第15話 この国にはろくな人間がいない
気がついたら、ベッドの上で寝ていた。
アーデルは、目を覚まして、見慣れぬ天井に驚いた。
どうやら自分はあの宿屋の二階から飛び降りた時に頭を打ったか何かして意識を失っていたらしい。地面に叩きつけられてからここに至るまでの記憶がない。
ここはどこだろう。
狭い部屋だった。ささくれた木製の床に、同じくどんよりと曇った木製の天井の部屋だ。窓は小さくて薄暗い。上の階から足音が聞こえる。備えつけられた家具はベッドとベッドサイドのチェストだけで、チェストの上に水差しとマグカップがひとつずつ置いてあった。
上半身を起こした。
ちょうどその時、外からドアが開いた。
入ってきたのは、見覚えのある顔の少女だった。
昨日宿を紹介してもらうために金を渡した娼婦だ。
「あらお兄さん、目が覚めた?」
彼女はにこりと愛想よく微笑んでこちらに近づいてきた。
「よかった。目が覚めなかったらどうしようかと思ってた」
「ここはどこだ?」
「あたしたちの馴染みの医者の診療所よ。赤ん坊を
体を動かすと左腕に激痛が走った。左腕を見下ろしたら、添え木をした上で包帯をぐるぐる巻きにされていた。これは骨折した時の処置だ。どうやら飛び降りた時に折ったらしい。
溜息をつきながらベッドサイドに立ち上がる。
幸運なことに、下半身は動かせる。全身のあちこちが軋むように痛むが、おそらく打撲程度だろうと勝手に判断する。
歩ければなんとかなる――自分にそう言い聞かせつつも、腕が使えないようでは剣を振るえないので不安だ。
そう思ってから、はっとした。
剣がない。
剣どころか、上着もない。靴もない。上着のポケットに財布を入れていたので、財布もないことになる。本当に身ひとつ、何も持たずに出てきてしまった。
床についた足を見る。冬の寒さに耐えかねて分厚い靴下を履いているが、これだけで長時間歩くことはできない。
自分の足元を見て動揺しているアーデルに気がついてくれたようだ。娼婦の少女が「これあげる」と言って男性用の黒いサンダルをアーデルの足のそばに置いてくれた。助かった。古くてサイズの合わないサンダルだが、靴下一枚よりはマシだ。
「お前が助けてくれたのか?」
サンダルを履きながら問い掛ける。少女が「そうだよ」と答える。
「行きつけの宿屋に兵隊さんたちが入っていったって聞いて、あのお兄さんたち大丈夫かしらって心配になって、様子を見に行ったの。そしたら上から落ちてきてびっくりした」
「ありがとうな。荷物を全部置いてきてしまったから何のお礼もできないけど」
「金貨を一枚くれたじゃない? あれでおつりがくるよ」
なんて健気で優しい子なのだろう。生粋のクセルニヒの民として出会った人間の中では唯一信頼に足る相手のように思われた。
「歩ける? 申し訳ないけど、ここは女の子たちのための施設だから、男の人を長期間置いておくわけにはいかないんだ。治安の悪いところになるけど、
「賭場か……」
気は進まないが、娼婦たちの駆け込み場所になっている診療所に長く居座るのは確かにちょっと気まずい。かくまってくれるのならそれだけで感謝しなければならない。選んでいられる立場ではないのである。
「ねえ、お兄さん」
娼婦の白い歯が、唇と唇の間から、ちらりと見える。
「あんまりゆっくりしていられそうにないね」
アーデルは彼女の顔をまじまじと眺めた。
彼女は、ゆるりと、笑っていた。
「あたしたちの情報網に、お兄さんのこと、流しておいたから」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
バルトロメオの言葉が、脳裏をかすめていった。
――実は、今の君たちと同じくらいの年の頃にスパイをやっていたことがあってね。当時の情報網が今も生きているんだよ。
情報網、情報網、情報網――その言葉が頭の中をぐるぐると回る。
ここは、魔女と海賊とスパイの国クセルニヒだ。
誰が誰と通じていてどこにどんな情報が流通しているのか、外国人のアーデルにはわからないのだ。
クセルニヒ民に心を許してはならない。
騙されてはいけない。
信じてはいけない。
頼ってはいけない。
この国は強固な監視社会だ。
