Up To You/君次第 ⑤

「シンランっていう、ドラッグがあるの」


 手巻き煙草式のドラッグ。中毒成分が非常に吸収しやすく、副流煙には有害物質は多けれど、中毒作用はない特徴がある。


「それを私の親が愛用しているおかげか、あるいはそのせいか、私は中毒者ジャンキーにならなかった」


 まともだったソフィアには、あの国の、親との価値観が合わなかった。


「クスリやってて言うのも変だと思うけど、あいつらは多分ライベックではまともな方」


 昔も中毒症状による暴力行為ならあったけど、それくらいなら耐えられた。わざとじゃないとわかっていたし、正気に戻った後に謝って優しくしてくれた。

 また、家には本が沢山あった。まともな人が書いた本。まともな人が登場する小説。歪な価値観が根付いているライベックで、ソフィアが人並みの倫理を身につけられたのも、そのおかげだろう。


「私がクスリさえ拒否しなければ、ここまで酷いことにはならなかったと思う」


 幼少期の頃も、それとなくシンランを勧められたこともあったけれど、まだ平気だったんだ。シンランの中毒成分は、初経が来る前の女児が吸うと高確率で不妊になることで有名だったから。そのくらいの分別はある人間だった。


 しかし、ソフィアが十二歳の時。ソフィアの身体が大人になったサインを示した日。ズレている価値観を誤魔化しながらも平穏を築いていた日々が、唐突に壊れた。


 親にシンランを強要された。親には、ソフィアが初経を迎えた時点でそうしない選択はなかったのだろう。いつか来るとはわかっていた。当然、ソフィアは拒否した。無理矢理吸わせたら死んでやる、とまで言い切って。実際、ナイフを自分の首に突きつけたこともあった。


「中毒は回避できたの。でも、その日から生活に悪意が加わった」


 自分達が愛するシンランを拒否した娘を、親は異端のように扱い始めた。強制が無理なら、耐えかねて自分からシンランを求めるようにするまでだと。


「泣いて止めるように乞うといつも言うの」


『吸ったら止めてやる。楽になれるぞ』


 事実、その通りだったのだろう。プライドなんてポイって投げ捨てていれば、身体に刻まれた鼠の足跡のような無数の傷は、胸中で死を燻らせている黒い肺は、きっと存在しなかっただろう。


「わかってる。あの国でおかしいのは、私の方なんだって。それでも私は吸いたくなかった。まともな人間でありたかった。くだらない、ちっぽけって嗤われたプライドでも、私は大切にしたかった」


 でも、


「まともでいるには、私の国は生きづらすぎた」


 仄暗い夢を見始めたのはいつだったか。最初は確か、朝起きたらあいつらが脳卒中で死んでる夢だった気がする。


「何度も、何度も、夢で殺した」

 ソフィアに煙を吹きかけ笑ってる顔が、急に苦しげなものに変貌するのだ。そして胸を抑え、汚い声で唸りながら床に転がる。


「何度も、何度も、妄想で殺した」

 シンランを吸う。そういうとあいつらは本当に嬉しそうな顔をする。そんな有頂天な表情を、苦悶なものに変えてやる。

 肉を裂く感覚。生暖かい液体。赤に汚れた己の手。


「私はもう、まともじゃなかった。限界が近かった」


 あいつらは虐待を楽しみ始め、幼い頃は僅かにあった気がしたはずの愛情は消え失せたのだろう。


 換気が不十分な室内にソフィアを閉じ込め、そこに副流煙を流す。あいつらのお気に入りの虐待は、ソフィアの肺を犯し尽くした。死期が近いことを悟った。

 そんな時期に、金だけは持ってたあいつらは、ソフィアを医者に連れて行く。

 案の定、危険な状況だった。余命はわずか。手術もリスクが非常に高く、十人に九人は死ぬらしい。


「それであいつらは言う」


『吸うと約束するなら、手術の金を出してやる』


 ソフィアが十七年守り通してきた尊厳で、生きられるたった十パーセントの可能性を買えと。


 もう、限界だった。


「運が良かった。私は偶然、ナイフ以外の手段を得られた」


 あいつらの通帳の番号を盗み見ることができた。金を全部自分の口座に移し、親の目につかないように、

「私は逃げた」


 あいつらの目が届かないところまで。自分の尊厳を守れるところまで。逃げて、逃げて、逃げて、逃げ続けて。忘れられるように、ソフィアは新たな思い出を積み続けた。


 だけど、


「私はあいつらを許せなかった。逃げたら終わるって、忘れられるって信じてきたけど、意味なかった。今すぐライベックに戻って、この手で殺してやりたい」

「うん」


 カメリアはずっと頷いて聞いてくれる。ソフィアのとは程遠い、綺麗で無垢なその瞳で。


「だけどね、それはダメなことはわかってるし、私はまともでありたい。あいつら以上のクズになんてなりたくない」

「うん」

「わかってるよ。理性ではわかってるの。でもね、」


 あいつらの下卑た笑い声が、死へと誘う煙の匂いが、仄暗い赤に染まった殺意が、


「こびりついて、離れないの……」


 綺麗なカメリアが羨ましかった。もしソフィアも、こんな理想郷で産まれる運命だったらと、どうしても思ってしまう。


「アプトフォルスでなら、どうしようもないこの気持ちも、変えられると思った。たとえあいつらを殺してしまう運命だったとしても、矯正してくれたら、きっと忘れられ……いっ!」


 突然脳天を貫いた痛み。揺れる頭を両手で抑えて見上げると、険しい面持ちの不良警官が手刀を構えていた。

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