第2話 城を守り国を守るメイド・ナンナ
あまりにもクラウスがしつこいので、寄宿舎に入ることは再検討する、と約束することで、彼を部屋から追い出すことに成功した。のちほど改めて叔父と話し合って、叔父から学校長でもある修道院長に話をしてもらう、ということにしたのである。
といっても、カールはまだ完全に諦めたわけではない。まずはクラウスのわがままを叔父に告げ口して、叔父にクラウスを叱ってもらおう、という算段だ。
この城は辺境伯である叔父ヴォルフガングのものである。ヴォルフから、カールではなくお前を追い出す、と言って脅してくれれば、もうちょっとなんとかなるのではないか。
肩を怒らせて辺境伯の執務室にたどりつくと、近衛兵に声を掛けられた。
「今は部屋に入らないほうがいいよ、ナンナがいるから」
近衛兵の青年が少し困った顔でそう言った。カールは眉間にしわを寄せた。
「いちゃついているのですか?」
「いや、夫婦喧嘩らしい」
珍しいことだ。ヴォルフとその内縁の妻ナンナはヴァランダンどころか周辺各国に漏れ聞こえているほど仲のいい夫婦で、喧嘩など聞いたことがない。気が強いナンナが一方的に怒っているところに遭遇したことはあったが、ヴォルフも応戦したのだろうか。
「もうかれこれ何時間になるか、かなり長時間話し合っているみたいだよ。俺が交代で来て引継ぎをした時にはもう二人がこもっていたみたいだから」
「では止めましょうか。いい加減夕飯の時間でしょう。子供たちも心配です」
「ええ、カールが間に入るの? 勇気あるねえ」
近衛兵の青年が「何事も挑戦か」と言いながらドアのほうを向く。ドアをノックする。
「ヴォルフ、カールが来ているけど、中に入れていいかな?」
すぐ返事が来た。
「だめ」
「――だそうだ」
直後、女の声が響いた。
「いいよ、構うもんか! カールにも聞かせてやりな!」
そして、分厚い扉が中から開けられた。
中はがらんとした部屋だった。西向きなので、今の時間はふんだんに光が入る。照らし出されるのは主のために用意された机と椅子だけだ。
その机にもたれかかるようにして、長身の男が立っていた。騎士のわりにはやや長めに伸ばされたライトブラウンの髪、同じ色の瞳、端整な顔立ちに広い肩幅の男は、この城の主である辺境伯ヴォルフガングである。夏らしい半袖の洗いざらしのシャツに、同じく色褪せたズボンをはいて、ほとんど平民と変わらないいでたちだ。
その真正面には彼の恋人ナンナがいる。
燃えるような、真っ赤な髪の女だった。肩を超えるくらいまで伸ばされた癖の強い赤毛が、無造作に垂らされている。吊り目がちの瞳は緑だ。身長は低い。背の高いヴォルフと並ぶと、頭がふたつ分くらい違うのではないかと思うほど小さい。しかし、体格は女性として成熟していて、夏の今は薄手のエプロンドレスを身に着けているが、その胸は大きく、服の前がはちきれそうだった。
こうして並んでいるところを見ると、庶民の、そのへんにいそうな夫婦に見える。
「この話は終わりね」
ヴォルフが言った。その表情は険しい。
「いくら話しても無駄だよ。僕はやると言ったらやる。決めたんだ」
カールはびっくりした。いつも気弱で恋人には何も言い返せない叔父が、今日はいつになく強気な態度だ。非常事態が起こっている。
ナンナが黙った。
彼女はしばらく黙って恋人を見上げ、にらんでいた。その目は充血していて、今にも涙がこぼれそうだった。これも、カールは驚いた。ナンナはカールが知る限りでは一番強い女で、男が戦争に行っている間に家を守る強くたくましいヴァランダン女の代表者のように思っていたから、泣くなどということをするとは考えがたかった。
「わかったよ」
たっぷり時間を置いてから、彼女は声を震わせて言った。
「今日じゅうに出ていかせていただくわ」
胸の奥が、ひゅっと冷える。
「子供たちも連れていくからね」
「そうしてほしい」
ナンナが歩き出した。大股の足取りには露骨に怒りがにじんでいる。
「二度と子供たちに会わせてやらない」
「養育費なら払うからあとでいくら必要か秘書官に言っておいて」
「くそったれ。地獄に落ちな」
ドアのすぐそばで唖然としていたカールにナンナが衝突した。彼女は一瞬よろけたが、すぐに体勢を立て直して、「邪魔だよ!」と怒鳴って去っていった。
呆然と、その場に立ち尽くす。
ヴォルフが机の周りを半周して椅子に座った。西日で顔が逆光になる。
「……何ですか、今の」
だいぶ経ってから、ようやく言葉をひねり出した。
なんとなくわかってはいるのだ。単語ひとつひとつは聞き取れていたので、その意味するところが何かはわかっているのだ。
その事実を認めたくない。
