
「
聾学校の教師が、優しく話しかける。…そう、口話で。実は、聾学校の教師全員が手話ができる訳ではない。特に、聾者のアイデンティティである日本手話を使える先生はもっと少ない。初めてその事実を知った
「すみません…正直言うと、私は新卒で急に『人手が足りないから聾学校ね』と言われて、手話も出来ない私なんかがって感じで赴任したんです。でもみんなのために、手話の勉強頑張りますっ!」
自分よりも若い、その先生の熱意を信じることしか、
〈へっ!聾で良かったぜ、口うるせぇババアからさっさと離れられるわ!〉
《「ババアって言うなって何度も言ってるでしょ!全くうちの子は
しかし、そう言う冷泉母子の声と手は、お互い涙を堪えて震えていた。
聾学校など特別支援学校では、通常の学校のように、小学校、中学校という風には分かれていない。小学部、中学部、高等部と、同じ校舎の中で学年が分かれている。
〈これが小学部か〜。なるほど、机が先生の周りを丸く囲むように並べられているんだね。こうすれば斜め下から先生の口の動きがよく見えるね〉
「
〈へへっ、ありがとうございます!…椅子の下のボールを着けてるのは何でなんですか?〉
「気になる?使ってみて!」
〈えーと…あ!椅子を動かす時、ギギギって音がしない!〉
〈外食する時とか、椅子のギーギー音まで補聴器がデカくするからウザかったもんな。そうならないために、なるべく雑音鳴らさないようにしてんだって、ジジイが言ってた〉
聾学校は新鮮なことばかりだった。それまで
〈聴こえる子と遊んでた時みたいに、『変な声』って言われる心配がないや〉
お母さんと離れたのは寂しいけど、一般の学校見学に行った時、聴こえる人達の音声言語に囲まれた不安感、何人かの心無い保護者が向ける『こんな子がクラスにいたら迷惑じゃないか』という冷たい視線が無いのが、とてものびのびできた。
冷泉家でも手話は習っていたけど、ここはもっと多くの手話を見られる。先輩や、家族全員が聾者の家庭の子がいつも使う挨拶や話し言葉を見て、ますます手話のバリエーションが増えていくのが誇らしかった。
けれど、聾学校にもいじめがあったのが辛かった。
〈俺の方がお前より口話がうまい〉
〈お前は耳だけじゃなくて、知的にも障害がある〉
そんな悲しいカーストが生まれて、特に重度の難聴の
しかし、喧嘩っ早い
〈自分より重度の子を虐めるなんて、承知しないぞ…!〉
自分の友達が虐められたら、震えながら我が身を盾にして守る。勿論一方的にサンドバッグにされてしまうのだが、すぐに先生が適切な処置をしてくれて助かった。
「
苦笑いしながら教師が言った。
一方の
「私には頼れる親族がいないから、できるだけ
ところが、手話教室では、暖かで真摯な講師もいる反面、とても高圧的で聾文化に理解の無い講師もいた。
「ダメですよ、そんなに表情や身振りを激しく表現したら。都会ではみっともないと言われますよ」
ある日、馬鹿にしたように講師の1人からそんなことを言われ、
「え?でも
戸惑う
「なら、
(そんな…例えば親指で口元を指差すにしても、顔の表情1つで「あ」か「5」かで意味が変わるのよ?そもそも聾の人が耳からの情報を補うために、表情豊かに会話するのをおかしな目で見る人の方が悪いんじゃないの?)
「講師さんから、『手話を生まれた時から使ってない聴者がいくら勉強しようがムダ』って言われました…」
同じ手話教室に通っている
「でも、負けてられない!目の前に人がいるのに、話が通じない悲しみは、私が一番分かるもの。
その間も、
「くぁー、きー…う…」
「聾学校なんだから、手話で教えるべきだ」という先生は優しかったが、「いやいや世の中に出てから手話は通用しない。口話を沢山教えるべきだ」という先生は厳しく、何度もやり直しをさせられた。
特に頑張ったのは、バスや電車に乗るための訓練だ。
〈これを覚えれば、一人でお母さんに会いに行ける!〉
《
《駅にいる大人に道を聞く!》
意気揚々と、
《いい答えだ。でも、その辺の大人の中には、悪い人もいるかもしれない。車椅子の女の子が、悪い男の人に、勝手に車椅子を押されて連れ去られそうになる事件も起こっているよ〉》
皆の表情が固くなる。
《それに、多くの人は手話が伝わらない》
その言葉がぷすりと
《そこで、みんなに覚えて欲しいことは、『自分が分かる駅に戻って、大人が来るのを待つ』ことだ。あと、駅員さんなら、その辺の大人よりかは信用できるから、駅員さんに筆談で聞くのもいい》
《俺は携帯持たされてるから、LINEで親にヘルプ出すから関係ないもんね》
別の友達が呑気そうに言ったのを制したのは
《バカ。東日本大震災の時は、聴者もメール使いまくるから通信が混雑して、全然携帯が通じなかったんだぞ。イザという時使えないんだから、駅員に聾学校の学生証見せて筆談してもらう練習しとけ》
《流石竜ちゃん!》
そうしておっかなびっくり、休みの日に初めて1人で家に帰った
小学部を卒業間近に控えると、みんな各々「進路はどうするか」という話になった。
盲.聾学校や特別支援学校では、生徒を就労させることも大切な責務の1つであるため、高等部までに、職業訓練を行うのが普通だ。
〈へぇ、理容か…ちょっと面白そうかも〉
しかし、そんな
〈アッハハハお腹痛い!
〈おいケッサクだなぁ、みんなスゲェぞこれ、見てみろよ〉
〈ぼ、僕は真剣にやってるんです!〉
爆笑する理容科の先輩達に囲まれ、無残な落武者のようなヘアカットになったマネキンを前に、半泣きになる
〈タツは昔から手話の上達も遅ぇし手先も救いようがないほど不器用だったからなぁ!〉
〈竜ちゃん写真撮らないでよ!やめてよそれ学内新聞に使う気⁉︎お母さんも見るのに!〉
カメラを奪おうとする
〈凄い…
〈聾の理容師界に革命を起こせるぞ!〉
理容科の先輩はこぞって熱烈に
〈俺ぁ理容師とか、『昔ながらの聾者の職業』には絶対ぇ就かねぇ。聾者の職業選択に革命を起こしてやる〉
〈聞いたよ!
