第6章 目覚めよカール、汝、皇帝の器たる者よ
第1話 シンプルにクラウスの世話が面倒臭い
話はおよそ九ヵ月前にさかのぼる。
ヴァランダン辺境伯国はロイデン帝国の北東に位置している。
ロイデンの北国といえば一般的にはクセルニヒが有名だが、どこがより最果てに近いかというと、実はヴァランダンらしい。
ヴァランダンの首都ブルートは、あまりにも最果てに近いためか、冬は一日じゅう眠りにつき、夏は一日じゅう眠らない。
今年も、六月のブルートは
六月某日、カールはあくびをしながらブルート城の自分の部屋の片づけをしていた。
眠くて眠くて仕方がない。
それもこれも大人たちが夜通し酔っ払って騒ぐからだ。
いくら一日じゅう明るいといっても、睡眠時間が必要なくなったわけではない。むしろ、分厚いカーテンを閉め切らないと明るすぎて眠れない。
だが、大人たちはそれを良しとしている。
毎晩毎晩、善良な大人たちは野外コンサートに耳を傾け、不良の大人たちはいかがわしい劇を見ている。どっちにしても騒がしいことこの上ない。
挙げ句の果てには、本当にみんなが酒を飲む。男も女も、老いも若きも、大人のヴァランダン民はみんなビールを飲むのである。文字どおり浴びている者もあるくらい、みんな酒が大好きだ。彼ら彼女らは夜通し大宴会を催しているのだ。
この狂乱は夏至祭の前後一、二週間、だいたい一ヵ月程度続く。
規則正しい生活を好むカールにとって、そういう白夜の季節はつらい。
夜は寝かせてほしいし、朝は朝ご飯を食べさせてほしい。
陰鬱な冬に比べれば多少マシとはいえ、カールは世間のみんなと同じようにはしゃげるほど浮かれてはいなかった。
耐えがたい。
ドアを乱暴にノックする音がした。カールは溜息をつきながら顔を上げた。こういうことをする人間は、ブルート城の中には一人しかいない。
「はい」
「おい」
案の定、不機嫌そうな男の声が聞こえてくる。
「開けろ」
「嫌です」
即答すると、またドアを殴られた。カールはまた、溜息をついた。
「大事な話がある」
「僕はないです」
「いいから開けろ」
このまま部屋の前で騒がれるのは困る。荷造り用の紐の玉を机の上に置いて、しぶしぶドアを開けた。
そこには予想どおりの男が立っていた。
白い薄手の長袖シャツに、群青色のズボン、そしてサンダル、という、ラフを通り越して少し品の足りない服装をしている。腰に届くほど長い黒髪はぼさぼさで、一応ひとつにくくられてはいるが、櫛を通していないのは一目瞭然だ。
そして、顔にはひどい火傷の痕がある。
額から鼻まで広範囲に焼けただれて、頬に赤黒いでこぼこができている。毛穴を焼失してしまったらしく、眉毛も睫毛もなかった。
初めて彼のその傷を見る者は顔を背けがちだ。彼はそうして驚かせるのが嫌だから城で暮らしながらも公的行事に出ないのだと言い張っている。
けれど、彼のその傷を見慣れているカールは、なんとなく、すべて彼の性格の問題ではないか、と疑っている。
彼は部屋の中に押し入ると、後ろ手にドアを閉めた。
そして、その碧の瞳でまっすぐカールを見据えた。
部屋の主はカールだというのに、彼のほうが偉そうな態度だ。
だが、負けない。
カールはせいいっぱい胸を張って彼に相対した。
「お前、ヴォルフに城を出ていくと言ったそうだな」
そう言って一人腕組みをする。
斜め上から見下ろされている。
その態度が気に食わない。
「大袈裟ですよ。寄宿舎に入るという話です」
「一緒じゃねえか」
ブルートのはずれの丘に修道会が運営している学校があって、そこの寄宿舎に入ることにしたのだ。そうすれば十八歳まで敬虔な修道士たちや同世代の少年たちと規則正しく生活ができる。十代の少年たちとの暮らしは静かなものではないかもしれないが、少なくともそこにビールで酔っ払う大人はいない。
男から、濃いアルコールの匂いがする。
「取り消せ。お前はこの城で暮らすんだ」
「どうしてですか」
「俺の目が届く範囲にいろ」
「また勝手なことを言いますね。行くと言ったら行きますよ、誰が何と言おうとも」
「どうしてそんなに強情なんだ、何がそんなに不満で城を出ていきたいんだ」
カールは、彼をにらみつけた。
「あなたのお世話が嫌になったからです」
