第9話 父も母もお前を世界で一番愛している
クラウスの熱は一日で下がった。
これで日常生活が送れるかと思っていたら、またふらっと出掛けてしまった。なかなかいつかない男だ。
心配ではあった。彼に火傷を負わせた恐ろしい人物がまた彼を傷つけようとしていたらどうしよう、という不安があって、時々、足元が抜けるような感覚を
けれど、彼も大人の男性だ。放っておくべきだ。あまり束縛してはいけない。
自由に生きてほしい、と思う日もある。何物にも囚われずに、平気な顔をして暮らしていてほしい。
そういう平気な顔をした大人たちが、カールの平和な日常を支えてくれている。
そう思っていた。
いよいよ明日は夏至祭だ。老若男女が家の外に出て夜通し太陽の栄華を
今年はクラウスと過ごそう、と思った。
何を企んでいるのかは知らないが、ずっと時をともにしていたら離れがたく思ってくれるに決まっている。もう少し真剣に向き合えば、カールをよそにやろうとは思わなくなるに違いない。自分はどこにも行きたくないということをせつせつと語ろうと思った。
何度でも、何度でも、説明する。
カールは、ヴァランダンで家族とともに生きていく。
だから前日、春や秋ならば夜の時間帯にクラウスがカールの部屋を訪ねてきた時、カールは嬉しかった。明日こそは一緒にいてほしいと言おうと思って、喜び勇んでドアを開けた。
しかし、カールはドアノブをつかんだまま硬直した。
クラウスが旅装に身を包んでいたからだ。
夏だというのに生地の厚いシャツとズボンを身に着け、マントを羽織り、ブーツを履いている。左肩に背負った荷物はさほど多くはなかったが、腰には剣を帯びていた。
「どこかに出掛けるのですか?」
「ああ」
「どこに?」
「いろいろと回るつもりだ。とりあえず当面はロイデンの外にいると思う」
「遠くに行くのですね……どうして?」
クラウスの碧の瞳が、カールの碧の瞳をまっすぐ見下ろしている。
「お前にすべてを与えるためだ」
何を言っているのか、わからなかった。
「僕には、親以外のすべてがありますけれど……」
クラウスの右手が伸び、カールの黒髪を撫でた。
「出掛ける前に、お前にとても大切なことをみっつ話さないといけない。聞いてくれるか?」
「もちろん」
「笑わないで、疑わないで、ちゃんと真正面から聞いてくれるか?」
「はい」
彼があまりにも真剣なので、茶化すことができない。こういう時は余計なことを言ってはいけないのだと、ヴォルフに教わった。
クラウスは、左肩に荷物を背負ったまま、両手でカールの両腕をつかんだ。細く、だが深く、息を吐く。
「まずひとつめ」
唾を飲んだ。
「お前の父親は俺だ」
息が、止まる。
「お前は俺がローゼと作った子供だ。俺が、お前の父親なんだ」
言葉を失った。ふざけることなどできなかった。頭の中が真っ白になった。
「……嫌?」
クラウスの口元が、少しだけ笑う。
だが、おかしくはない。クラウスは十五年前からこの城にいて、ロスヴァイセと面識があった。けれど、城の人間や騎士団の面々はクラウスを嫌っている。彼が辺境伯家の姫君を妊娠させたからだったのだろう。しかしヴォルフはクラウスのすべてを無条件に受け入れている。姉の夫で義兄だからか。
ヴォルフは、カールはやりたいことすべてにクラウスの許可を取れ、と言っていた。
それは、父親であるクラウスがカールの人生に責任を持っているからだったのか。
クラウスが、碧色の瞳で、カールを見ている。その色はカールと同じだ。黒い髪も同じだった。ロイデン人としてよくいる色味だと思っていた。けれどそれには、本当は、大きな意味があったのだ。
父親似の自分は、クラウスに似ているのか。
声を出さぬままぐるぐると考え続けていると、きりがないと思ったのだろうか。クラウスは「ふたつめ」と言って話を次に進めた。
「実は、俺は皇子様なんだ」
「はあ」
すっとんきょうな声が出てしまった。
クラウスは真剣だ。