それからしばらく後。〈日本手話と日本語対応手話がごっちゃだし、遅い〉と
〈逆かぁ…確かに…へへ〉
〈タツは手先が絶望的に不器用だし、血ィ見たら一発でぶっ倒れるわ。まぁ弁護士だって相当エグい証拠写真とか見なきゃなワケだし、せいぜい心臓発作で殉職しろや
〈死ぬの前提⁉︎酷い!〉
そんなほのぼのと言うには少々過激なやり取りをした後、
「それで…
「はい。とっても難しい職業だから、他の進路も考えたらと何度か言ったんですけど、『絶対
2人はしばらく押し黙った。担任が、悲しそうな顔をして、
「
〈うん、聾学校がいい〉
「…けれどね…聾者で弁護士になった人は、日本で10人くらいしかいないんだよ」
〈じゅ…10人⁉︎〉
絶望に青褪める
「…ここから、難しい話になるんだけど。
しかし、普段手話で生活する生まれながらの聾者は、聴者に囲まれて話をする時、手話にはない言葉に戸惑うことも多い。聴者の上司に「道草食わずに早く帰れよ」と言われた聾者が、「私は牛ではありません」と返事してしまった例もある。
また、「てをには」などの文法も、手話では省略されることが多い。「赤ちゃんを産む」も「赤ちゃんが産まれる」も同じ手話表現になるため、二文の日本語の違いが分からない。「1つのリンゴがある」という日本語は、「1つの」という文節が必要だが、手話では「リンゴ」の表現の際に何個あるのかも同時に表現する。英語でリンゴを表す時、「a apple」と「a」1つで個数を表現してしまうのと同じである。
「6時」という時制の単語一つとっても、日本語はまず数字の「6」の次に「時」を言うが、日本手話では、まず片方の手首に手をやって「時間」を表してから、「6」の数字を表す。さらに、「どうして彼は仕事を辞めたんですか?」という日本語の文を日本手話に訳すと、〈彼〉〈仕事〉〈辞める〉〈理由〉と、外国語のように目的語の順番が違ってくる。
このように独特の文法や表現を持つのが、生まれながらの聾者が使う『日本手話』。日本語の文法に手話を後から当てはめたのが、中途失聴者が使う『日本語対応手話』となる。
「とにかく、そういう事情で、生まれながらの聾者は日本語で不自由することが多いんですよね。あるデータでは、18歳の聾者の平均日本語能力が、小学三年生だったとも言われています」
「小学三年…⁉︎」
今度は
確かに、
「だからって日本語ばかり勉強したら、他の教科も疎かになってしまう…」
「はい…聾学校勤務の私が言うのも何ですが、発話や口話訓練、読唇習得、日本語学習などの面も影響して、聾学校の学びは普通学校より遅れてしまうことが多いです。その中で弁護士を目指すというのは…正直なところを言うと、うちの聾学校は職業開拓の面では遅れていて、『とにかく、高学歴でなくとも食べていける専門職種を学ばせる』事に心血を注いでいまして。
その他にも、大学で学ぶ制度が…などと話が続いたが、
「
先生は慰めのつもりで言ったのだろうが、「聾者には初めから夢が閉ざされている」と突きつけられたようで、帰り道で我慢できずに
《ごめんね、ごめんね
必死で習得した手話で、泣きながら
しかしながら、
インテ組、すなわちインテグレーション、統合教育組。聴こえる生徒に混じって、通常学校で学ぶということだ。
だが…その中で、
「聾学校って、出席してるだけで単位貰えるんでしょ?それなのにウチのレベルについてこれるかねぇ?」
全く事実無根の無理解な言葉を、中学の校長から投げつけられた時には、
『ふざけんじゃねぇ!聾学校を何思ってんだクソ校長!』
口の形と簡単な手話通訳で言われたことを察した
「まぁ、あの子達かしら。通常校に進学したいって言う子」
「大人しく聾学校行けばいいのによ。あんなに騒いでみっともない」
外には別の父兄がいて、口の形でそんなことを言われていると分かった
(先輩が言ってた、『聾学校と外の世界は異世界だ』って言葉は本当なんだ。ここでは本当に、聾者に理解も知識もないんだ…)
それでも2人は夢を諦められない。あちこちの中学を回る
校長の清水フネコはとにかく子どもが大好きという人で、
「やめてください!うちの子を彼らのお守りにするつもりですか!」
「コミュニケーションが取れない子が、うちの子のクラスにいたら困る!」
またしても保護者からクレームが上がったが、校長はここでもきっぱりした態度で挑んでくれた。
「勿論、障害のあるお友達の手助けで学業まで疎かにしてしまうようなことは、双方にとって良くない。ですが今は、手話通訳派遣などの制度があるじゃないですか。必要な部分は大人が支援して、子どもに過剰な負担がいかないようにしますよ」
「彼らは聾学校で、手話の他に身振りや笑顔、筆談でコミュニケーションを取る術を学んでいます。それと、私も微力ながら、少しずつ手話を習おうと思います。それでいいですね?」
中学校
新学期。入学したのは
【えっと、
自前のミニボードにペンで自己紹介文を書き、最後は手話をつけてみんなに挨拶する。
「テレビで見たまんまだぁ。本当に筆談で自己紹介するんだ」
「障害者ってみんな大人しくて笑顔だよねー」
「24時間テレビのやつ?そうだね」
数人の生徒が、悪気のない会話をする前で、ずんと
〈筆談でえっと〜とか書くんじゃねぇキメェ!【おい聴者のヤツら、俺はお前らよりも将来高額納税者になる男だ!】〈覚えとけ!〉
〈ち、ちょっと竜ちゃん、よろしくぐらい言いなよ!〉
24時間テレビでは絶対に取り上げられないような、自己顕示欲も出世欲も竜のように貪欲な
みんなの自己紹介の後、他の同級生達は、未知の障害者像を突きつける
「私達の言ってること分かる〜?」
【静かい所で、ゆっくり話してくれると分かる。一音一音、区切らずに、単語でひとかたまりに分けて話して】
「ねぇねぇ、それ補聴器?着けてたら普通と同じくらい聴こえるの?」
【さすがにそれは…そうなれば苦労がしないよ】
「苦労『は』だよ?さっきからなんでちょっと日本語おかしいの?」
緊張した笑顔を更にピシリと固まらせる
「先生もまだ勉強中なんだが、どうやら手話と私達の話す言葉は少し違うらしい。それに、彼らは元々音が歪んで聴こえると言っていたし、ガヤガヤしたところではますます聴こえづらいと聞いた。とにかく、彼らの筆談で少しおかしいところがあっても、馬鹿にしないように。また、彼らの近くで椅子や机で大きな音を立てるのも禁止だ。補聴器は雑音まで拡大してしまうので、喧しくても聞こえないだろうなどとは思わないように」
そこから、危ういながらも
担任は「口の形がよく見えるように」「できるだけ声が聞こえるように」と、2人を一番前の席にしてくれたが、これに筆談で苦言を申し立てたのは
【先生、前過ぎ口の形見上げるが首が痛い。それに、周り状況が見えねー】
「あぁ、なるほど!それは気付かなかった。2人ともクラスで何かする時、ワンテンポ遅れるなと思ってたんだが、周りを見て何をするか察しないといけないんだね」
〈り、竜ちゃんありがとう…じつは僕も困ってたんだ〉
〈馬鹿野郎、ここで我慢してどうすんだよ。てめぇこそ自分で自分のケツくらい拭けるようになりやがれ、必要なことすら遠慮して言わねえ意気地なしは見ててイライラすんだよ!〉
〈ひ、ひぇぇ…だって折角気を遣ってくれてるのに文句言うみたいで…〉
〈だからお前はヘタレなんだよ。聴者の奴らは、24時間テレビでちょっと聾者を取り上げただけで自分達のやることは済んだと思ってやがる。そういう奴らに、いかに勉強不足かを教えてやってんだよ〉
『こんなに支援してくれるお母さん達と先生達に応えなきゃ』という
「す、凄い
だが、そんな彼らを気に入らない生徒も出てきた。
「障害者の癖に生意気な」
「機械を耳に入れてサイボーグみてぇだな。補聴器貸せや」
そう言われて、本当に補聴器を奪い取られた時は、心底肝が冷えた。
「かぇぇして!ほょぅきぃたあぃの!」
「ハハッ、何言ってんのか分かんねぇよ!」
「面白そうだから、か・し・て?」
「いい加減にしないか!」
親切な生徒が走って担任を呼んできてくれ、担任に襟首を掴まれたいじめっ子達はこってりと油を絞られた。
〈バーカ、お前先公に頼らねぇと補聴器も守れねぇのかよ。ダッセェ!〉
そう言う
《「リュウの補聴器を取ろうとした⁉︎なんて命知らずな!」》
《「やっぱり通常学校は恐ろしい事をする奴がいっぱいだぜ…」》
驚く所が違う気がするが、とにかく一年生の間は、彼らは何とか学生生活を送れていた。
彼らが二年生への進学を控えた頃、
「すみません、
「でも、相変わらず『他の生徒の助けがあるなら必須とは言えない』『住居から市を跨いでいるから認可できない』の一点張りで…」
(他の友達が助けてくれるだろうから、大人は助けてくれないって?)
先生は1人の生徒ばかりに負担がかからないよう、日替わりに2人の隣の席のノートテイカーを交代したりと腐心してくれた。しかし、彼らは2人分のノートを書くことで、どうしても自分の分のノートまで書きそびれることがあって、その度に申し訳なくて堪らなかった。
(好きで耳が聞こえない訳じゃないのに、なんで授業のたび、胃が搾り取られるような申し訳なさと、迷惑がられていつか友達を辞められたらどうしようという悲しさと付き合わなきゃならないんだろう?それに彼らにも学業があるのに、なんで僕らのせいでタダ働きさせられなきゃならないんだ?)
