第16話 本物の忠臣

 アーデルは走った。

 この新聞の日付が今日のものならばまだ間に合うと思ったからだ。

 というより、そうであってほしかった。ただ信じたかった。


 懐中時計をリヒャルトに預けてしまったので、正確な時刻はわからない。

 だが、先ほど教会の鐘の音が聞こえたので、だいたい正午過ぎなのはわかる。


 処刑のショーは午前午後にまたがって開催されるようだが、新聞のリストの順番どおりならリヒャルトの順番は午後らしい。


 このままでいけば、リヒャルトは殺される。


 彼はきっとバルトロメオに逆らって投獄されたのだろう。


 申し訳ない。


 今度は自分が彼を救わなければならない。


 助けられるチャンスは一回だけだ。首をくくられるその直前、処刑台に上がる時だけだ。処刑台に連れてこられるまではどこの牢屋にいるかわからない。処刑場に顔を出してからがリヒャルトの居場所を知ることのできる最後の機会だ。


 奇異の目で見られるのを気にしないふりをして、ふたたび大きな通りに出た。


 真ん中に立ち止まって、あたりをぐるりと見回す。


 ある方角で、海が見えた。


 ゲルベスにおいては、海が南、城が北だ。


 そして、処刑場は北西の城壁の近くにある。絞首刑にした罪人の遺体を城壁に吊るすため、最短距離で移動できるように設計されているのである。


 悪趣味極まりない。


 こんな地獄でリヒャルトを死なせるわけにはいかない。


 また、走り始めた。


 サイズの合わないサンダルがずれて、親指の下あたりが痛んだ。きっと靴擦れになっているだろう。けれど死ぬよりはマシだ。自分が走るのをやめたら、リヒャルトは死ぬ。

 何もかも、死ぬよりはマシなのだ。




 ややあって、予想どおり処刑場につくことができた。


 アーデルは落胆した。


 処刑場は大にぎわいだった。おそらく千人以上の人間が詰めかけていて、アーデル一人では移動することすら困難だった。


 処刑は順調に進んでいる。おそらく十分程度で一人の頻度で首をくくっているものと見える。死刑囚たちは処刑台の下に並べられ、屠殺を待つ家畜でもここまで悲惨な状況ではないのではないかと思うほど秩序的に台に上がらされていた。泣き叫び、命乞いをする声が断続的に響き、観衆たちがそれに罵声で応えている。


「殺せ、殺せ!」

「貴族どもは一斉処分だ!」

「浄化だ! この国を浄化するんだ!」


 耳をふさぎたくなる。


 目を逸らしてはいけない。ここで逃げたらリヒャルトの人生が終わる。


 死刑囚たちの顔を順繰りに目視で確認した。


 リヒャルトの姿を見つけた。囚人服に着替えさせられているようだったが、顔だけ見るといつもどおりだった。特に怪我をしているわけではなさそうだし、取り乱している様子でもない。淡々とした、冷静な、いつものリヒャルトだった。


