第6話 カール少年と皇帝の指輪 3
帰宅して自分の部屋に向かったところ、部屋の前に座り込んでいる人影があった。
クラウスだ。
長い黒髪の毛先が、床についている。汚れるだろうし、傷みそうだ。
彼はその碧色の瞳でぼんやり宙を見ていた。膝を抱えてぼんやりしているところはたいへん無防備だ。彼はどことなく無邪気で純粋なところがある。
カールの気配に気づいたらしい。その目がこちらを向いた。
「どこに行ってたんだ」
「ナンナさんに会いに行っていました」
「そっかあ。とうとう家出したのかと心配した」
目を細めてカールを見つめているのを見ると、なんだか悪かったような気もしてくる。なんだかんだ言ってクラウスもカールが生まれた時から一緒にいた人間で、最近はカールが彼の世話をしてばかりだが、幼い頃は彼にも世話をしてもらっていたものだ。
だらしなくて、甘えん坊で、無邪気なクラウスは、カールにとって年の離れた兄のような存在だ。クラウスより年下のヴォルフは父親のように思っているのに、ヴォルフより年上のクラウスを兄のように思うのは、変かもしれない。けれどある意味では、ヴォルフよりクラウスのほうが近しい存在のように思う。
その父と兄が内緒話をして家族であるナンナとその子供たちを追い出した、というのが悲しい。
「寄宿舎に入る件はやめたか?」
「そんなことを言っている場合ではないでしょうが」
クラウスが立ち上がる。その服の袖をつかんで引っ張る。腕にも火傷があるクラウスは夏でも長袖を着ている。
カールに引っ張られて、クラウスは二歩ほどドアから離れた。その隙を突くようにして部屋の中に入る。クラウスも一緒に入ってきた。
「ナンナ、何だって?」
「ヴォルフさんに対してめちゃめちゃ怒っていますよ。もう二度と会わないと何度も何度も繰り返し言っていました」
「あいつも頑固な女だな。まあ、泣いてすがられるよりはいいけど」
カールは荷物を机の上におろしてからクラウスのほうを向いた。一対一で真正面から向き合った。こうしてみるとクラウスも背が高い。カールも成長したつもりだが、まだまだ追いつきそうになかった。
「ヴォルフさんと何か悪だくみをしているようですね」
クラウスが睫毛のないまぶたを何度か重ね合わせる。
「何の話をしているのですか? あのナンナさんとヴォルフさんを別れさせるくらいなのだから、よっぽどすごい話なのでしょうね」
彼はしばらく押し黙ったのち、こう言った。
「お前には説明できない」
カールも腹が立った。
ナンナの気持ちがわかる。
家族のはずなのに仲間外れにされている。それほどまでに
「家出しますよ」
「させない」
いつになくクラウスの声が低くて真剣だった。こういう時の彼は押しても引いても動かないのも知っていた。普段はへらへらしているくせに、肝心の場面では融通が利かない。
「お前は俺のそばにいろ」
しかし、そう言われていると、必要とされている気がしてきてしまう。ナンナとは違って、自分はここにいることを許されている、と思ってしまう。そんなことで安心してしまう自分自身が醜くて嫌な気持ちになる。
「命令、しないでくださいよ……」
ナンナは必要とされていない。
カールは必要とされている。
何が違うのだろう。
「ナンナさんだって……子供たちだって……ヴォルフさんが必要なのに……」
うつむいてそう呟いたら、クラウスに頭を撫でられた。また頭を撫でられてしまった。ラーシュといいクラウスといい、周りの大人の男性はみんなカールを小さな坊やだと思っている。カールはもう十二歳で十分大きいのに、悔しい。十二歳などもうほとんど大人と一緒ではないか。それなのにこの扱いはあんまりだ。
逆に、カールがまだ頭を撫でられるにふさわしい子供なのだとしたら、と考えて、宿屋の女将の言葉を思い出す。父親がいないカールはたいへん不幸な子供だ。本当はラーシュやクラウスではなく実の父親がカールに対してこういう振る舞いをするべきなのではないか。
宿屋の女将だけではない。カールの境遇を知っている人々、つまりブルート市民のほぼ全員が、カールを憐れんでいる。カールを父親に捨てられた可哀想な子として見ている。時には母親のロスヴァイセのことまで蔑むようなことを言う人がいる。
悔しくて涙がにじんできた。
「クラウスさんはいつからブルートにいるのでしたか」
「十五年くらい前からだけど」
「ということは、僕の母に会ったことはあるのですよね」
「ああ、もちろん」
「僕の父は?」
カールとロスヴァイセを捨てて、どこかに行ってしまった人。
「僕の父親に会ったことはありますか?」
クラウスが少し動揺した様子を見せた。