「ツェントルム王室に――ロイデン帝室に生まれた。先帝の第九子、第六皇子だった。間がみんな早死にしたので、今生き残っているのは姉のエヴァンジェリンと兄のルートヴィヒと俺だけだけど」
兄のルートヴィヒ、とは、今病床にいるというルートヴィヒ帝のことか。
「これは、今はヴォルフとナンナしか知らないことだ。俺がお前の父親であることに気づいている人間は大勢いるけど、俺の生まれについては、お前もひとには言わないように。お前にも危険が及ぶ、ほぼ確実に」
語気が強くなる。
「兄のルートヴィヒは庶子で、愛人の子だった。そして、正妃の子である弟たちを殺し尽くした。たぶん俺のことも殺したと思っている。邪魔者をみんな葬り去って帝位についた」
目を細め、「だから」と続ける。
「本当は、正妃の息子の中で唯一の生き残りである俺が正統な皇帝であるはずなんだ」
それが、ヴァランダンで何も持たぬ居候として暮らしている。
「ひょっとして、クラウスさんの火傷は、その、お兄様が――」
「そういうことだ。兄が放った刺客が、俺に油をかけて火をつけた。あの時のことはあまり思い出したくないので、詳しく知りたかったら助けてくれたヴォルフに訊くといい」
カールはがくがくと二度頷いた。
「もし俺が生きていることを知ったら、兄は今度こそ俺を絶対に殺そうと思うだろうし、お前のことも、万が一帝位を主張したら、ということを念頭に置いて殺しに来る。だからお前が帝室の人間であることを誰かに知られてはいけなかった。……それで、お前自身にもずっと黙っていた」
どうして、という言葉を飲み込んだ。
どうして信用してくれなかったのですか。僕はそんなに弱い人間ではないですよ。秘密は守りますし、自分の身は自分で守れます。何より、あなたのその孤独を分かち合いたかったですよ。
その言葉は、口にできなかった。
兄に油をかけて火をつけられる、という想像を絶する痛みと苦しみを味わったクラウスが兄を恐れないわけがないからだ。
彼は彼なりに恐怖と戦ってこの選択をしたのだと思うと、尊重しないといけない。
「あの指輪は持っているか?」
「はい」
頷いて、自分の襟元をつかんだ。服の上から指輪を握り締める。クラウスが「いい子だな」と褒めてくれた。
「それは代々俺の家系に伝わる家宝で、皇帝になる皇子だけが継承するものだ」
変な声が出そうになった。
「俺が唯一持ち出せたものだった。それを、お前にやる。つまり、それを持っているお前が、現在の本当の皇帝なんだ」
「そんなものっ」
「大切にするようにな」
クラウスの手が、再度カールの頭を撫でた。
「みっつめ。最後に」
碧の瞳が、優しい。
「俺も、ローゼも――父上も、母上も。息子であるお前のことを世界で一番愛している」
涙があふれてきた。
「生まれてきてくれて、ありがとう」
そこまで言うと、彼は踵を返した。
「じゃあな」
急いで彼のマントをつかんだ。
「どこに、何をしに行くのですか」
一拍間を開けてから、彼はこう答えた。
「ハインリヒと、ローデリヒと、ディートリヒ」
ルートヴィヒ帝の息子たちだ。クラウスの言うことがすべて真実だったら、カールの父方の従兄である。
「あいつらを全員殺せば、帝室の血を引いている子供はお前だけになる」
また、言葉を失った。
「お前に、ロイデン帝国のすべてを与えたい。そのためなら、俺は何でもする」
指から力が抜けて、クラウスから手を離してしまった。全身がぶるぶると震える。
「どうか、元気で。俺の可愛い坊や」
クラウスはもう振り返らなかった。
カールも追い掛けられなかった。足から力が抜けて立っていることもできなくなったからだ。
叫びたかった。けれど何も喉から出てこなかった。意味のない音の羅列でさえ、今のカールには発することができなかった。ありとあらゆることが混乱していた。ただただ、その場でうずくまって泣いた。
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