ヴォルフが机に頬杖をついて答えた。
「別れ話」
信じたくなかった。
ヴォルフに駆け寄った。そして、机を叩いて音を出した。
「どうしてですか!?」
「もう決めたことだ。カールがどう口出しをしてもこれは覆らないよ」
「でも、昨日までずっとうまくいっていたのに」
「子供たちにはそう見えるようにどうにかするのが親というものだよ」
重い溜息をつく。
「もう決めたんだ。これしかない」
カールは奥歯を噛み締めた。
ヴォルフも思い込むと一直線のところがある。普段は弱腰で優柔不断だが、一度決めると融通が利かない。
彼はいつもそうだった。
ヴァランダンは戦士の国だ。ヴァランダンの人間は、戦うために生まれ、戦うために生き、戦って死ぬ。
そういう国の当主になるべく生まれた前辺境伯の長男ヴォルフガングだったが、彼は本来虫も殺せぬほど温厚な男だ。身内が相手の時は口調もおとなしいし、態度もその大柄な体躯が小さく見えるほど縮こまっている。花を愛で、ぬいぐるみを飾って、犬猫や子供を可愛がって生きてきた。
当然それではやっていけない。蛮勇を誇る騎士や狼藉が当たり前の傭兵たちはもちろん、ヴァランダンをロイデンの剣とあだ名する外国にも見下されかねない。
したがって、彼はいつも無理をして、口調や態度を粗暴なものに改め、武人の鑑に見えるよう、怖い顔をして暮らしている。
そんな彼の心のよりどころとなっているのがナンナと彼女と彼の間に生まれた二人の子供たちである。
ナンナはもとは城のメイドだ。厨房で野菜の皮を剥いて生活していた。少年時代のヴォルフが一方的に惚れて口説き落としたそうなのだが、一国の領主の惣領息子とメイドの子であるメイドが結ばれるなど言語道断、結局教会で結婚式を挙げることなく二人の子をなした。
城の人間は心優しいヴォルフや気丈なナンナが好きだ。だから二人を応援して、ある時は見逃し、ある時はかばってやってきた。
それがこんなにも突然破局する時が来るとは思わなかった。
ヴォルフには、一生、何があっても、ナンナが必要なはずなのだ。
人を殺すたびに心を傷つけて帰ってくるヴォルフを包み込むように抱き締めてきたのは、ナンナだった。
「何かあったのですか?」
「ちょっとね」
「ちょっとではないでしょう。ちょっとのことでナンナを城から追い出すなんてありえません。しかも彼女、子供たちを連れていくとは――女の子のエイルはともかく、男の子のフォルセティは騎士にするのではなかったのですか」
「向き不向きはあるよ。僕だってなりたくて騎士になったわけじゃないし、僕そっくりのフォルセティは騎士なんか目指さず市井でひっそり生きたほうが幸せだよ」
カールは唇を引き結んだ。三歳のフォルセティは、母親が正式な妻ではないにもかかわらず次期辺境伯として扱われているが、父親によく似て毎日ぬいぐるみを抱き締めてぐずぐずと泣いている気弱な男の子である。
「いいんだ、もう」
机の上に置いてあった、自立する形のフレームに入れられた小さなサイズの絵を、机に伏せる。そこにはナンナとエイルとフォルセティの肖像画が入っているはずだ。
「決めたんだ」
「どうして……」
「ヴァランダンの将来のために必要なことなんだ」
ヴォルフの心を守るためにいたナンナにはずっと城にいてもらったほうがヴァランダンのためだと思うし、そういう感情論とはまた別に、フォルセティという跡継ぎになりうる健康な男児がいたほうが国は安泰だと思うのだが、いったい何を考えているのか。
「でも……あんなに仲良しだったのに――」
「子供は口を出すな」
撥ねつけられてしまった。
ここまで強情にあしらわれてしまうと、カールには何も言えない。ヴォルフは、一回決めたらそれは絶対守る男である。なんだかんだ言って、芯には鋼の意志がある。
「で? カールは何か急ぎの用事?」
「あ……」
ヴォルフとナンナの別れ話が衝撃的すぎて、すべてが頭から吹っ飛んでいた。
「寄宿舎に入ることをクラウスさんに反対されて、ヴォルフさんからクラウスさんに何かがつんと言ってほしいと思ってきたのですけれど……」
「ふうん。クラウスさんの言うとおりにして」
あっさり断られてしまった。
「お前はすべてクラウスさんの許可を取りなさい。クラウスさんを説得できないならやめてしまいなさい」
あの人の何がそんなに偉いのか、と思ったが、今のここで言い出せる雰囲気ではない。きっとあんな話をしたばかりでヴォルフも興奮しているのではないか、と判断して、カールはいったん下がることにした。冷静な話し合いができない時は引くべきだ。
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