「まして学年が上がるたびに、ますます授業は難しくなるのに、市の人達は何を考えているのやら!」
「本当にすみません…」
「お母さんが謝ることじゃありませんよ。にしても、成績の話ですが、
うっと詰まった。聾者は、聴者の話し言葉を日常生活で聞き取ることができないので、日本語の文章のみならず、漢字の読み方も間違えて
覚えていることがあるのだ。
この前も、社会の地理で「この地方はどこ?」と聞かれ、元気よく『ヨコクです!』と答えてしまった。
「
そう笑われて赤っ恥をかいてしまった。日本語を学ぶためにここに来たのだから必要な試練かもしれないが、それも専門の手話通訳者や要約筆記者がいてくれたら、言う前に気がつけたかもしれないのに。
「あ、その件は以前も言いましたが、手話は日本語と文法が違ってて」
「やっぱりそれが原因ですよね。我々も勉強はしているのですが、やはり専門の通訳者がいないと厳しい場面もあるのに…」
「こんなに手話通訳が欲しいのに、通訳者を呼ぶ費用や体勢は各地域や学校の努力任せだってこと自体が怠慢よ。でも
今回の懇談結果を持って、もう一度市に掛け合ってみると校長達が約束してくれたその夜、事件が起こった。
《
家の受話器を取った
校長が以前から目を掛けていた、虐待の疑いのある生徒が、「親にパチンコ代として全額献上する筈の新聞配達のバイト代をちょろまかして、生理用品とブラを買った」という理由で、下着姿で外に放り出されたと言うのだ。
〈生理用品とブ、ブラジャーって、必要最低限のエチケットのものすら買ってもらってなかったの⁉︎〉
《そうなのよ!校長先生が見かねて、自腹でこっそり工面してあげてたらしいんだけど、遂に申し訳なくなって自分で買ったらしいの!》
女生徒は泣きながら夜の学校を訪ね、激怒した校長は即、警察と児童相談所に連絡した。それまで児相の担当者は「学校のサポートで何とかなっているなら、緊急性は無いのでは」と、怠慢な態度を取っていたらしい。
しかし、ようやく動いた児相と警察が来る前に、学校に乗り込んできた両親が、「うちの教育に口出しするな」「勝手に通報しやがって」と逆切れし、校長を暴行したらしい。
〈校長先生は無事なの⁉︎〉
《頭から後ろに突き飛ばされて、今集中治療室にいるそうなの!》
2人は車を飛ばして病院に行き、争うように全力疾走して病室前に向かった。そこには、見たことが無いほど青い顔の
「校長先生は助かるんですか!」
口の形で、
【僕たちは耳が聞こえません。筆談してくれませんですか。校長先生が大丈夫なんですか】
そうメモに書いて、近くの老看護師に渡そうとしたが、彼は面倒臭そうな顔をして紙にこう書いた。
【お母さんに訳してもらいなさい!】
「ふだぁけぇ…な‼︎おぇたちぃは、いぁしぃたいぃたよ‼︎」
〈竜ちゃん‼︎〉
校長は命さえ取り留めたものの、眼底出血が酷く、失明してしまったと顔中涙に塗れた母に教えてもらったのは、家に帰ってからだった。
それからしばらくして、全校朝会があった。勿論、手話通訳者が派遣されることはない。暗い顔をした先生が、ただ金魚のように口をパクパクさせるのを、内容が分からないまま
【目が見えない先生を雇った前例がないから、校長先生が変わるって。それと担任の兄山先生、校長の事がショックで切迫流産になりそうだからしばらく休むって】
【きりはくりゅうざん⁉︎】
【せっぱくりゅうざんね】
全校朝会の後、ようやく同級生に筆談してもらった。『切迫流産』という言葉に、赤ちゃんが死んでしまったのかと絶望した
だが…この校長が最悪だった。
「たった2人の生徒のために、手話通訳を派遣することはない。父兄からも、特別扱いで別の生徒から不満が出ると苦情も来ている。同級生のサポートで十分だ」
その一言で、前の校長が何度も掛け合ってくれていた手話通訳者派遣の話をゼロに戻してしまったのだ。
当然
「○ぁっ…ぅに…fぉんを…kぇ&ぇ…ぁぃぉt|ぉ…あ‼︎」
「へ?へ?」
パニックのまま、何度も聞き返す
「お前もか!」と言わんばかりの
虚を突かれた
〈ありがとう、助けてくれて…〉
〈別に、俺まで誤解されたら面倒だと思ったんだわ〉
「おい、何ヒラヒラと内緒話みたいに喋ってんだ‼︎」
突然耳元で大声を出され、2人の補聴器がキイィンとハウリングした。
〈何すんだ‼︎〉
2人は片手で耳を押さえながら、
【イヤホンに誤解されるような補聴器を着けてくる方が悪い!外せ!紛らわしいんだよ、最初から顔に障害者ですと書いとけ!】
あまりの暴言に、
〈竜ちゃん!〉
それからの学校生活は地獄そのものだった。
『口の形を見るので、席を前から二番目くらいにしてください』とお願いしても、『どっちでもいいだろ』と聞く耳持たずだ。おまけに当て付けのように、仲の悪い同級生を隣の席につけてくるので、ノートテイカーがいない。あまりの事態に、味方になってくれていた生徒達が、こっそりノートを見せてくれようとした。だが。
『ブサイクと耳無し野郎❤️お似合いカップル❤️』
『バケモノ同士そのまま結婚しちゃえ!死ねブス』
そんな酷い落書きが彼女らの机に書かれているのを見て、
【もう僕に話しかけないでください。君のノートテイク、悪くなかった。今までありがとう』
そうやって、いじめの道連れを作るのを止めるしかなかった。
それだけではない。前の先生は、いつも生徒側を見て大きく口を開けて喋ってくれるので、
【先生、何言ってるなんだか分かりません。迷惑くないと、こっち見ての口話で願いします】
精一杯の気持ちを、出来る限り丁寧な文で、一年分くらいの勇気を出して紙に書いて
「お前は中二にもなってこんな文章しか書けんのか?幼稚園児か!」
いじめっ子達がどっと爆笑するが、
その後も待遇は改善するどころか悪化した。
「あぇぇ…て!のぉーと…!」
「宇宙人みてーな声だな!」
「コイツらの日本語、ホントにおかしいぞ!」
「なになに?『京都と東京は真ん中で中京工業地帯はある』?お前ら中二にもなって『に』と『で』の区別もつかねぇのかよ!」
テストでも、前担任の兄山は文章題で『この文章はこう書くように』とアドバイスして返してくれていたのが、
そのテストをぐしゃぐしゃに破いた
学校の給食室のガス管工事で、臨時で弁当持参になっても、口頭でしか伝えられず、
片耳20万もする補聴器を壊されてしまい、でも母にいじめのことは言えなくて、わざとポケットの中に入れたまま洗濯に出し、〈ごめんなさいお母さん、間違えて洗濯しちゃった〉と誤魔化した。
それでも母は、何かに気付いていたようで、隣の部屋のリビングからは、母の涙の気配がした。時を同じくして、
2人の親がそれに気づいたのは、
ドンガラガラガラガッシャン‼︎
家の前で、大型トラックが標識に突っ込んで、鼓膜が破れる程の爆音が響く。近所の人達が何事かと出てくるが、
「
『ピィーピィーピィー』とけたたましく警報音か鳴り響くなか、たまたま仕事が休みで、買い物から帰ってきていた
〈え?…あっ⁉︎〉
2人とも、窓の外に横転したタンクローリーを見つけ、今しがた気づいたという顔で仰天していた。
タンクローリーの中身は空で、引火等もなく、近隣住民に健康被害などは及さなかった。が、2人の親は聴力検査のできる病院に彼らを連れて行った。そこで判明したのは、2人とも感音性の音の歪みがさらに進み、伝音の方も、両耳とも110dB近くになっているとの残酷な通知だった。
「急に悪くなりましたねぇ…2人とも、ストレスがかかってませんか?思春期ですし、一番の悪化源になりかねませんよ」
大好きなお母さんの声すら、ますます聞き取りづらくなった不安に加え、無理解な聴者達の無慈悲な仕打ちは続く。
〈悲観してるヒマがあったら、視野広げて周りをよく見ろ。家に片手に持って投げやすいモノ配置して、離れた場所から呼ぶのに使ってもらえ〉
そう言った
〈竜ちゃん…もう聾学校に戻ろうよ。ここに僕らの居場所は無い〉
三年生の半ばに差し掛かった放課後。国語の授業で音読を散々笑われて、心身共にズタボロの
〈この弱虫ウジ虫野郎が!聴者のバカみてぇなイジメに負けてたまるか!ここで転校したら俺達の負けなんだよ!後半年の辛抱だろ!〉
〈あと半年も我慢してたら死んじゃうだろ!運良く生きてたとしても、高校に入ってもこんなだったらどっちにしても死ぬよ!君もこの前、両耳50万もするテレビ用の補聴器と、外出用の補聴器両方壊されたじゃないか!〉
無残に砕けた自分の緑の補聴器を握った左手で、電池部分が飛び出た
〈負けとかそんな次元の問題じゃない、もう生きるか殺されるかだよ!僕は、僕らをいじめてくるような人とこれ以上一緒にいたくないんだ!〉
〈だったら勝手に戻るか、名前通り海に飛び込んで泡になるかでもしろ〉
広い運動場を一人で去っていく
魂が抜けたように、いじめっ子と鉢合わせして補聴器を取られないよう、回り道した公園で、
(…あれ)
男性は、『あのー、すみません…』と通行人に語りかけているようだったが、誰もそれに応える様子はない。彼の手には、白い杖が握られている。
(白杖だ!道に迷ったのかな?助けなきゃ)
さっきまで本気で死のうと思っていたことも忘れ、
(あ…でもちゃんとコミュニケーションできるかな…この前みたいに、迷惑がられたらどうしよう?)
