第17話 イルムヒルデ女王の従兄

 その後、ザーラは言ったとおりアーデルを宿に案内してくれた。娼婦の少女に紹介してもらったいかがわしい安宿とは違う、狭いがこざっぱりした部屋だった。地方から出張で都に来た下級官吏が滞在するための宿らしい。政治の混乱のために長らく封鎖されていたとのことで、アーデルとザーラがたどりついた時には、ザーラが手配した老女が一人で掃除をしていた。食事も彼女が準備してくれた。


 他にも、ザーラはアーデルにブーツとコート、手袋とマントを与えてくれた。これで外歩きの際の寒さをしのげる。人生でこんなにも服の一着一着の大切さを噛み締めたことはない。


 ザーラは多くを語らなかった。


 アーデルはザーラにいろんなことを聞きたかったが、彼女は質問の大半を「あなたには関係がありません」「それを知ってどうするのですか」と言ってはねのけた。取りつく島もない態度だ。本当に自分にイルマの将来を託す気があるのかいぶかしんでしまうほどである。


 ただ、彼女はこの問い掛けには答えてくれた。


「どうやって俺の居場所を突き止めたんだ?」

「情報網があるからです」

「情報網? スパイの?」

「娼婦の、です。ある少女が、ある若い男性を保護した、彼を救ってほしい、外国人のようだから祖国に帰るために協力してやってほしい、という情報を流したのをつかみました。彼女が語った外見的特徴が合致したので十中八九アーデルハルト・ファウンターだろうと判断してゆくえを追いました」


 リヒャルトが金貨を握らせた、アーデルを拾って医者に診せてくれたあの少女だろう。ゆとりがなくてひどい態度に出てしまった。心から反省した。


「私ももともとは辻に立つ娼婦でした」


 その発言には驚いた。道端で売春をしなければならないほど身分が低い女は、城の中に入れない。メイドですら採用されないだろうに、女王と直接会話ができる職につけるはずはない。


「どういう経緯で女王の近習に?」

「あなたに説明する義務はありません」


 そこまで言うと、彼女は宿の部屋を去った。


「明日は必ずハインリヒ皇子にお会いください。約束は守っていただきますからね」


 ところどころ納得がいかないところもあったが、アーデルは「ああ」と頷いた。


「その……、ありがとうな」

「愚かですね。私もあなたを陥れるつもりだったらどうするのですか」


 彼女の瑪瑙のように硬質な瞳がアーデルを見ている。


「ノイシュティールンのような豊かなところで育つとあなたのようなお坊ちゃんが量産されるのだと学びました」


 痛い指摘だった。


「では、ごきげんよう」


 それを最後に、彼女とは別れた。




 翌日の朝の目覚めも悪かった。しかも目が覚めてからも左腕の骨折のせいで顔を洗うのに一苦労だった。悪夢が続いている。


 しかし、朝ご飯は宿の世話役の老女が用意してくれたパン粥とスクランブルエッグを食べることができた。どれくらいぶりの食事だろう。ついついザーラに感謝してしまう。


 今日の昼、ブラウエ行きの船に乗れる。


 しかし心は晴れない。


 船が出る直前くらいに、イルマが火刑に処される。


 心に重石おもしがのっている。


 確かに彼女は暴君ではあったが、まだ十五歳の少女だ。それを焼死という数ある処刑方法の中でも特に残酷なやり方で葬り去るというのが、クセルニヒ民の怒りの大きさを物語っている。


 そこがきっとこの国の狂乱のひとつのピークだ。

 見届けねばならない。


 だが、そのショーをゆっくり会場の聖マリー噴水広場で待っているわけにもいかない。

 ザーラと約束したとおり、聖ゲオルク修道院に行ってハインリヒを引きずり出さないといけない。

 ザーラの情報網がどこにどう広がっているかわからない。ここでハインリヒのことを無視して船に乗ったらどうなるかわからなかった。

 それに、大麻を吸っていない時のハインリヒは比較的扱いやすい男だ。靴擦れだらけの足で山を登らないといけないことを除けば、そんなに難しい話ではないように思われた。


 ブーツはアーデルの足より少し大きいサイズだったが、包帯をぐるぐると巻いたらちょうどよくなった。包帯のおかげで足の痛みもかなり楽になっている。それでも痛いには痛かったが、昨日ほどの苦痛ではない。