 間に合った。


「どいてくれ」


 アーデルは人波を掻き分けて前に進もうとした。


 これがなかなか難しいのがもどかしかった。


 人の壁が分厚すぎて、一歩進むこともうまくいかない。


 周りは興奮していてアーデルを見向きもしなかった。たまに人魚の旗を振っている人もいて、処刑台のほうを見つめ続けることすら困難を極めた。


 絶望の色がどんどん濃くなっていく。


 処刑台の周りを、槍を持った人々が囲んでいることに気づく。

 対するアーデルは小刀の一本すらも持っていない。


 囚人たちが、次から次へと、縄にかけられる。


「最後に何か言い残すことは」

「財産はいくらでも手放すから助けてくれ!」

「落とせ」


 足元の板が落ちる、がたん、という音。


「次」


 囚人が階段を上がる。


「最後に何か言い残すことは」

「死にたくない!」

「落とせ」


 足元の板が落ちる、がたん、という音。


「次」


 ここは地獄だ。


 手を伸ばしても、届かない。


 涙があふれた。

 自分はどうしてこんなに無力なのだろうと、うちのめされた。


 もう何もできない。


 見慣れた顔が、階段を上がる。


 丸く輪の形に結ばれた縄を首にかけられる。


 処刑人が訊ねる。


「最後に何か言い残すことは」


 次の時、アーデルは、心臓が握り潰されたような胸の痛みを覚えた。


「ジギスムント王万歳!」


 その若い声が高らかに広場じゅうに響いた。


 ああ、とアーデルは思った。


 その一言ですべてが一本につながった。


 一緒にルートヴィヒ帝の葬儀に来たのも。

 オグズ帝国の女皇帝スルタンと婚約したのも。

 レオを出迎えたのも。

 海賊船に乗り込んだのも。

 クセルニヒに渡ったのも。

 アーデルを守ると誓ったのも。


 すべて、すべて。


 ただ、ジークのためだったのだ。


 これが本物の愛であり忠義だ。


 リヒャルトこそが、ジークの一番の忠臣だったのだ。


「落とせ」


 足元の板が落ちる、がたん、という音。


 歓声が上がる。


「ロイデンのすべての王に鉄槌を!」

「ザイツェタルク王も吊るせ!」

「クセルニヒ共和国万歳!」


 アーデルにはもうそれ以上前に進むことができなかった。


 ただ、遠く物見台の観覧席でバルトロメオが甘く微笑んでいるのだけが見えた。


 雪が、降っていた。





 もう何もする気になれなかった。


 アーデルは人波に押し出されるまま広場を出て、細い小路こみちに座り込んでいた。


 小便のにおいのする壁に背中を預けて、地面をねずみが駆け抜けていくのを眺める。


 投げ出した足の先、白い靴下に赤い血が滲んでいるのが見えた。


 すべてがどうしようもない。


 自分は一人では何にもできない男なのだということを思い知らされた。


 これがアーデルではなくエーレンだったら何か違っただろうか。


 神様は意地悪だ。


 呼吸をするのですらつらい。


 外は静かになっていた。リストに名前があった全員の処刑が終わったからだ。そろそろ日も暮れてきたことだし、観衆は解散したのだろう。時々通りのほうを歩いていく人の影が見えたが、この小路を覗き込む者はなかった。


 そう思っていた。


 不意に明るいものが近づいてきた。誰かが明かりを持ってこの小路に入ってきたようだった。


 顔を上げた。


 すぐそこに女が立っていた。雨合羽を着て、右手にランタンを持った女だった。


 彼女は、無言でアーデルを見下ろしていた。


 濃茶の髪、同じく濃茶の瞳、切れ長の目、低い鼻――見覚えのある顔だ。


 どこで見たのだろう。


 ゲルベス城の晩餐会だ。


 思い出した。


 イルマの侍女で、ザーラと呼ばれていた女だ。


 上半身を起こして警戒した。だからといって今のアーデルにできることは何ひとつないのだが、それでもまだ頭の中のどこかで警鐘が鳴るのを聞いていた。


「ぼろぼろですね、アーデルハルト・ファウンター」


 ザーラが落ち着いた声音で言った。ただ事実を指摘しただけの声音だ。心配も同情も憐憫もない。


「何しに来た? 俺も処刑台にのぼらせるのか?」


 せいいっぱいの虚勢を張ってそう問い掛けると、驚いたことに彼女は「いいえ」と答えた。


「取引をしましょう」


 リヒャルトの鉄面皮を超える、まったく感情の揺れ動きのない声だった。


「あなたがふたつ約束をしてくれることを誓うのなら、あなたを助けます」

「約束?」

「ええ。あなたが私の言うとおりにするなら、私があなたのために今夜の宿と明日のブラウエ行きの船に乗る手筈を準備します」


 ブラウエという単語に、死にかけていた心が揺れる。


「船に、乗れるのか」

「ええ。フリートヘルムがクセルニヒ国内に残るノイシュティールン民の退避のために共和国政府に無許可で船を出すことを決めました。共和国政府は海軍将校も次々と絞首刑にしているので、それを阻止する軍艦は出せないでしょう。明日の午後にゲルベス港に行けばあなたはフリートヘルムの用意した船に乗れます」