遠出には自信があるものの、ある時道に迷って通行人に筆談をお願いした時、苦い顔で「字が汚いから…」と口の形で言われ、逃げるように去られてしまったことを思い出す。
「あお…」
男性の正面に回り込んだ
「おや、誰か来てくれたのかい?いやぁ助かったよ、かれこれ小一時間もここで待ってたんだ」
男性が言うが、勿論
「あぉ…い…」
「ん?」
「ぅ…どじじゅ…?」
後半は滂沱の涙が混じった。
「ええと…すまない、何と言ったかね?もう一度はっきりと言ってくれると助かるg」
言い終わる前に、
「うわっ!えっ⁉︎なになに⁉︎新手のドッキリ⁉︎」
「あっ!」
慌てて
〈す、すみませんすみません感極まりすぎて…!感覚に障害がある人にいきなり抱きつくなんて、心臓止まるほどびっくりするって僕が一番知ってるはずなのに、なんてことを!〉
「え?ちょっとごめん、凄く慌ててるのは分かるけどどうしたの君?ひょっとして君も迷子?」
わたわたと慌てるお互いの言語は伝わらない。
(まままさか本当に彼とコレで話をする日がくるなんて…落ち着け、落ち着いて思い出すんだ僕!このために頑張って点字キーの場所マスターしたんじゃないか!)
-わ か り ま す か-
義眼のはまった目が見開かれる。
(これは…指点字!)
「あぁ、分かるぞ!完璧だ!」
-ぼ く は み み が き こ え ま せ ん-
(耳が…そうか、さっきの声の発音に聴き覚えがあったが…聾唖者なのか)
〈凄いな〉〈分かるよ〉〈君は〉〈誰だい?〉
〈誰?〉の手話で、彼の頬を手でなぞった時、その感触がしとどに濡れていることに、
〈触手話…⁉︎〉
〈私がまだ見えていた頃、師匠が教えてくれたんだ。君は手話だけじゃなく、点字キーまでマスターしているのか?凄い、バイリンガルじゃないか。いや、それに加えて日本語も使ってるんだから、トライリンガルかな〉
「ひぐっ」というしゃくり声と共に、二人の手に熱い液体が落ちた。
〈僕は…バイリンガルなんかじゃない。ロクに日本語の文章も書けない木偶の坊なんだ〉
それから
〈やっぱり君は生まれた時から聞こえないんだね〉
〈はい〉
〈でも弁護士になりたいと〉
〈はい〉
〈で、今通ってる通常学校は楽しいし、先生も良くしてくれるけど、日本語能力の差を痛感して辛いんだね?〉
〈はい…〉
〈じゃあ、今から少しテストをする。〈静かな部屋〉〈長い傘〉これを指点字で日本語に訳してみなさい〉
[静かい部屋 長いな傘]
〈なるほど…では、〈きれいじゃない花 小さくない部屋〉〉
[きれいくない花 小さいじゃない部屋]
〈私が君に花をあげることを、「あげる」「もらう」を使って二文作りなさい〉
[僕が教授から花をあげる 教授が僕に花をもらう]
〈ふむふむ。さらにそれを尊敬語と謙譲語に直してみてごらん?〉
〈け、けんじょうご?〉
「次はぁ、〇〇駅〜」
〈おっといけない!今どこかね?〉
〈君の弱点は大体分かったよ。実は私、近々君のような聾唖者や知的障害者のための日本語教室を作ろうと思ってるんだ〉
〈日本語教室?〉
邪魔にならない所に降りたのに、中年男が、白杖をついた
〈そうさ。ちゃんと言葉は理解しているのに、情報に触れる機会が少なかったり、手話言語と日本語の違いから日本語文章が苦手だったりして、周りから誤解を受けやすい人達のために、日本語を楽しく分かりやすく教えてあげる場所が必要だと感じてね。良かったら君、生徒の第一号にならないかい?初めての被検者ということで、今なら授業料半額!〉
〈日本語を分かりやすく…?ぜ、ぜひ通いたいです!それと、幼馴染みにも紹介していいですか!〉
〈勿論だよ。…しかし、聾唖者が弁護士になるというのは、本当に並大抵の努力ではない。人の倍…いや、百倍努力しなければならないだろう。健聴者ですら非常に狭き門なのだから…やはり弁護士以外に人を助ける職も考えておいた方がいいと思うよ〉
希望が見えかけた矢先、憧れの人にそんなことを言われ、また
「あ、来た!
〈すまない、迎えが来た。わざわざ点字ブロックの上に誘導してくれるなんて、本当に賢くて良い子だね。ここからは一人で行けるよ〉
(世間が盲者や聾唖者など、人との関わりにハンデがある者たちにどんなに冷たい仕打ちをするかは、私が一番知っている…コミュニケーション能力が必須である弁護士業なら尚更危ない。下手すれば逆に騙されて、人生をぶち壊されたりしかねん。…
《
泣き腫らして真っ赤になった
〈近所の家が玉ねぎを干してて、その臭いがきつかったんだ。参ったよ〉
胸の前で玉ねぎの形に手を合わせ、超下手な嘘を吐いた
〈
何回も読み直してボロボロの自伝著を指で触る。
幼い頃、突然瞳が鳶色に変色し始め、「目の色が変わるなんて有り得ない、気のせいだろう」と笑われる中母親が何件も病院を回り、ようやく牛眼という難病であることが分かったこと。片目が義眼になってから、近所のいじめっ子に、「おかしな目で見るな」「義眼を皆の前で外せ」などと言われる仕打ちを受けたこと。
片目が義眼になると、近所のいじめっ子に、『義眼を皆の前で外せ』などと言われる仕打ちを受けたこと。段々残った片目も悪くなっていくなか、弟から『小さい頃から兄ちゃんの案内役をさせられて遊ぶ暇がなかった。それに兄ちゃんの弟だからといじめられる』と怒りをぶつけられた時、死にたいと思ったこと。弱視時代、『白杖は全盲者しか使わないもの』と誤解した人に、『障害年金を受け取るために詐病をしている』と言われたこと。それでも夢を諦めず、日本最高峰大学教授になるまでの道のり…。
(あなたは盲者でも、特別恵まれていたから大学教授になれたの?何の取り柄もない木偶の坊の僕は、夢すら見られないの?…でも、竜ちゃんは特別だ…竜ちゃんなら、夢を叶えられる…)
辛さのあまり、朦朧とする意識の中、せめて有能な幼馴染みに夢を託そうと、
(ブロック…されちゃったかな…)
それもそうかと思う。
〈聾者が健聴者と同じ権利を持つなんてゼータクだっつー、クソレイシストをぶっ飛ばす大人になんだよ〉
いつもそうだ。
〈これでは困る〉
〈いつも健聴者の意見ばかり通さないでくれ〉
そんな当たり前の権利を主張するだけで、聾者は散々聴者から叩かれ、嘲笑されてきた。
「聞こえない奴らが我慢するのは当たり前だ!」
「なんで俺たち多数派がお前ら少数派に合わせなきゃならないんだ」
いつも聾者は聴者に合わせられ我慢させられていて、少しはこちらの身になってくれと言うだけで、この仕打ち。
それなのに、自分はいじめに屈して、もう逃げたいと言った。それも、他ならない、ずっと彼と一緒に、聞こえない世界にいた自分が。
(…嫌われて当たり前かぁ)
結局、〈玉ねぎの匂いを嗅ぎすぎて気分が悪い〉というまたしても猛烈に下手な嘘で、
将来の夢
『
翌朝、そんな置き手紙が、ラップのかかった目玉焼きの横に置いてあるのを見て、
〈風疹か…早く治るといいね〉
耳が聞こえないことをいいことに、目の前で差別用語を吐かれ、集団で好き放題言われている自分を見られずに済む。例え聴こえる保護者がいるところではしないとしても、一年中、自分がサンドバッグになっている教室に母が来ること自体が悲しかった。
電車を乗り継いで、波舟校の門を出来るだけそっと潜る。普通に気を抜いて歩いていたら、後ろから偶然を装って体当たりされて、吹っ飛んだ補聴器を壊されたことがある。
「おはよう
「おはようはこの前言ったから、こんにちはの方がいいんじゃないか?さあ、こ・ん・に・ち・は!」
「くぉ、くぉぉん、いぃちぃわぁ?」
小さな声で言ったつもりが、教室中に聞こえてしまったらしく、こちらを見てげらげらと笑う生徒が視界に映る。あの担任になってから、「発声練習」と称した晒し刑が習慣付いてしまった。
(少数者に対するいじめって、どこでも同じなのかな…)
その
(目尻が、赤い…まさか、泣いてた?)