彼が、唇を引き結んだ。
「ただただ単純にあなたが面倒臭くなったからですよ、クラウスさん」
男が――クラウスが、「ううっ」と喉を詰まらせた。
「どうしてそんな冷たいこと言うんだよ!」
「何度話してもわからないからですよ!」
今度はカールが一歩クラウスににじり寄った。
「あれだけもう飲まないでくださいと言ったのに、またそんな酒臭い息をして! お風呂も最後に入ったのはいつですか、強烈なにおいがしますよ!」
「えっ、そう? 自分じゃぜんぜんわからないんだけど」
自分の腕を嗅ぎ始めたクラウスに、さらに一歩踏み込む。
「もう三十二でしょう!? いい加減自己管理できるようになってください! 僕はもうあなたのお世話はまっぴらごめんなのです、あなたのいないところに行くのです!」
「そ、そんなあ」
「内臓がだめになっても人間関係がだめになっても僕はもう知りません。たくさん忠告しましたからね。がみがみ言う僕がいなくなってあなたもせいせいすることでしょう」
「待って! カール、待って!」
カールの剣幕に恐れおののいたクラウスが一歩下がる。
「僕は酔っ払いが嫌いです。この城にいると、あなたもナンナさんも騎士団のお兄さんたちもみんなお酒を飲んでは僕にうざがらみをします。もう耐えられません。ではね、さようなら」
「わーん!」
とうとう負けたらしい。クラウスはその場に膝をつくと、カールの足にすがりついた。カールは眉間にしわを寄せてそっぽを向いた。
「カール! 捨てないで! お願い! お前に捨てられたら俺本当にどこも行くところがなくなっちゃう!」
「はあ? 知りませんよ。今までどおりヴォルフさんに金の無心をしてこの城で居候をしてください」
「わかった、禁酒する。禁酒するからお願い」
「その台詞はこの一年間で三百六十五回くらい聞いたのでもうだめです。許しません」
クラウスがカールの膝に頬を寄せて「うーっ」と威嚇するような唸り声を出す。これが三十二歳の大人の男の姿か、と思うと世界に絶望しそうになる。自分はこうはならないと固く誓った。こうはならずに立派な大人になるために必要なのは勉学と清貧な生活だ。きちんと聖書や薬学を勉強して立派な修道士になりたい。といってもカールの出家は周囲の大反対にあうだろうから実現可能性は低いが、夢を見るのは自由である。
カールの周りにはだめな大人が多い。荒野で異民族の脅威にさらされながら暮らすヴァランダンの人間には精神のバランスを崩す者が多く、みんな酒浸りだ。
その筆頭格がクラウスで、こいつは本当に働かない。
カールはクラウスがどこからやってきてどうしてここに居ついたのか知らない。
だが、特に疑問を持ったことはない。
先のヴァランダン辺境伯、カールの祖父でヴォルフの父に当たる人がやたらと食客を抱え込む人であり、昔はクラウス以外にもこういう居候がいたからだ。
祖父が異民族との戦争での怪我がもとで亡くなり、叔父のヴォルフが後を継いだ時、食客たちはちりぢりになった。
ある者は身を立てるために傭兵となり、ある者は騎士見習いとして再出発し、ある者は恩知らずにもブルートを出奔した。
しかし、クラウスだけはいつまでも居座って、「カールのおもりをする」という名目でカールにおもりをしてもらっている。
「どうしてわかってくれないんだよ、俺はこんなにカールを愛しているのになあ」
「気持ち悪いし鬱陶しいです」
彼がどういう経緯でここに来たのかは知らないが、どうしてここから出ていかないのかはなんとなくわかる。
彼の火傷は顔だけではない。
どうやら全身に油を浴びたようである。
普通の精神ならそんなことをしたりさせたりはしない。
その火傷を負った十代の時に、カールの想像を絶する何かひどいことが起こったのだ。
彼はきっと、帰る場所どころか、行く場所も選ばないと大変なことになる身の上なのだろう。あるいは、どこかに行く勇気も出ないほど彼は心身が傷ついたのだ。それで、毎日酒に酔って現実逃避をしている。
それを思うと、あまり突き放すのも可哀想な気がして、カールはいつも流されてしまうのだった。
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