第20話 ジギスムント王万歳
帰国から一週間と少しが過ぎて、暦は三月になった。温暖なブラウエでは春の花が咲き始め、世界がちらほらと色づきつつあった。
アーデルは、ベッドの上に寝転がったまま、窓の外にある花壇の花を見ていた。
風もない、雲もない、あっけらかんとした太陽の下で、背の低い園芸用の花がすくすくと首を伸ばしている。アーデルの母親が冬の間に植えて愛でていた花だ。双子の母親は園芸が好きで、裕福な家庭の夫人なのに自ら手を汚して苗を植えるのを趣味としている。
打撲痕は徐々に薄れて、皮膚に黄ばみが残る程度となった。足も新しい皮膚が出てきた。折れた左腕は痛むが、利き手ではないので、かろうじて日常生活は送れる。
けれどなんとなく疲れが取れなくて、アーデルは帰国してからずっとベッドの上にいた。
医者の見立てとしては、人間は戦争や虐待などの強すぎる悲劇にさらされると心身がショックを受けて活動が鈍ることがあるらしい。クセルニヒから亡命してきた人々にも同じような症状の人がちらほらいるそうなので、きっとそういうものに違いない。普段は安静にして、毎朝日の光を浴び、折れた骨がつながったら湯治に行くように、と言われている。思考停止状態のアーデルはそれをすべて無条件に受け入れた。
いつもはエーレンが仕事を放り出してそんなアーデルを付きっ切りで看病しているのだが、今日はフレットに呼び出されて宮殿に出掛けていた。昼食はアーデルに食事を取らせるために自宅へ戻ってくるはずだ。
本でも読もうか、と思って、レオが置いていってくれた戦記小説を広げるのだが、どうも目が滑る。うまく文字を追えない。脳味噌が疲れ切っているようだ。
ドアをノックする音が聞こえてきた。
「アーデル、起きてる?」
片割れの声だ。予想より早く帰ってきた。
「起きてる」
「開けてもいい?」
「大丈夫だ」
ドアが開く。薄手の青いニットの上着を着たエーレンが顔を出す。
「ねえ、ちょっとお客さんを入れてもいい? アーデルがつらいなら断るけど」
「入れてもいい、って何だ。もうそこにいるんじゃないのか?」
「そうだけど、アーデルが嫌なら断るよ」
「断れるのか、それ」
「今度こそ断るよ」
きっとエーレンは断ったのに客が勝手についてきたのだ。ということは、相手はそこまで強く拒めない立場の人間に違いない。それでも、エーレンはアーデルに対して過保護なので、アーデルが嫌と言えば本気で抵抗してくれるだろう。けれどそこまでしなければならないほど弱っているわけではない。
「どうぞ。ちょうど退屈していたところだ」
そう言ってベッドサイドのテーブルに本を置いた。
「だってさ。どうぞ」
エーレンが少し身を引いた。
入ってきたのは案の定、フレット、ジーク、そしてレオだった。
「やあ、久しぶりだね、アーデル」
フレットはいつもと変わらずへらへらしており、ジークはいつもと変わらず陰気な顔をしている。
この二人に会うのはどれくらいぶりだろうか。帰ってきてすぐの頃にも訪ねてきてくれたらしいが、意識が朦朧としていたらしく、記憶にない。
レオは毎日顔を合わせている。この子は普段政治家たちに何もわかっていない末っ子として邪険にされているのでたぶん暇なのだ。
「体調はどうだ?」
レオが歩み寄ってきてベッドサイドに座った。アーデルは「お前の顔を見たら元気になった」と言って微笑んでおいた。レオが嬉しそうな顔をする。単純な子だ。
「そろそろクセルニヒの状況について教えてほしくてね」
フレットが、ベッドの足元のほうにある応接セットのソファに座って足を組む。
「革命政府が官報新聞をばらまいているが、大半はプロパガンダだろう。実情が知りたい」
「どんな内容だ? 俺にも新聞を回してくれ」
家の中では、エーレンが今の状態のアーデルに家の外の状況を知ってほしくないという理由で、すべての政治的な情報を差し止めている。おかげで時事的な話題が何もわからない。先ほど小説ですら目が滑っていたのに新聞が読めるのか疑問だが、読めるか読めないかではなく、読むのだ。
「後でこの半月くらい分をまとめて運ばせよう」
エーレンが「まだ早いよ」と抗議するが、フレットが「本人が読みたがっているぞ」とあしらう。
「バルトロメオは共和国の総統の座についたが、あれはどんな男だった?」
「端的に言ってクソ野郎だった。二度と会いたくない」
「非常に参考になる意見だ」
「個人的にいろいろなしがらみがあるが、今はあまり話したくないので、後日まとまったら説明する。まあ、ひとまず政治的なことを言うと、さんざんイルマ女王をおもちゃにしてお人形遊びをした挙げ句、イルマ女王が投獄されたらあっさり手の平を翻して大衆に迎合した。長い物には巻かれるというか、長い物を巻いているというか、あいつ自身が長い物そのものなのかもしれない」
「ふむ」
それから、アーデルはバルトロメオがいかに馬鹿げた政治をしているか語った。いかにもイルマの味方だという顔をしておきながらイルマの悪行を止めなかったこと、貴族たちを次々と処刑していったこと、自分の権力が一番大事でイルマも民衆もたいして大事ではなさそうなことなど、バルトロメオの悪口ならばいくらでも思いつく。
「ついでに、性欲が強い」
「それはたいへん良くないね」
色恋沙汰関係では浮いた話のひとつもないフレットが、真顔で言う。