その時、騒いでいた生徒が談笑しながら自分の席に戻って行った。後ろを振り返ると、いつの間にか担任が来ていて、何かを指示していたと分かった。とりあえず、自分も席につく。
黒板に、国語で習っている単元の題名が書かれたあと、ガタガタと皆がテーブルを動かす。戸惑っていると、青白い顔の上戸が、口パクで
(ぐ・る・ー・ぷ・み・ー・てぃ・ん・ぐ)
(グループミーティングか…お母さんが来なくて本当に良かった)
班ごとに机を合わせるが、
それに、複数人が一斉にガヤガヤと喋るミーティングで、雑音が全部補聴器で拡大されるなか、早口の口の動きを見て何を話しているのか察するなんて、不可能だ。軽度伝音性難聴の上戸と下田でさえ難しい。彼らは強張った笑みを張り付けてフンフンと頷いていたが、笑うテンポが一拍遅れているところを見ると、やはり聞こえないけど必死で合わせているのだ。
一年の時の担任は、他の生徒に紙に話の概要をメモ書きさせてくれたが、それですら不十分だったし、新担任になってからは完全にほっとかれるようになった。
(自分だけ、言葉の通じないガラス張りのカプセルに閉じ込められたみたいだ)
目の前で楽しそうに話すクラスメイトを見ながら、
「…、…⁉︎」
ふいに、補聴器に入る雑音がなくなり、目の前の生徒がぎょっとした顔で教室の後ろを見た。
(なんだ?)
〈こんにちは。早く来すぎましたかね〉
担任は一瞬キョトン顔になった後、憤懣やるかたないという顔で、
担任は舌打ちし、また何か口を動かした。通訳者が訳した内容はあまりに酷いものだった。
「参観の時間が遅れることになったと連絡したでしょう⁉︎」
〈電話の連絡網で?すみません、昨日から妻が出張で、
「あぁそうですか!それより教室に第三者を入れないでくださいよ!生徒の情報が外部に漏れるでしょうが!」
〈彼女はプロの手話通訳です。仕事上得たプライベートな情報を外部に漏らすなんてあり得ません〉
「そんなの知りません!保護者以外の立ち入りは禁止!それに手話通訳を珍しがった生徒の気も散るし、退出してください!」
三人の大人に注目していた生徒達が突然、別の一点を注視した。
〈おいこのクソ先公!手話通訳がいなかったらジジイは何も分からんだろうが‼︎それとジジイもジジイだ、参観来なくていいっつっただろ‼︎〉
すると、
〈
〈なッ…!〉
「おい!何を喋ってるんだ!訳せ!」
〈い…じめられてねぇし!何言ってんだ!〉
〈あ、葉梨さん、ここからは訳してください。先生、なぜ息子と
「耳が聞こえないからと特別扱いしたら、こういう子たちはどこででもそうしてもらえるのが当たり前だとつけ上がるでしょう?それに手話を笑いや冗談のネタにしてもらえることも、有り難いことでしょう」
〈は⁉︎〉
あまりの暴言に、今度は
(笑ってもらえるだけ有難いって…僕らは聴者の中では、ピエロのように笑い者の役にさせられてるだけでも感謝しろってこと⁉︎)
〈…先生は、眼鏡をかけていますよね〉
面食らう先生から、
「な!何するんだ!」
〈何するんだは僕の台詞です〉
言葉は丁寧だが、
〈あなたは周りが皆視力がいい生徒の中で、眼鏡を外されて、特別扱いはできない、根性で見ろと言われて納得できるんですか。目を窄める動作を真似られ笑われて、それでも教室にいられるだけ有難いと思えるんですか‼︎〉
ダン、と
だが、四人だけ分かるその手話が、音声に直されることはなかった。訳す途中の通訳者の胸ぐらを、担任が掴んだからだ。
「あっ」と手話通訳者の口が動き、恐れが表情筋に現れる前に、
〈逃げてください‼︎〉
ふん、と荒い鼻息を吐き出した担任は、転げ出てきた
【あなた方は、そうやってギャーギャーと感情的に権利ばかり主張するから、健常者達に疎まれ敬遠されるのだと分からないんですか?大体
〈僕らはただ人間扱いしてほしいだけだ!神様みたいに祭り上げろなんて要求してない、ただ聞こえないこと、日本語が苦手なことをを分かってほしいだけです‼︎〉
【なんて言ってるのか分からんなぁ、
馬鹿にしたように教師にチョークを渡され、
だが、その残酷な静寂をぶち破ったのは
「おぁぉぇに゛ぃなぁにぃ…あ゛ぁがぅぅ⁉」
クラス全員の目が、ギョッとして
「おむぁぇえいだいな゛ぁぢょぅざぁのぜぃでぇ、おぁじぃはぁろぉがぁこぉえ゛ぇあともぉいべぇんこぉぎぃながっ…うッ、げほ、ゴホッ…!」
一瞬の間があって、いじめっ子達が大爆笑の大口を開けた。無理に発話して咽せ、目尻に浮かぶ涙を見た途端、
既読にならないLINE。出張でいない聴の
(もう、自分の声を聴きとる聴力なんか無いのに…喉を潰しながら、言い返せるように発話の練習してたのか…‼︎竜ちゃん…‼︎)
【何を訳のわからん事を喚いとるんだ!聾学校でも、ハツワとかいうものをやるんだろう⁉︎それでこれか⁉︎】
「い"い"がえ"ぇんい"じろ"ぉ‼︎」
今度は
「がっゃんばぁおぃやあんぃ"あぃだいの、ぉじぃあんぉみ"み"ぁいあお"ぉあぉぅみたぁぃでこぉがこぉにぃぁ、あぉ"いぃごんぁぉあんあぢぃあぁ‼︎」
泣き叫びながらだし、声のイントネーションも強弱も分からないし、日本語の文法も怪しいところがあったので、聴者に聞き取ってもらえないことは分かっていた。それでも思いの丈を込めて叫んだ言葉は、いじめっ子達の更なる大爆笑と、担任の嘲笑で迎えられた。
「
担任がこの上なく楽しそうな顔で、普段いくらそうしてくれと頼んでもしてくれない、ゆっくりとした口の形が分かる話し方をしようとした、その時だった。
〈そこまでだ〉
聾の3人以外、椅子から転げ落ちる者も出るくらい、みんなびっくりした顔をしていたので、相当大きな音で引き戸が開け放たれたのだろうと予想はついた。だが、開け放たれた扉の向こうにいた、怒りに燃える3人組は、どう転んでも予想できない面々だった。
〈え…?ろ、聾児の英語教材開発者の栗くるみ…?〉
〈それに…は…
3人組のうち2人の素性を知る聾の3人が完全にポカンとしている前で、栗がうっすら微笑みながら担任に近づく。その笑顔に般若のような怒りが込められているのが3人にはすぐ分かったが、彼女の抜群のスタイルに釘付けの担任は、鼻の下を伸ばすばかりで気づかない。
「こ、こんなしがない中学校にこんな美女が何の用ふぐっ‼︎」
言い終わる前に、彼女のハイヒールが担任の顔面にめり込む。
《「くるみさん、暴力は最後の最後まで取っておくと言ったのはどこのどいつですか」》
〈ごめんごめんショウキ…あまりにドクズだから思わず体が動いたとよ…。それと、この日本語文、間違ってないと…?〉