 そう思って市壁の外に出たのだが、途中で見込み違いが起こった。


 前回は修道院に向かう道すがらで自分たち以外の人間に会うことがなかったので、今回も人目から離れられる静かな道中を想像していた。


 ところが今日は違った。


 修道院までの山道が、斧や鍬を持った青年たちで埋め尽くされていたのだ。


 彼らはピクニックにでも行くかのような明るい顔で、ぺちゃくちゃとおしゃべりしながら山登りをしていた。


 胸がざわつく。


 ザーラが用意してくれた清潔だが簡素なマントのおかげで、クセルニヒ民の間に紛れることができる。目立たぬように気をつけつつ、密かに近くにいた青年の肩を叩いた。


「やあ、同志」


 青年がまったく警戒していない様子で「なんだい」と言って振り返る。


「人の流れに乗ってうっかりここまで来てしまったが、この先にあるのは修道院だよな? 俺の記憶が確かなら、聖ゲオルク修道院だと思うんだが」

「いまさら何を言ってるんだ?」

「俺は革命の志に触発されて地方から出てきたばかりで、ゲルベスの地理や歴史がわからないんだ」

「ああ、最近増えたな、そういうやつ」


 怪しまれずに済んだ。ほっと胸を撫で下ろす。


「聖ゲオルク修道院は何百年と王家と癒着してた生臭坊主どもの巣窟だ。聖職者の風上に置けん贅沢な暮らしをしてるって聞いてな。一緒に平等の理念の鉄槌を下しに行こう!」


 アーデルは胃がねじれそうになるのを感じながらも笑顔を作って適当に話を合わせた。

 実際に修道院の中に入った感じでは、彼らは清貧を保っていて特別に贅沢をしている感じではない。ブラウエの教会や修道院の司祭たちに比べたらよほど真面目に奉仕活動をしている。しかし革命の志士たちにとっては王の庇護すなわち奢侈だ。

 ふと、視線を遠くにやる。

 そうでなくとも、敷地内で大麻を栽培していたようだから、どのみち滅んだほうがいいと言われればそうかもしれない。


 彼らがなぜ大麻栽培に手を染めたのかは、なんとなくわかる。

 けれど、どんな理由があってもやってはいけないことというものはある。


 頭が痛くなりそうだ。


 アーデルは目の前の青年から逃げることにした。


 すべては後回しだ。まずはザーラの依頼をこなして、二人で船に乗ることだけを考える。


 船に乗ってしまえば、思い出すこともないかもしれない。きっと思い出すだけで気分が悪くなるだろう。


 悪い夢から覚めたい。


「すまん、知り合いの顔を見つけたので先に行く。じゃあな」

「おお、気をつけて」


 話を聞かせてくれた青年から離れて、人波を割るようにして先を急ぐ。


 この混雑の中をハインリヒと二人で逆流するのは骨が折れそうだ。だが、やらなければハインリヒは死ぬかもしれない。アーデルはどんな人間の話であっても不慮の死などこの世に存在しないほうがいいと思っているたちだ。ハインリヒに恩を売れるのもいい。ザーラやイルマにも恩を売れる。アーデルにとって損になる話ではない。


 山道を駆け上がる。


 走ると全身が軋む。打撲のあとが痛い。もっと安静にしたほうがいい気がするが、あと少しで船に乗れるのだから我慢だ。ブラウエに帰ればいくらでも寝られる。


 修道院の門までたどりついた。


 大勢の人間が鉄の扉の前で不満の声を上げていた。どうやら扉を固く閉めているのを逃げだと言いたいらしい。修道院側からしたら敷地内に立てこもるのが正解だろう。修道院という施設の仕組み上、何ヵ月でも耐えられるはずだ。


 さて、ここからどうするか。


 アーデルは眉間にしわを寄せて考えた。


 どうにか中に入らなければならない。ハインリヒに会わなければならない。思っていたより難問だ。昼までにこの扉を開けさせるには、どうしたらいいか。


 近くにいた男が、ふと、「何だあれ」という呟きを漏らした。


「誰だ?」


 男の視線の先をたどると、鐘楼があった。大きな鐘がある尖塔で、鐘を鳴らすために人間がのぼることができる。


 鐘楼の鐘のそばに、人がいる。


 黒い髪、碧の瞳、白い肌――ハインリヒだ。


 彼は蒼い顔をして暴徒たちを見下ろしていた。


 どうしたのだろう。何かするつもりなのだろうか。


 嫌な予感がする。脈が速くなる。


 できることがあると思うなら何か言ってほしい気持ちと、余計なことは何もしないでほしいという気持ちとで、頭の中がぐちゃぐちゃになる。


 誰かが言った。


「ハインリヒ皇子だ」


 まずい。


「イルマの従兄だ」


 その前にロイデン皇帝の血族でツェントルム王族だろう、と言いたかったが、ここで口を開いて目立ちたくない。


「出てこい!」


 暴徒たちがいきり立った。


「王家から金を貰ってぬくぬくと暮らしやがって!」

「すべてのロイデン人が迷惑してるんだぞ!」

「引っ込んでないで何か言え!」


 アーデルにはハインリヒがうまく対応してくれることを祈ることしかできない。


「おりてこい!」

「殺してやる!」

「裁きを受けろ!」


 ハインリヒは罵詈雑言の嵐を浴びながらしばらく硬直していた。


「早く死ね!」


 はたして、祈りは通じなかった。


 やっと一歩を踏み出した、と思った時、背筋が凍った。


 両手を手すり壁につく。

 上半身を傾ける。

 頭が壁を越えて空に浮く。


「やめろ!!」


 アーデルは思わずそう叫んだが、当然ながら届かない。


 ハインリヒの体が、宙に浮いた。


 鐘楼は高い。城のやぐらよりも高く天に突き刺すように伸びた尖塔だ。下町の宿屋の二階とは比べ物にならない。


 頭が、ぐらりと、地面に落ちていく。


 言葉を失った。


 ハインリヒが、落ちていく。


 西瓜が割れるような音、それから木が折れるような音がした。


 扉の向こう側なので目で見て確認することはできなかったが、何がどうなっているのかは想像できる。


 アーデルはその場に立ち尽くした。




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