 希望の糸が、垂れてきた。


 ブラウエに帰してくれるのなら、何でもいい。

 とにかく、帰りたい。


「条件は何だ」

「要求を呑むのですね」


 一瞬ひるんだが、ここははったりでも、と思ったので、アーデルは「ああ」と頷いた。


「ひとつめ」


 ザーラの肩に、雪が降り注いでいる。


「明日の午前中に聖ゲオルク修道院を訪ねてハインリヒ皇子とお会いください。そして彼を連れ出してブラウエ行きの船に乗せてください。午前中のうちに山をおりれば乗船には支障が出ないので、不可能ではないと思われます」

「ハインリヒを? なぜ」

「一人でも多くイルマ様のお味方を生き延びさせるためです。ハインリヒ皇子の身分であればツェントルムでかくまってもらえます。ハインリヒ皇子にツェントルムへお帰りいただきたく存じます」


 あの大麻中毒にだいそれたことができるとは思わなかったが、クセルニヒ王族の血を引いているのは確かだ。彼はイルマにとって母方の従兄である。彼の性格を考えても、イルマを冷たく突き放すとは思えなかった。イルマの味方を生き残らせるというザーラの目的は理解できる。


 どのみちゲルベスの街中にいてもやることはない。午後船に乗るまでの時間潰しだ。修道院で休めるなら、という気持ちもあった。この前大麻を吸引する儀式を目撃して殺されかけたが、午前中ならみんなまだ正気だと思いたい。そうであると信じるしかない。


「わかった。絶対とは言えないが、挑戦してみる」

「よろしくお願いします」

「で、ふたつめは?」


 ザーラは少しのあいだ、間を開けた。


「……イルマ様を」


 少しだけ、目線を下に落とした。


「イルマ様をお助けください」


 アーデルは一瞬息を詰まらせた。

 イルマが処刑場で民衆に撲殺されるかと思うような勢いで殴られていたのを思い出したからだ。

 そういえば、彼女は今どこにいるのだろう。


「イルマはどこで何をしている?」

「今はゲルベス城の地下牢に監禁されていますが、明日聖マリー噴水広場で火刑に処される予定です」

「火刑!?」

「この国では魔女は火あぶりになります」


 ザーラがまたまっすぐ目を持ち上げた。


「いいえ、あなたに明日広場に乱入していって直接お救いしろと申し上げているわけではありません。策はあります。あなたに頼んでいるのは、明日イルマ様が生き延びてからの話で、いつになるとも言えない、不確定な未来の話です」

「はあ……」

「どうか」


 彼女はその場に膝をついた。

 地面にランタンを置いた。

 そして、両手を地面についた。


「この先イルマ様があなたと再会する時があって、その時にイルマ様があなたに何か頼みごとをするようなことがあったら、その時には手を貸してさしあげてください」


 深々と頭を下げる。


「お願い致します。イルマ様には一人でも多くの味方が必要なのです。もちろん、人間を殺せというような、あなたの倫理道徳に照らし合わせておかしいことでしたら、断って構いませんが」


 表情も、声色も、何ひとつ変わらなかった。

 だが、アーデルは、リヒャルトを思い出した。

 本当の忠臣というものは、主君を救うためなら何でもするものだ。


「わかった」


 自信はないながらも、ザーラの熱意に押されて頷いた。


「もし将来再会することがあったら、イルマの頼みごとを何でもひとつ聞くことにする」


 そう言ったら、ザーラは顔を上げた。ランタンを手に持ち、何事もなかったかのような顔で立ち上がる。


「では、今夜の宿にご案内致します。歩けますか」


 アーデルは「ああ」と答えた。もうどうにでもなれという気持ちもあったし、イルマを一途に思う彼女の気持ちを信じたいという気持ちもあった。


 明日、船に乗れる。

 それに、すがりたい。


 アーデルも、立ち上がった。



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