鼻血を出して喚く担任をガン無視し、小柄なくるみが抱えるサイズのスケッチブックを、ショウキと呼んだ男性に見せ、確認した。そして、栗は精一杯背伸びをし、そこに書かれた内容をクラスの生徒達に晒した。
【おい、ここのクラスの女子達!今までこのクソ野郎に何かされなかった?こいつ、前にいた特別支援学校で、女子中学生の胸を掴んだよ!】
隣のショウキが切り抜きの新聞記事を拡大したコピーを生徒達に見せ、女子生徒が一斉に怯えた顔で椅子ごと担任から逃げた。
「な、何を根も葉もないことを!」
〈根も葉もないってのは、何の根拠も無いって意味よ〉
いつの間にか、
《「根拠がない?相当悪質なセクハラだったにも関わらず、父親が大物議員なのを笠に揉み消し、被害者に知的なハンデがあるのをいいことに虚言扱いしてセカンドレイプしたことがか?まあいい。今のこの三人に対する、許し難い侮辱の数々から、お前の自称冤罪の言い訳は一気に信憑性が薄くなったな」》
無表情だが、瞳が血走るほど担任を睨みつけるショウキが、
〈昨日
《「はあ…はい、どうぞ」》
「ありがとう。早打ッ‼︎」
白杖をついた痩せ型の
〈私の目が悪くなっていく最中、どうしても諦めきれない母が、民間療法として1日玄米一食に加え、10キロのマラソンと50キロのダンベル上げをノルマで課してね。お陰様で今もバッチリ健康体だよ!〉
《「
言葉の内容はやれやれという感じだが、吹っ飛んだ担任を汚物のように見るショウキ。聴者というのは、表情と言葉が全く違うのだから不思議だ。
「な…なんてことをするんだ‼︎障害者だからって何しても許されると思ってんのか‼︎こういう風につけ上がらないように、俺が今から教育してやってるんだろうが‼︎」
叫ぶ担任の言葉を、苦い顔の葉梨さんとショウキが訳してくれる。どんな酷い言葉でも、訳さないことは聾者にとって一番の非礼なのだ。
〈
手話と一緒に、馬鹿にした顔つきで舌を出しながら、くるみが挑発する。
〈あ、申し遅れたけど私はこういう者だよ。名刺を受け取ってもらえるかな。見えなくなってから名刺渡しのポーズを練習したんだけど、お辞儀の角度とか合ってる?〉
「この期に及んで何をほざ…え…T大教授…⁉︎」
担任の顔が面白いほど青くなり、クラスメイト全員がざわついたのが分かった。
《「障害者だから何をしてもいいと思っているだと?確かに、残念ながらそのような考えで生きている当事者も少数いる。だが目の前の彼らは一体何をした?手話通訳派遣の依頼、口の形が見える席の配慮、他人に迷惑がかからない程度でもいいから集団討論でのメモ書き要請。どれも彼らが生活していく上で必要最低限の要求なのに、お前はそれに対してどう応えた?」》
〈手話通訳派遣の制度があまりに不安定なのは、彼らではなく健聴者中心の社会のせいだ。なのに、生まれつき困難を抱えた者への必要最低限の支援すら、本人のわがまま、特別扱い。そして本当に許し難いことに…彼らの日本語能力の低さを論ったね?〉
「い…いえ、そういう訳では!ただこの子達が、このままでは社会で困るだろうなと指摘していただけで…」
さっきの高圧的な態度とは打って変わり、冷汗をかきながら床に正座して頭を下げる担任を、ショウキが腕を捻じ切る勢いで無理やり立たせた。そして、
「さて…〈天保の改革はなぜ頓挫したか答えなさい〉はい、質問に手話で答えてください」
一斉にきょとんとするいじめっ子達と担任に向かって、
〈勿論、日本語対応手話ではダメですよ。手話本来の文法の、日本手話で答えてくださいね〉
「は⁉︎えっ…」
「できないの?ダメだなぁ。バカだなぁ。…君たちが
バァン、と
「彼らの第一母語である日本手話は、聴者の日本語と文法や表現が違う。我々健聴者は、何の努力もせず、聴こえる耳で日常の会話を聞き取っていれば、自然に日本語能力が身につく。だが彼らは一生、どう努力してもそれができない。普段日本手話を目にする機会が無い君たちが、自然に私の手話が理解できるようにならないようにね‼︎」
あまりの剣幕に、生徒も担任も言い返しもできず、じりじりと後ずさることしかできない。
〈君たちはそれだけではなく、彼らの手話を見て笑ったそうだね。ならば君たちも、聾者の集団の中に放り込まれて、一人だけ無表情でパクパク金魚のように口を開閉するだけでバカみたいだと詰られてみればいい。言ったら本当にやってみたくなっちゃった。栗くるみ、この地域のデフコミュニティのメンバーで、都合のつく人を片っ端からこの学校に集める手配してくれる?〉
〈ほーい〉
「な…なんの騒ぎですか⁉︎」
あまりの大騒ぎに、校長が他の先生方を引き連れて、赤ら顔に脂汗をかきながら駆けつけてきていた。
《「これはこれは。確か前の学校で、黒人ミックスや生活保護世帯の生徒に差別的な扱いをして問題になったにも関わらず、「差別の意図は無かった」の一言で無理矢理無罪放免にさせた教頭じゃありませんか。謝罪の1つもなく、ちゃっかりここの校長になられてたんですね」》
ヤクザかと思うような眼光で、ショウキが校長に凄む。
《「なるほどなぁ、こんなのが校長だから、「お前は本当に日本人か」って多方面に差別的極まりない発言が平気でできる教師がのさばる訳だ。…あんたらのせいで、聾の生徒が、大衆の面前で無理矢理口話をさせられる拷問を受けたんだぞ‼︎」》
校長と担任の頭を鷲掴みにし、
《「私からも、本当にすみません。すぐにでも助けに入りたかったのですが、ギリギリまで証拠の録録画のために引き伸ばしてしまったことを、心から謝罪します。お前ら、本当に辛かったな。よく耐えた」》
最後の台詞は
〈えーと、
〈ありがとうございます…‼︎竜ちゃんの分もお願いします‼︎〉
〈ふざけんな俺は泣いてねぇ‼︎〉
もう片方の手を使って
-いや、泣いてます。正確には泣きそうです。でも本人のプライドに障りそうなので、別室で事情聴取しますね。-
そこから
〈彼、凄いタフネスだねぇ…去るべきは虐げられた者では無く、加害した者だとはっきり理解している上、あれほど恥辱の限りを尽くされた教室から立ち去ろうとしないとは〉
〈うぅ、うぅっ、僕小さい頃から竜ちゃんにずっと助けられてきたのに、竜ちゃんがあんな酷いことを言われてる時に全然役に立てなかったぁぁぁ〉
最大雨量150ミリメートルの大号泣が、ようやく100ミリくらいに落ち着いてきた頃、
〈それは違う。あれほど残酷な聴者の群衆の中で、君は堂々と自分の言語、日本手話を使った。苦手な口話を使って、好奇の的になるなら自分だと我が身を投げ出した。昨日あんなことを言ってしまったのを謝るよ。君は弁護士になる為に産まれてきた人間だ〉
