第8話 本物の大人は自分自身の感情と向き合える

 翌日、クラウスは朝食の席に姿を見せなかった。

 おおかた昨夜飲みすぎて寝坊しているのだろう。彼が二日酔いというのはあまり聞かないので、単に夜更けまで飲んで寝過ごしているものだと思われる。


 空腹は良くない。規則正しく三食食べるべきだ。

 カールにはそういう強固な信念もあったが、今回はそれ以上に、意地悪な気持ちも湧いてきていた。

 叩き起こしてやる。夜中まで遊び歩いていた罰だ。朝は起きる。それを叩き込んでやらなければならない。


 クラウスに対してはどうしてかそういう気持ちになりがちだ。これが騎士たちや傭兵たちだったらこんなことはしようと思わないのだが、クラウスだったらそんなに激しく怒りはしないだろうという目算もあった。


「クラウスさん!」


 彼の私室に走っていって、ドアを乱暴にノックする。大きな声を出して、聞こえなかったという言い訳の立たないようにする。


「起きてください! 朝ですよ! こんな時間まで起きないとは何事ですか! 毎晩ほっつき歩いているのが悪いのです! 朝ご飯、僕が食べてしまいますよ!」


 ちょっと喚き散らしたのち、ドアに耳をつけた。物音が聞こえる。中にいる、生きて活動している。さあ、廊下に出てこい。


「今開ける」


 そう言われたので、ドアから離れた。


 ドアが内側から開いた。


 カールは、後悔した。


 出てきたクラウスの様子がおかしい。目が充血していて、皮膚のある口の周りが火照っている。皮膚があったらもっとはっきり調子が悪そうなのが見て取れたかもしれない。


 手を伸ばして彼の額に触れたら、熱かった。


 発熱しているのだ。


「熱があるのですか」

「そう。ちょっと体調が悪くて。ごめんな、構ってやれなくて。俺の朝ご飯、お前が食っていいからな」

「風邪ですか」

「いや、いつものやつ」


 カールはクラウスを抱き締めるようにして部屋の中に押し入れた。体が中に入ると、今度は腰を抱えてベッドのほうに連れていく。むりやりベッドの上に寝かせて、足元のほうに丸まっていた掛け布団を彼の体に掛けた。


 クラウスが完全に寝転がったのを確認してから、一度部屋から出ていった。

 近くを歩いていたメイドを捕まえ、氷水と清潔な手ぬぐいを用意するよう頼んで、部屋に戻る。

 カールがクラウスの部屋のソファで座って待っていると、先ほどのメイドがすぐにたらいに氷を浮かべた水を持ってきてくれた。

 冷たい水に手ぬぐいを浸し、絞って、クラウスの皮膚のない顔や首を湿らせる。


 クラウスがちょっと笑った。


「ありがとう。気持ちいいな」


 クラウスは時々こうして発熱する。昔医者に、皮膚が焼けて汗をかく機能が失われた分熱がこもっているのではないか、と言われたことがあるらしい。いつどういうきっかけで熱が出るのかわからないが、夏場は気温が高い分頻度も上がる。


 不便な体だ。


 最終的に、クラウスの額に手ぬぐいを乗せた。


 そして、カールは、クラウスに添い寝をするために彼の隣に横たわった。おとなしく寝かしつけるにはこれが一番だと、いつかナンナが言っていた。


 クラウスの体が熱い。いつものぬくもりとは違う高温を感じる。心配だ。脳がだってしまわないか。


 カールの祖母も高熱を出して亡くなった。感染症だったと言われている。心優しい祖母は、慈善事業のために身寄りのない子供を集めた孤児院に通っていた。そこで子供に何かよくないものをうつされたとかで、感染対策で家族は最期の時をともに過ごすことを許されず隣の部屋で祈ることしかできなかった。


 クラウスの高熱は病気ではないので、うつる心配はない。けれど、何かの拍子にふと命を落としてしまわないかと心配になる。


 クラウスをこんな体にした誰かが憎い。


 クラウスに火をつけた誰か、あるいはクラウスに自らに火をつけさせた誰かが、この世に存在する。

 そいつを捕まえて懲らしめてやりたい。


 カールは時々自分の中にそういう負の感情があることにびっくりする。


 誰かを憎む、というのはとても恐ろしいことだ。気力が根こそぎ奪われる。


 だが、これと向き合うことが大人になる一歩なのだ、とも思う。本物の大人は、自分自身の感情ときちんと向き合った上で、コントロールができる。そう、ラーシュが言っていた。