「総統か。結局イルマを追い落として自分が王位についたようなものじゃないかと俺は思うが。それくらい権力欲の強い男だから、今後何をするかといえば――」
「きっと密告を奨励して民衆を相互監視させるだろうねえ。足の引っ張り合いだ。しかしそれが彼らの言うところの崇高な革命の理念であるからして」
今までと変わらない、もしかしたら自分から望んだことだろうと言いながら押しつけられるのかもしれない地獄が、待っている。
「国家として承認してほしいという旨の国書が来たが、少し様子を見ておこう」
「そのほうがいい」
「なあ、ジーク。ザイツェタルクでもそういう対応をしたまえよ」
フレットがそう言うので、ジークは「ああ」と頷いた。
「で、イルマはどうなった?」
「新聞ではどう書かれていた?」
予想外のことを言われた。
「死刑に処す予定だったが、民衆から与えられた罰を素直に受け入れている様子が見られたため、ひとまずヴァランダンへの移送を認めた、とのことだ。革命政府が安定して司法制度が整ったら改めて裁きを検討する、それまでの亡命を許可する、と」
「バルトロメオめ。とんでもない嘘つきだな」
「どこから出てきたのかね、ヴァランダン。クセルニヒとヴァランダンの間にそんな友好的な雰囲気があった記憶はないのだが」
「カールだ」
その名前が出た瞬間、空気がひりついた。
「どこからともなくカールが出てきて、火あぶりになるところだったイルマを助けて処刑場から連れ出したんだ。いったいいつどうやってクセルニヒに入ったのか、どこにいて何をしていたのか、まったくわからないが。急に出てきて、イルマを焼こうとしていた火を消し止めて、イルマを抱えて去っていった」
レオが「火あぶり」と呟く。焼き殺すのは処刑方法として群を抜く残忍さだ。
「イルマのあの姿、信じられなかったな。髪を短く刈られて、痣だらけの体を全裸のまま縛り上げられて、処刑の場に引きずってこられたんだ」
それだけでも少女であるイルマにとっては大打撃だっただろうに、彼女はいろんなところから血を流していた。体のあちこちに消えない傷が残っているに違いない。
「あのあと、カールがイルマを連れてヴァランダンに戻った、ということなんだろうな。クセルニヒ民はカールを止められなかった、と」
フレットが「そう」と呟いて目を光らせる。
「カールは、どんな子だった?」
アーデルは、一度深呼吸をしてから、こう答えた。
「あれが本物の皇帝の器だ」
健康で、健全で、正義と愛についての持論がある。
「あの子こそ皇帝になるべきだ」
「そうか」
「まだ子供で甘ちょろいことを言うが、度胸がある。肝が据わっていて、勇気と行動力がある。あれは、成長してもっと賢くなったら、強いと思う」
「わかった」
フレットも、大きく息を吐いた。
「カールの様子を見に行かねばね。アーデルにここまで言わせるのならば、本物なのだろうから」
自分の発言でノイシュティールンが動く、と思うと多少の不安はあるが、紛れもない事実だ。しかもハインリヒが自殺した今もうカールとディートリヒしかいない。そしてディートリヒでは絶対にカールに太刀打ちできない。
カールが本気になったら、ロイデン帝国はひっくり返る。
アーデルは、そう確信した。
「もうディートリヒとカールの一騎討ちになってしまったからね。我々は次の一手を打たねばならないね」
フレットの言葉に、アーデルは深く頷いた。
そこで、また少し、間があいた。
「――あの」
ずっと黙って突っ立っていたジークが、ようやく口を開いた。
「リヒャルトは……?」
アーデルは胸が痛んだ。ジークはずっとそれを聞きたくて聞きたくてたまらなかっただろうに、今まで我慢していたらしい。そのいじらしさを思うと、アーデルは泣きたくなる。クセルニヒに行くまではジークのこういう湿っぽさに苛立ちを感じたこともあったが、今は、とてもそんな気分にはなれなかった。
「何か報道はあったか?」
ジークがぎこちなく頷いた。
「イルマ女王の誕生日パーティに参加した人間はアーデル以外みんな死んだそうだ」
自分が寝ている間に事態はさらに悪化していたようだ。奇跡の生還だった。
「でも、遺体を確認したわけじゃないから――」
「俺は死ぬところを見た」
ジークが息を詰まらせる。
アーデルは自分の首元に手をやった。
寝間着の襟元から、ずっと肌身離さずつけていたペンダントを取り出した。
無骨な十字のペンダントトップが、重い。
それをはずして、ジークのほうに差し出した。
ジークが手を伸ばした。
その手が震えていた。
ジークの手の平の上に、十字を置く。
「リヒャルトに、何かあったら渡してくれ、と頼まれた。ザイツェタルクでは意味のあるものなんだろう?」
ジークは目を丸く見開き、蒼ざめた顔でそれを裏返して、そこに刻まれたリヒャルトの名前を確認した。
「あと……、リヒャルト、何か、言っていたか……?」
世界は、ジークにとって、あまりにも、過酷だ。
「リヒャルトの最期の言葉は――」
ジークが、崩れ落ちた。
「ジギスムント王万歳、だった」
絶叫し慟哭するジークの肩を、レオがそっと抱いた。
ザイツェタルクには、春はまだ来なさそうだった。
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