びっくりして、涙がピタリと止まる
〈僕が…弁護士に…?〉
〈そうさ。勿論まともな弁護士も沢山いるが、あまりにも弱者の置かれた状況や気持ちが分からなすぎる司法関係者も多い中、君のような人間こそが必要だ!ただし、そのためには日本語の猛特訓が必要!日本手話は勿論ずっと後世に伝えていくべきだが、困っている人を助けるため、日本語を覚えておくことも必須だ。早速明日から君と冷泉竜二、あと冷泉竜二の父も我が聾者の日本語教室に招待しよう!〉
一旦止んだ涙の雨が、今度は嬉しさで再び160ミリメートルになる。
〈その泣き虫も治さないといけないかも…あ、栗くるみ、生徒の聞き取り、どうだった?〉
足音を聞き取ったのか、
〈酷いもんだとよ…。体操服のシャツを直す名目で肌着に手を突っ込まれたり、生まれつきの顔貌を貶された女生徒が5人…。しかも、親が忙しかったり家庭環境が厳しかったりして、保護者が騒がなさそうな家庭の子を狙ってやってるとね…。男子生徒も、家の経済状況や、親に犯罪や浮気や離婚歴があることをクラスの皆の前でバラされた子が6人〉
〈あ、あの担任に虐められてたの、僕が一年の頃ずっと仲良くしてて、二年からもずっと助けようとしてくれてた子達もなんです!なのに…僕はそのことに筆談で抗議する度に『日本語の文章もまともに書けない奴が、とやかく言う資格は無い』って言われ続けてて…うぅぅ…〉
悔しそうに肩を震わす
〈君の日本語能力はぜひ引き上げてあげたいが、苦手な日本語を駆使して必死に友達を守ろうとするその勇気、正義感、やはり弁護士になるべきものだよ〉
〈あら、弁護士志望け…?龍神高校入学予定者の聾の子に、もう一人いるとよ…〉
〈龍?神?〉
〈そうそう、
嬉しそうに
〈いやぁ、手話文化や聾教育の暗黒時代を何も知らない癖に『手話なんて日本語を簡素化した手真似語だ、聴覚口話法を使わない学校なんて認可できない』だの、しまいに『そんなに手話に偏った過激な思想を持ってたら、健常者とケンカになっちゃうでしょう。もっと聾の子に音声言語を教えなさい』なんて言ってくる議員と『手話の本を一冊でも読んだことがあるのか‼︎』『あんたは車いすの子に、そんな物使ってても足の代わりにならない、コケて大怪我してもいいから、普通の授業時間を潰して歩く訓練をする学校に行けって言うのか‼︎』って何度も取っ組み合い怒鳴り合いした甲斐があったよ!それでね、聴覚障害者の更なる社会参画を目指して、君のような将来有望な生徒を募集しているんだ。君さえ良けr〉
〈行きたいです‼︎そこに入学したいです‼︎〉
地獄のような中学生活から助けてくれただけでも夢のようなのに、こんなに嬉しいことが立て続けに起こって、本当に運を使い果たして死んじゃうんじゃないかと思った。
〈そ、それで、僕と同じ弁護士志望の聾の子までいるんですか…⁉︎〉
〈あぁ。五世代続く生粋のデフ・ファミリー出身の女の子なんだけど、彼女も君と同じく『公的な手話通訳派遣の制度が当たり前の世界』を目指してるんだよ〉
〈え、女の子かぁ!デフ・ファミリーなんて、羨ましいなぁ〉
デフ・ファミリーとは、親も子も聾の家族のことだ。ちなみに、聾者の中で、聾の親から生まれてくるのは全体の1割程度と言われている。
〈彼女はずっと聾学校だったが、日本語もはじめから完璧でね。貴重なケースとして、学業優秀者の奨学金制度に加え、『聾者の日本語習得に必要な環境』についての研究材料になるのを条件に、更に授業料を少し減免する対象にしてるんだ〉
〈聾の両親から生まれた聾者が?そんなことってあるんですか…⁉︎だって竜ちゃんのお父さんも…〉
〈ああ…聴覚口話法で聾の生徒に教えていた時代、聾の子は手話をすれば叩かれ、ただ口パク同然の先生の授業を見て学ぶしか無く、日本語はおろか手話も身につかなかった。第一言語も第二言語も中途半端になってしまう、ダブルリミテッドにされてしまった聾者が続出した訳だ。しかし彼女は、大正生まれの聾の高祖父母から脈々と受け継がれてきた日本手話と、厳しい筆談練習を幼い頃から兼ねることで、驚く程高い日本語能力を有することに成功したんだ。つまり、聾者にとっての第一言語である日本手話を習得してこそ、第二言語となる日本語もマスターできるというれっきとした証拠だ。『日本手話なんて文法が無いから、教育に使うな』ってゴタクを並べる議員達の反論材料にしてみせるよ〉
〈す、凄い…‼︎その子に会ってみたいです…!〉
〈ああ…彼女も、弁護士になるにあたって、出来るだけ沢山の聴覚障害の仲間と会いたいと言っている…が、その、少し人見知りをするので、あまりグイグイいかないであげてね。あ、龍神高校については、
〈あ…〉
保護者、という言葉に、ようやくお母さんのことを思い出した。このことを説明するためには、お母さんにもいじめのことを知られてしまう…。
〈君…私のこと知ってるなら分かるやんね?大人になってから、恥ずかしい思いするのはいじめられた方じゃなく…いじめた方とよ〉
くるみの手話を見ながら、
遊び人の父親は、栗くるみが幼い頃無責任に蒸発。その事と、耳が聞こえない事で近所の子から差別されるも、彼女はいつか広い世界に飛び出して、色んな景色を見たいという夢を諦めなかった。お金がないので、レンガ運びなど過酷なバイトをして生活をした海外留学生活の中で、くるみは『日本には、聾児向けの外国語教材が殆ど無い』事に気付いた。そして、『自分のような夢を持つ聾児に、分かる言葉での英語教育を授けたい』と、帰国後手話による英語教育プロジェクトを立ち上げた。
その頃は今以上に聴覚口話法による聾児教育が主流で、関係無い第三者はおろか、聾の子を持つ聴者の親までもが『必死で我が子に口話教育をしているのに、手話の英語教材なんて』とくるみを批判した。だが、誰ならぬ聾児達本人が、『栗くるみ先生の英語が1番分かる』とレビューを行ってくれたのだ。徐々にネットで話題となり、やがてくるみは『画期的な聾児の英語教育方法を開発した偉人』として、メディアに取り上げられる人になったのである。
〈私をいじめてた男共は…私が有名になったら、『実は昔から好きで意地悪してたんだ』とか言って擦り寄ってきたとよ…。私のアカウントのDMに、一方的に送りつけてきた自撮りと口説き文句があまりに見苦しかったけ…虐めの内容と一緒にインスタに上げてやったとね…〉
もったりスローペースな手話で、『見苦しい』を、顔を顰め、額に当てた手の下から覗く動作で表すくるみ。この辺りではあまりしない表現だ。どこの地方の方言だろう?