「ごめんな」


 クラウスがそう言ってカールの胸のあたりに手を置いた。ぽんぽんと、優しく撫でるように叩く。カールがクラウスを寝かしつけているつもりなのだが、これではクラウスがカールを寝かしつけているかのようだ。先ほど起きたばかりのカールは眠くもなんともなく、健康そのものなので睡眠は夜まで必要ない。


「こんなことばっかりで。俺、ちゃんとしてないな」

「でもこれはクラウスさんのせいではないでしょう」


 すかさず否定した。これでちょっとでも安心できるといい。


「いや、わからない。知恵熱かも」

「何か考え込むようなことがあったのですか?」

「ああ、ちょっとな。お前の将来のこととか、な」


 カールはしょんぼりした。どうやら自分の存在がクラウスを悩ませているらしい。


「べつにいいですよ、放っておいて。寄宿舎は再検討しますが、秋学期が始まったら勉強は行きます。それならいいでしょう? それで十分だと思っていたのですが」

「お前はいい子だなあ。それでいい、と言ってやれたらどんなに良かったことか」


 ひとつ溜息をついた。


「ヴォルフさんと何を悪だくみしているのですか?」


 クラウスが少し沈黙する。


「ヴォルフさん、僕を遠くにやる、みたいなことを言っていましたよ。クラウスさんも僕をどこかへやりたいのですか?」

「それはちょっと違うな」

「本当の居場所、というやつですか? 僕はどこかに帰らないといけないのですか?」


 クラウスの手首をそっと、やんわりつかむ。


「僕はずっとここにいたいです。ヴォルフさんと、ナンナさんと、エイルと、フォルセティと――それからクラウスさんと」


 嘘偽りのない、本気の願いだった。


「何にも望んではいないです。ここでのんびり暮らします。そうですね、騎士にはなりませんが、騎士団の事務の仕事をしたらいいと思っています。書き物は得意なので」

「本当は、お前にはこの国のすべてがあるはずだったんだ」


 突拍子のない発言に、カールは驚いた。


「本当に、すべてが。お前は、この国にある、ありとあらゆるものを支配できるはずだったんだ」

「何ですか、それ」

「こんな田舎だけじゃなくて。ツェントルムも、ザイツェタルクも、クセルニヒも、ノイシュティールンも。すべてのロイデン人を従える権利が」


 クラウスが寝返りを打ってカールに背を向けた。カールは彼の手首から手を離した。


「お前が赤ん坊の時、ローゼが死んだ」


 ローゼというのは、カールの母ロスヴァイセのことだ。ロスヴァイセ、というのが、ローゼ、つまり薔薇を、ヴァイス、つまり白い色を表す複合語の人名であり、ロスヴァイセより目上の人間、彼女の両親である祖父母は彼女をローゼと呼んでいた。


 ヴァランダンの白薔薇ロスヴァイセ、百合よりも清らかな聖女であると言われていたのに、未婚の身で子供を産んで死んでしまった。


「その遺体を見ながら、俺は、何も持っていない奴には何も守れないんだな、というのを悟った。今の俺にはなんにもないから、ローゼを守れなかった。俺に力があったら、こんなことにはならなかったのに、って」


 その台詞から、ふと、クラウスはロスヴァイセが好きだったのだろうか、というのに思い至ってドキドキした。

 カールの母親に恋をした男がいた。

 当たり前の何でもないことで、むしろ国じゅうがロスヴァイセに恋をしていたとさえ言われているくらいなのに、こんな身近な人が、と思うとびっくりする。

 カールにとって、母親は母親であり、女ではなく、見たことのない聖母なのだ。

 それをクラウスが、と思うと、心臓が止まりそうになる。


「クラウスさんにとって、僕の母は特別な人だったのですね」


 動揺を悟られないように、静かな声でそう言った。クラウスは少し間を開けてから「そう」と答えた。


「でももう死んだ。この世のどこにもいない。だから俺にとっての一番は繰り上げでお前になった」

「はあ、どうも」


 クラウスが、自分の肩まで掛け布団を引き上げる。


「俺が持っていたすべてをお前にやるからな」


 それを最後に、彼は目を閉じた。どうやら眠りについたようだった。カールは一回彼に、ぎゅ、としがみついてから、ベッドをおりて部屋を出た。


 意味はよくわからないが、クラウスがカールをとても愛してくれているのだけは、よくわかったつもりだ。



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