第5話 都市国家ニーダーハーフェン

 幸運なことに、ブルートを出てから一度も吹雪に遭わなかった。雪雲はそんなに厚くなく、時々青空がちらちらと見えた。そのため、ブルートとニーダーハーフェンをたったの三日という最短の日数で移動することができた。


 カールは神が自分に味方してくれているように感じた。もしかしたら同行者のマンフレートの普段の行いがいいからという可能性もあるが、彼と友情を結べた自分の徳というものもある。鉄血同胞団も、普段の素行は悪いけれど、今回の旅路では、カールの前では普通の成人男性として振る舞ってくれていた。


 この移動中、カールは一度も身分を明かさなかった。ブルートの外では、自分がクラウス皇子の息子であることを知られたら騒ぎになることは理解していたからだ。


 そもそも、名乗る必要もなかった。


 宿を手配してくれていたのはラーシュだった。

 外部の人間に何かを言われたら、カールはラーシュの息子として振る舞った。

 ラーシュは頼りがいのある男なので、正直なところ、クラウスの息子と呼ばれるより少し気が楽だった。たまに、同じ素行不良でもだらしないクラウスよりしっかり者のラーシュのほうがよかった、などと思ってしまう時もあったぐらいだ。


 クラウスのことは恋しい。彼はカールにとって大切な人だ。しかしそれと父親を思う気持ちが簡単に等号で結ばれることはない。ラーシュもそうだし、ヴォルフもそうだし、騎士団や鉄血同胞団の大人たちすべてが父親であるように思う。


 血のつながりはそんなに大きなことではない。


 血がつながっていようがいまいが、カールにとってクラウスは家族なのだ。




 ニーダーハーフェンは大きな港町だ。しかし、ひとつの街がひとつの都市国家なので、面積としてはロイデン帝国最小クラスの国である。狭い範囲にブルートと同じくらいの人間がぎゅっと詰め込まれていて、人口密度の高さで呼吸困難になりそうだった。


 冬だというのに空はよく晴れており、青い空と青い海が見えている。その青の濃度が空と海で微妙に違って美しい。


 大通りにはカラフルな三階建ての建物が並び、細い裏通りにはその建物と建物の間にロープが張り巡らされていて洗濯物が干されている。


 国際港の垢抜けた雰囲気に、カールは圧倒された。これが本物の都会なのだ。ツェントルムも都会ではあったが、まったく出歩けなかったので、ラーシュとマンフレートと歩き回れる今は気分がぜんぜん違う。市場を冷やかし、教会をめぐり、カールは一日楽しく過ごした。


 だが永遠にそうしてばかりはいられない。自分はクセルニヒに行くためにここに来たのだ。ここは通過点である。


 次の日、カールはニーダーハーフェンの元首のもとに向かった。


 ニーダーハーフェンは都市国家であり、自治都市として実質的には共和制のような体制を取っているらしい。

 ブルートにいた時によく勉強したので知っている。

 ニーダーハーフェンの長は元首といい、話し合いで選ばれることになっていた。

 政治家として税金から報酬を受け取っているので豊かな生活をしているようだが、基本的には貴族でなくてもなれるものなのだそうだ。身分ではなく職業だという。立場上必要に迫られて、ではなく、自ら選んだ仕事として政治をするとは、すごい世界だ、と思う。世の中にはいろんな国家形態があるものだ。


 その元首に会いに行政府に行き、ヴォルフの名前を出して元首との面会を取り付けた。これは傭兵であるラーシュには頼めないので、マンフレートと協力しつつ、カールが自力で行った。


 元首のアルベルト・エッケホーフは六十歳前後の恰幅のいい男性で、まだ張りのある若々しい肌と真っ白な髪、真っ白なひげをしている。豪華なコートを着ていて、まるで貴族かのようだ。平民と変わらない服装で執務を取っているヴォルフを思うと、アルベルトのほうがよっぽど裕福そうである。


「やあ、カール殿下、お初にお目にかかります。お会いできて光栄です」


 そう言って、彼は人好きのする笑顔で太い指のついた手を差し出した。どことなくひょうきんそうなトーンの声だった。カールはためらうことなくその手を握った。


「ヴァランダン辺境伯閣下が書かれたという文書を拝見しましたよ。あなたさまを本物の皇族として遇させていただきましょう」


 過分な対応に少し引き気味に「ありがとうございます」と言う。


「そんな簡単に、いいのですか? ヴォル――叔父上の手紙だけで信用していただけるものなのでしょうか」


 アルベルトが「ほほっ」と笑う。


「いえね、私も二十年ほど前に仕事の関係でツェントルムに住んだことがあるのですが、その時にクラウス殿下にお目通りしたことがあるのですよ」


 心臓が、跳ね上がる。


「カール殿下は当時のクラウス殿下と同じ顔をしておいでです。ここまで瓜二つだと、よくお父様にそっくりだと言われるでしょう」

「いえ……、気づかなくて……」

「そうですか。不思議なこともあるものですね。案外本人はそういうものかもしれませんが」


 手を離すと、アルベルトはカールに「お座りください」と言ってソファを勧めた。


「ご滞在に必要なものは私が手配しましょう」

「そこまでしていただいてもいいのですか?」

「その代わり、ニーダーハーフェンをお引き立てくださいませね。恩を売るわけではございませんが、我々ニーダーハーフェン政府がカール殿下をおもてなしさせていただきますので、どうぞよしなに」


 口ではそう言いながらも、これは、恩を売っている態度だ。彼はカールが将来皇帝になることを見越して物を言っているのである。ニーダーハーフェンだとブラウエへの船便も就航しているはずなのでそのつながりでディートリヒを推してもよさそうだが、政治の世界は複雑だ。


「では、あの、さっそくなのですけれど」


 ソファに座り、膝の上で拳を握り締めつつ、カールは言った。


「ゲルベス行きの船に乗りたいのですけれど、それも手配していただけますか?」


 すると、アルベルトは目を細めた。その目つきが試すようだったので、カールは内心動揺したが、悟られないようにずっと背筋をぴんと伸ばしていた。鉄血同胞団のみんなに、野生の世界では弱みを見せたものから食われる、と教わった。ここはブルートの外だから、食われないように気をつけないといけない。


「残念ながら、それは」


 アルベルトが首を横に振る。


「実は、ゲルベス情勢が悪化しておりまして、つい先ほど渡航禁止令を出したところなのです」


 予想外の展開だった。


「先ほど、ですか?」

「今日の朝です」


 なんと間が悪いのだろう。


「ニーダーハーフェンとゲルベスをつなぐ定期便はしばらく運航停止です。そんな中でお客様を乗せた船を出すわけにはまいりますまい」

「ちょっと待ってください」


 カールの斜め後ろ、ソファの近くに立っていたマンフレートが声を上げる。


「先週兄のグレゴール・アインツがゲルベスに渡ったはずなんです。でもそれでは帰ってこられないということですか」


 アルベルトは少し低い声で答えた。


「確かにグレゴール・アインツ殿は我が国の船でお送りしましたが、お迎えまではお約束いただいておりませんな」


 カールとマンフレートは言葉に窮した。


「だからといって、まだお若い弟君に助けを求めるほど情けない騎士には見えませんでしたが」

「まあ……そうなんですけど……」

「とにかく、あなたがたにはニーダーハーフェンから出ないでいただきたい。この街のどこかにいる限りは我々の保護下にありますが、一歩でも出たらあずかり知らぬというものです」


 釘を刺されてしまった。それは聞き分けのない子供を諭す祖父のような声音だったが、カールとマンフレートは不満だったのでなびかなかった。




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