みんな自分の身を守るために情報を売ることくらい何でもないだろう。
ろくな人間はいない。
「きっと女の子たちがお兄さんのことを助け――」
アーデルは少女の腕をつかむと彼女を床に叩きつけた。少女が「きゃっ」と悲鳴を上げて転がった。彼女の体が沈んだことで視界にドアの全容が入った。
「ちょっと……!」
ドアを開けた。
外に飛び出した。
すぐそこは石造りの廊下になっていた。右手にくだりの階段が、左手にのぼりの階段が見える。平面上には出入り口はない。先ほど窓から明かりが見えていたので、ここは少なくとも地下ではない。いちかばちかくだりの階段をおりて地上階に出ることを祈った。
賭けに勝った。
階段をおりると大きな扉があり、ちょうど外から開けられたところだった。入ってきたのは白髪の小柄な男性で、大きな黒いかばんをさげている。少女が言っていた医者だろう。
「おや、あんた、意識が戻って――」
アーデルは彼を無視した。自分の体の状態について知りたくもあったが、それ以上に彼もスパイで誰かとつながっているかもしれないということが怖かった。彼のことも突き飛ばして、外に駆け出した。
外は雪が降っていた。時間帯としては昼間のようだが、コートもジャケットもない、足元も爪先が出るサンダルのアーデルには寒さがこたえた。フレットに買い与えられた分厚い服が恋しいが、きっとあの宿の中である。
今はまだ二月だ。
ブラウエ行きの乗船券が買えるのは最短で三月だ。もしかしたら昨日今日にまた売れて四月まで延びているかもしれない。
否、そもそも財布がない。一文無しの今の自分がどうやって乗船券を得るのか。
少女も医者も追ってはきていないようだった。それが唯一の救いだ。
大きな通りをとぼとぼと歩く。薄着でサンダルのアーデルを奇妙なものを見る目で見ている人がちらほらいるので、目立たないよう脇道に入ったほうがいいだろう。
しかし、ここはどこだろう。あの診療所はいったいどのへんに位置していたのだろう。ゲルベス市内なのは間違いないが、アーデルは一時的に方向感覚を失っていた。
薄暗い路地に入っていった。
ふと、地面に落ちている紙の束に気づいた。誰かが捨てていったらしい。こういうところにごみが落ちている不潔さがきついが、今の自分はそれをつべこべ言っていられる立場ではない。
紙の束は新聞紙のようだった。
少しでも情報が欲しくて、アーデルはそれを拾った。
日付の欄を見てぎょっとする。
自分の感覚と一日ずれている。日付が想像の翌日だった。どうやらあの診療所で丸一日眠ってしまっていたらしい。
眠っていたのは本当に一日だけだろうか。
この新聞が今日のものとは、限らない。
これが昨日のものだとしたら、意識を失う前の話が二日前のことになる。
自分の想像に鳥肌が立つ。
これが今日のものだと信じて読むしかない。仮に昨日のものだったとしても、情報が一日分増えるだけで助かる。
一面を飾っていたのは、こんな恐ろしい文言だった。
『前時代の支配者たち、絞首刑』
どうやら特別罪が重いとみなされた位の高い貴族たちが処刑されることになったらしい。
胸が潰れる思いだ。
クセルニヒ市民の言うこともわからなくもなかった。
あんな狂った監視社会は馬鹿げていた。それを強いたと思われるクセルニヒ政府に怒りの矛先を向けるのは当然だ。自由の国ノイシュティールンで生まれ育ったアーデルにとって、民衆が不条理な支配者を突き上げることは正当な権利のように思われた。
けれど、それをこんな形で発散する、となると、自由とは血で血を洗う争いの果てにしか得られないものなのか、と感じられて苦しい。
震える手でページをめくった。次の面に死刑囚リストが掲載されると書いてあったからだ。晩餐会や誕生日パーティの参加者で挨拶した人の名前があれば、おぼえておく必要があった。くにに帰った時にフレットに報告しなければならない。
リストを開く。
想像を超える人数に目眩がしそうになる。
それでも文字をなぞっていって――ある名前で、アーデルの目は留まった。
そこに、リヒャルト・グルーマンの名前があった。
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