「た、たつお…」
パッと準備室の扉が開け放たれ、パート先の制服も着替えていない
〈おかあさ…〉
〈お母さん。あなたが謝ることでは無い。悪いのは聴覚障害の学生の学びの保障が全くなされていない制度と、聾者や手話に無理解な健聴者の教師と生徒です〉
ひとしきり親子が抱き合い泣き合った後、
《「む、
〈お宅の息子さんは素晴らしいですな。私を目的地までバスで案内してくださったのですが、誘導のスピード、肩に手を載せ半歩前を歩くこと、何もかも完璧でしたよ。その上指点字までマスターしているとは、凄いの一言だ〉
《「
〈…穏やかな人柄に似合わず、なかなか壮絶な思いをされたようですな。しかし、これ以上貴方に辛い思いはさせますまい。こちらに立ち上げた手話サークルの面々が、前の校長先生が作ったボランティア制度を利用して、
《「あ、ありがとうございますうぅぅ‼︎
飛び上がる親子に、
もっと聴覚障害者の社会参画が進んでいるアメリカなどでは、公費負担で、聴覚障害の学生には手話通訳がつくのが当たり前だ。ところが日本は、一応一定の割合で公費負担はあるものの、実情は学校や地元行政の努力に任されていて義務ではないという、あまりに不安定な状況だ。どうしても学びたい科目を日本語で教えてくれる教師がいなくて、グロンギ語やマサイ語の学校に通う日本人に、『通訳が付くかどうかは校長や市の人がいい人かどうか次第。付かなくても我慢しなさい、贅沢だ』と言われているようなものである。しかも、グロンギ語もマサイ語も、時間をかけて努力すれば聴者は何とか理解できるようになるが、聾者が音声語を理解するのは一生できないのだ。
〈それでお母さん…先程黒ショウキからもちらと話があったと思いますが、私がようやく今年、手話文化に無理解な議員を説得し、時には拳を交えて誕生させた龍神高校に、
《「あ…やっぱり、
珍しくキッパリと言い切った
《「龍神高校では、通常の学業の他に、社会の聴覚障害者への差別についても問題提起し、社会運動を起こす活動もしてるのですよね」》
〈は…はい、そうです。聴覚障害当事者、またはその家族や支援者を目指す学生が自ら抗議活動をすることで、普段無関心な健聴者に、どれだけ彼らが日常的に不便を強いられているかを知ってもらうのです〉
《「両親が不和になってから産まれた私は、小さい頃から邪魔者扱いでした。怠け者の親の代わりに家事全てを押し付けられ、たまに本でもゆっくり読もうと自室に篭れば、父に引き摺り出されて殴られたものです。兄も加え、私の話が通じる人は、家にいませんでした。兄のやった悪戯は全部私のせいにされ、いくらやってないと弁解しても、下着で外に放り出されました」》
《「でも、近所の優しいおじさんおばさんが、放り出されて泣いている私を見つけては、自分の家に匿ってご飯を食べさせてくれました。友達の家族も、運動会で兄の分だけお弁当を作って、私にはアンパン一個しか持たせない両親の代わりに、作りすぎたと言っておかずを分けてくれました。同じような家庭の子と、親の愚痴を言い合えました。バイト代を親に取られると知った店長は、大部分をお店で預かってくれて、高校卒業の日に利子付きで返してくれました。私を住込で働く旅館に送り出す時、高校の先生達は、拷問されても両親に私の居場所は漏らさないと約束してくれました。彼らのところに逃げ込めば、私にはちゃんと話が通じる人がいたんです」》
〈なんという…〉
それでも、近所の人も見て見ぬふり、学校でもいじめを受け、先生からも「どんな親でも敬わなきゃいけないだろう?」と言われるケースもあるのだから、
《「けど、
《「家で私が家族に『たまにはバイト代を家に入れるんじゃなくて自分で使いたい、私もお兄ちゃんみたいに大学に行きたい』って言ったら、凄い勢いで『搾取子の癖に生意気だ』って罵倒されるんです。でも、先生や友達はこぞって『おかしいのは親だから、君は悪くない』って言ってくれました。…でも、
涙を溜めた目で、しっかりと
〈勿論、『子どもをダシにして「弱者特権」を振りかざそうとしている』などと言う者も出ることは、予想済みです。ですがこちらは弁護士も携えて、そのような不届き者から全力で生徒達を守る事を誓います!しかし何より、今の社会、
激しく手と表情を動かす
〈弁護士に相談したい聾者は、全国に沢山います。しかし、聾文化と聴文化との違いから、言いたいことを曲解して受け取られてしまったり、聾教育の暗黒時代のせいで言語が十分に身につけられず、主張したいことそのものが上手く言葉にできない聾者も多くいるのです。どうか…そんな彼らを救うために、龍神高校に
そうして真摯に頼む
続いて
[冷泉
あれほどのことがあったのに、なんて勝気で気の強い母子なんだと驚きながら、
そこで、
〈大学に行くため、塾にも入りました。でも、先生は感音性難聴で音が歪んで聞こえることを理解してくれず、『補聴器をしとるんなら聴こえるだろう』と最後まで誤解したままでした。僕を迷惑がった同じ塾の子が、僕にわざと試験がある日が休日だと教えたことも、先生が放送で周知した事項を僕だけ把握してなくて、『なんで聞いとらんのだ』と叱られたこともあります。大学に入学後も、手話通訳をお願いしたら『大学は自ら学ぶ場だ、障害者のための配慮など考えておらん』と言われ、結局ほぼ独学でしたねぇ〉
苦労の末入社した、建築会社の図案構成部署でも、苦難続きだった。
〈日本語がおかしいと罵倒されるんです。そのうち、メールでも子どもに言うような口調で命令されたり、目の前で文章がおかしいことを口で言われたり。それだけじゃなく、社内のちょっとした雑談にも加われず、筆談をお願いしても『お前は日本語がおかしいから』『お前には関係ない話だ』と疎外されて、辛かったなぁ〉
一流企業に就職した聴覚障害者の40%が、このようなコミュニケーションの困難や誤解によって、五年以内に離職している。さらに企業側も、『コミュニケーションは取れないし、安全管理は任せられないし、障害者雇用率を満たしていない罰金を払ってでも、もう聴覚障害者は雇いたくない』という所もある。
〈本気で辞めようかと思っていた矢先、
《「当時は建築業界に来る女性の数が少なくてね。毎日のように、いつ結婚して辞めるのかだの、女は能力が無いだの言われました。挙げ句の果てに、私の方が営業成績が良いのに、ずっと仕事ができない男社員が先に出世した時、普段穏やかな
お互いに惹かれあった2人。
〈建築業界で使う定型文の日本語文は、
《「その後すぐに
俯いて肩を震わす
〈ご両親は悪くない。「聴者に近づけなければ、聾者は幸せになれない」と、誤った認識のもと、聾者から手話を取り上げて口話を強制した聴者達の教育のせいです。そして、聾者への日本語教育をする場があまりに少ない社会の問題です。せめてこれからは、私に冷泉少年の日本語教育をお任せください。そして、才能溢れる彼の、医者になりたいという夢を後押しさせてください〉
《「はい…はい。お願いします。あの子はそれ以外のことは何でもできてしまうから、慢心してしまった部分もあると思います」》
〈本当によろしく頼みます…。あの子は小さい頃から、病院で僕がどんなに不便をしていたかをよく見てるんです。聞こえないことを受付で言ったのに、何時間待っても呼ばれないので聞きに行ったら『お呼びしましたが、返事が無かったので』と言われたり、医者が何故か筆談を異常に嫌がって、大きな声で言えば聞こえるだろうと勘違いして、病院中の人に筒抜けになるような大声で検診結果を叫ばれたり。表向きは『聾者は聴者の半分くらいの給料で、それでも幸せですと笑ってろっつークソ健聴者を見返す』と言ってましたが、きっと僕のために…〉
そこからの
まず、担任と校長は、日本最高峰大学教授の直訴に腰を抜かした教育委員会が重い腰を飛び上げたことで、正式に処分が下された。それから、
〈しかしながら、発達障害やHSP(ハイパーセンシティブパーソン・生まれつき繊細で敏感な感性を持つ人)など、狭い教室に過度に多い視覚刺激があると気が散ってしまう生徒もいる。そのような生徒と聾の生徒、両方快適に過ごせるようにしなきゃね〉
地獄のような一年半の勉強の遅れを取り戻す傍ら、2人は放課後は毎日
〈名詞の前にきた時、『長い』のようにイ型になるものと、『きれいな』のようにナ型になるもの。否定形になった時、『じゃない』『くない』に分かれるもの。『あげる』『くれる』『もらう』など、自動詞と他動詞に分かれる接受表現。日本手話を知っていれば、この違いが聾者にとっていかに難しいものか分かるだろう。それに、手話に丁寧語、尊敬語、謙譲語などと言った区別はない。『言う』が『おっしゃる』『申し上げる』などに変化するのも、手話では全て人差し指を口の辺りから前に出す表現一つで表せてしまう〉
〈『もし』というのがついたら、『たら』『なら』が付く。『に』は存在と状態の場所、『で』は動作と出来事の場所を表す時に使う〉
〈『私が』と『私は』も、手話では同じだが、『は』は主題が私であり、『が』は複数の中からピンポイントで名乗り出る時の助詞だ〉
日本語の複雑さに頭を抱えつつも、必死で齧りついていった結果、
【
日本語の文章が上手くなって嬉しかったのは
《「いやぁ、俺らなんも出来なくてごめんな。実を言うとあの担任になってから、俺らも補聴器使ってるからって一部の奴等からバッサリ線引かれて辛かったんだわ」》
《「すげーな、あの
上戸と下田はそう言って別れを惜しんでいたが、龍神高校が開校直前、『聾者でありながら、様々な理由で日本手話を教えられていない者もいる』ので、日本手話を使えない者も補習をする条件で入学可能となったと聞かされた。
〈それと
ホームページの写真を見てみると、確かにボロボロの校舎に所狭しとガラクタが散らばっていた。
〈
そう思うと、感慨深かった。かくして、日本一給料の低い高校教師の座にくるみとショウキが着き、日本唯一の日本手話の高校・龍神高校が始動したのである。
龍の耳の英雄 @tukimibaku
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