「急にどうしたんだ」
「ナンナさんが勤め始めた宿屋で、女将さんが、父親がいないということは大変なことだと。エイルとフォルセティも苦労すると――僕が苦労してきたように」
涙をこらえるために体のどこかに力を入れようと思って、拳を握り締めた。
「いつもそうです。皆さん僕のことを褒めてくださいますが、父親がいないわりにお利口ね、父親がいないわりにお勉強ができるのね、父親がいないわりにしっかりしているのね、と、みんなみんな、僕の父親のことを言います。みんな、僕が父親に捨てられたことをさもとても大変なことであるかのように。そして、僕以外の父親のいない子供たちを馬鹿にするかのように」
クラウスの手が、カールの肘をつかんでいる。
「お前の父親は、お前を捨てたわけじゃない」
「でも、いません」
涙の粒がこぼれた。
「どこにもいないのですよ。どこにも。僕の母親を捨ててどこかに行ってしまった人なのです」
母はどれほど心細かっただろう。ナンナのように、女手ひとつでカールを育てる覚悟をしたのだろうか。
「会って一発殴ってやりたいです。僕や母の人生を何だと思っていたのかと」
「そう……」
クラウスの手が、小さく震えた。
「けれど、本当は、僕は――」
カールの肩も、震えている。
「会えたら十分なのかもしれません。どんな人なのだろう。時々僕の顔が母親には似ていないからたぶん父親似なのだろうと言う人がいることを思うと、会ったらわかるのでしょうか。会ったことはなくても、親子のきずなというものがあるのでしょうか。……僕のことを可愛いと言ってほしいのかもしれません」
クラウスに抱き締められた。泣いているから慰めてくれるつもりなのだろう。
でも、本当は、本物の父親に抱き締めてほしい。
「僕は、一生懸命生きてきたけれど、父はこんな僕を褒めてくれるでしょうか……?」
「もちろん」
クラウスがカールの髪に頬をすり寄せた。
「当然、お前の父親は世界で一番お前のことを愛している」
知ったような口を利くものだ。クラウスはなんだかんだ言って優しいからこういうことを言ってくれるのであって、本物の父親はどうしているかわからない。
ただ、こうしていると、ふと、クラウスが本物の父親だったら、と思ってしまうこともある。年齢的にはおかしくないのだ。
彼を父親だと思って甘えることができたら、という甘美な妄想は、彼が体を離すことで打ち破られた。
「お前にいいものをやろう」
クラウスが自分の首元に手をやった。カールは急なことに驚いて、きょとんとしてそれを見守った。
シャツの襟元を少しくつろげる。
半分だけ皮膚のある首に銀色のチェーンがかかっていた。
彼は首の後ろに手を回してそれを器用にはずした。
チェーンを引っ張ったところ、そのチェーンの先に指輪がぶら下がっているのがわかった。男物の、金の太い指輪だ。
クラウスは、カールの手をつかんで持ち上げ、その手の平に指輪を握らせた。
「これはお前の父親が故郷から持ち出したとても貴重なものだ」
カールは長い睫毛のついたまぶたを
「すごく価値のあるもので、代わりのものはない、とても大切なものだ。いつかお前に渡そうと思っていた。お前が持っていてくれないか」
「どうしてクラウスさんが持っていたのですか?」
「いろいろあったんだ。いろいろな。でも今のお前に話すのはまだ少し早い」
クラウスが目を細める。
「もう少しで話す日が来ると思う。焦らないで待っていてほしい」
「はあ……」
握り締めた手を開いて、指輪をまじまじと眺める。火を噴くドラゴンが描かれている。見たことのない意匠だ。ドラゴンの目にダイヤモンドがはまっていて、高価そうではある。
「これはお前の父親がツェントルムから持ち出せた唯一のものだ。身分証明になるくらいとてもすごいもので、これがあるだけで世界が変わると言われていた。俺はそんなもの信じちゃいなかったけど、お前はこれを持つ運命なんだ」
「僕の父親はツェントルムの人なのですか?」
「余計なことをしゃべりすぎたな、これ以上はもうだめだ。まあ、とにかく、お前の父親はこういうものをお前にいつか渡そうと思っていたくらいにはお前のことを愛してる」
もう一度手を握らせた。カールはクラウスの体温でぬくまった指輪の温度を感じた。
「ごめんな、カール」
右手ではカールの指輪を握り締めた右手をつかんだまま、左手でカールの頬を撫でる。手の平にはちゃんと皮膚があって、触り心地は滑らかだった。
「俺にもう少し勇気があったら」
そう呟いたのち、彼は沈黙した。
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