タヌキの一期一会

尾八原ジュージ

タヌキの一期一会

 わりとガチ目の田舎から上京してきた私は、たとえばタウン誌なんかで見る「緑豊かな武蔵野」みたいな表現に、少し違和感を覚えてしまう。

 なるほど、確かに「武蔵野」という単語は「広大な原野」のイメージを持っている。が、私はそれと同時に「都会っぽさ」をも連想せずにはいられない。

 今私が住んでいる三鷹市のあたりなど、確か不動産広告で「武蔵野エリア」と呼称されていたはずだ。だが、たとえば野川公園のような美しく整備された施設を見ると、納得というよりは「東京でいう緑豊かってこんな感じなのかぁ」などと異文化に接したような気分になる。少なくとも周囲360度を山に囲まれていたり、車で鹿をはねたりすることはあるまい。


 が、ある天気のいい日曜日、調布駅前から乗り込んだ路線バスでタヌキと乗り合わせたときには「この辺もなかなか自然が残ってるんだな」と思った。ただ、そんなことを言ってる場合ではないような気もした。

 タヌキが乗ってきたのは、調布駅北口から発車する直前だった。見るからにタヌキだった。黒と茶色の体毛にずんぐりした体型、黒い瞳。完全に動物園で見るようなやつで、ロボットや着ぐるみの類には見えない。生きた、本物のタヌキである。

 タヌキが乗車してきたのにも関わらず、周囲の人たちが騒がないのが不思議だった。でも実際、こう当たり前のように来られるとツッコミにくいものかもしれない。いきなり「タヌキだ!」と騒ぎ立てたら迷惑だし、その上誰かに「タヌキですが何か?」などと言われてしまったら、私の中で築かれてきた常識が滅茶苦茶になってしまう気がする。とにかく何も言えなかった。

(とはいえタヌキじゃん絶対そうだよどう見てもタヌキだよ)

 と内心では大騒ぎしながら黙ってドキドキしている間に、タヌキは人間みたいな二足歩行で、なんと私が座っている二人がけの座席の方に向かってくる。ああ隣が空いてるものねと思ったそのとき、タヌキが「すみません、お隣よろしいですか?」と声をかけてきた。滑らかな標準語だった。物腰は礼儀正しく、よほど清潔にしているのか獣臭さもない。よって私は「どうぞ」と答えた。

「ありがとう。失礼します」

 タヌキは私の隣に器用に腰かけ、人間よりはずっと短い後ろ脚をプラプラさせながら、お腹の毛の中にICカードをしまい込んだ。一体どういう仕組みになっているんだろう? と思わず目を奪われていると、タヌキは同じところから一冊の文庫本を取り出した。ものを出し入れするときだけは、微かに獣らしい匂いが漂った。

 タヌキは静かに本を読み始めた。表紙には『武蔵野』とある。タヌキは国木田独歩が好きなのだろうか? それとも「武蔵野エリア」に合わせてきたのだろうかなどと考えていると、突然「どうかなさいましたか」と声をかけられてしまった。どうやらジロジロ見ていたのがばれたようだ。と同時に、タヌキとはいえ他人をジロジロ見るのはよくないということを、私はようやく思い出した。

「いや、その、えーと……気になってつい。すみません」

 下手な言い訳をしながら謝ると、タヌキは「いえ、お気になさらず」と首を振った。

「た、タヌキさんは本がお好きですか?」

 黙ると気まずい、と思って話しかけてみた。タヌキは本をぱたんと閉じ、ゆっくりとうなずいた。

「そうですねぇ、本は好きです。お嬢さんもお好きですか?」

「ええ、まぁ」

 読書家というほどではないが、好きか嫌いかと言われたら好きな方だと思う。

「本はいいものですね」と、タヌキは語り始めた。

「月並みな言い方かもしれませんが、読書をしているとまるで旅に出たような気分になります。たとえば今も、作者が見た武蔵野の風景の中にいるような気分でした。作者が美しいと思ったものを、私も美しいと思う。生きた時代すら違う、まったく知らないひとのはずなのに。不思議です」

「読書を邪魔してしまってごめんなさい」

 私がまた詫びると、タヌキは「いいえ、とんでもない」と言った。

「こうした一期一会もまたよいものです。この本は後でも読めますが、あなたとは今しかお話しできない運命かもしれません」

「なるほど」

 そう返すとタヌキは「うふふ」と笑った。「ママ、たぬき」

 幼い声が聞こえた。前の席から四歳くらいの女の子がこちらを振り返り、かわいらしいほっぺたを背もたれにくっつけている。女の子の隣に座っていた母親がちらりとこちらを振り向いたが、「ひとをじろじろ見たらダメよ」と女の子に注意して前を向かせた。

「バスの中では静かに。ミミちゃんをだっこしててね」

 母親は女の子にお人形を持たせ、もう一度こちらを振り向いて「すみません」と頭を下げた。

「いえ、お気になさらず」

 タヌキはまたそうやって返事をした。

「子供さんに見られることはよくありますが、けっして嫌ではありません。おじょうちゃん、タヌキはお好き?」

 女の子はくるっとこちらを向いて、「うん!」と答えた。これもまた一期一会なのだろう。

 タヌキは富士重工前で下車していった。ステップを降りきるとすぐに四つ足になり、さっきまでのおっとりとした口調が嘘のように機敏に走ってどこかに姿を消した。

 少し先には国際基督教大学のキャンパスがあり、まるで広大な公園のように豊かな木々の緑に覆われている。読書好きで話好きのタヌキは、もしかすると大学構内に住んでいるのかもしれない。

 ふたたび走り出したバスの中で、私は本を手に学生たちと語り合うタヌキのことを想像する。(楽しそうだな)などと勝手に思って、ついマスクの中で笑みがこぼれる。私もバッグの中に本を入れておこう。次にまたあのタヌキと会えたとき、自分の好きな本を紹介できるように。

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