第14話 アーデルにはあってリヒャルトにはないもの
その日の夜、アーデルとリヒャルトはゲルベスの街の中心部から離れた下町に宿を取った。
二十三年も都市で生きていると、治安が悪いところは肌感覚でなんとなくわかる。道路脇にごみが落ち、壁には落書きがあり、角には街娼が立っていて、他にひとけがない。そういうところには官憲も入るのを躊躇する。
たまたま目についた街娼に金を握らせて、彼女らが普段客と睦み合うのに使っている宿を教えてもらった。きっと夜になると隣の部屋から過激な声が聞こえてくるのだろうが、ここは忍耐だ。
一応彼女にもついてきてもらった。
男二人に女一人、女のほうは地元民、という状況は、この街区では効果があった。みんな自分たちが何をしようとしているのか勝手に想像するからだ。相当な好きものだと思われてしまうが、背に腹は代えられない。それに今のゲルベスには義勇軍に参加するために地方から出てきた若者があふれ返っているので、そういう需要があると思われているのを感じる。
宿の部屋に入ると、かびと誰かの体臭のにおいが混ざった不快な空気が充満していた。唯一の救いは三人で使うと言ったおかげで寝床がセミダブルサイズのベッドだったことだ。思っていたより少し広く自分の空間を持てそうである。
アーデルは部屋に入ってすぐベッドに身を投げた。マットが薄くて痛かったが、屋内で横になれると思うだけでありがたかった。
「ありがとう、ここまででもう十分よ」
リヒャルトがここまでついてきてくれた娼婦に金貨を渡している。少女のように若い娼婦は青い瞳をきらきら輝かせていた。
「こんなにくれるの? ありがとう! これで半月くらい仕事をしなくて済みそう」
「それはよかった。ゆっくり休暇を取ってね」
「本当にもう出ていっていいの? 二人くらいなら相手できるよ。あたし、一回で五人としたこともあるんだから」
「いいの、いいの。その代わり私たちがここにいることを誰にも言わないでね。訳アリな身分なのよ」
「わかってる。あんたたち、身なりがいいもの。無事にゲルベスを出れるといいね」
彼女は手を振って部屋から出ていった。リヒャルトはそれを見送ってからドアに鍵をかけた。
アーデルの隣にリヒャルトも横たわった。
二人、背中合わせで呼吸をする。セミダブルと言っても狭いベッドの上だ。肺が動くたび背骨が触れ合う。
「もっと広い部屋がよかったわね。ベッドはツインで」
リヒャルトはそう言ったが、アーデルは「俺はべつにいいけど」と答えた。
「恋人でもない相手とこんな至近距離で一緒にいて疲れない?」
「ぜんぜん。むしろ同い年で同性だと思うと安心する」
「変わっているわね」
ゆっくり、まぶたをおろす。
「母親の腹の中にいた時からずっと狭い空間を二人で分け合ってきたから、いつものことのように感じる」
誰かの体温が、心地よい。
「そういえば、あんたは双子の片割れなんだった。もうここ数日がめちゃくちゃ過ぎてあんたがどこの誰か忘れそう」
「俺はお前がザイツェタルクの騎士様でお貴族様なんだということをひしひしと感じてるけどな……」
「えっ、どこから?」
「立ち居振る舞いのすべてから。今のゲルベスではもっと野蛮そうにしないと殺されるぞ」
「ちょっと、もっと具体的に教えてよ」
体を横にできるということがこんなにも安らげることだとは思っていなかった。夜が来たら当たり前のように自分のベッドで眠れるということは幸福なことだったのだ。
相棒は今どこで何をしているだろう。心配していてくれるだろうか。ゲルベスの惨状がどこまで伝わっているか気になる。
ほどなくして睡魔が襲ってきた。アーデルは抗わなかった。リヒャルトに「おやすみ」とだけ告げて、さっさと目を閉じてしまった。
それからどれほどが経った頃だろう。
不意に誰かに頬に触れられているのを感じた。
夢にしてははっきりとした感触だった。
誰かの大きな手が、自分の頬を撫でている。
アーデルはそれを不快に思った。この世でアーデルに触れることを許しているのは現在エーレンだけだからだ。そのエーレンでも無許可でこんなに距離を詰めることはめったにない。自分の身体が不当に侵害されているように感じた。
目を開けた。
失禁しそうなほど驚いた。
「やあ」
いつの間にかベッドサイドに置かれているランタンの炎に照らされて、ブラウンの髪と瞳の男の姿が浮かび上がった。高い鼻と頑丈そうな顎の甘いマスク、船の上で嗅いだ記憶のある香水のにおい、何もかも信じがたい。
「おはよう、アーデル。まだ朝には早いけれどね」
男は――平民宰相バルトロメオは、とろけそうな笑みでそう言った。
弾かれたように上半身を起こした。
隣を見た。
誰もいなかった。
リヒャルトの姿がない。
この部屋でバルトロメオと二人きりだ。
「どうしてあんたがここに」
バルトロメオが笑みを絶やさずに言う。
「実は、今の君たちと同じくらいの年の頃にスパイをやっていたことがあってね。当時の情報網が今も生きているんだよ」
ずっと前から噂として耳に入れていた情報だった。事実だったのだ。どうして忘れていたのだろう。
「君たちはうまく逃げおおせているつもりなのかもしれないが、私の手の平の上なんだ」
バルトロメオがベッドの上に身を乗り出した。顔と顔とが近づく。吐息が鼻に触れそうになる。あまりにも距離がなさすぎる。アーデルは身を引こうとした。得体の知れない、不気味で不愉快な化け物が這い寄ってきた気分だった。
彼の左手が、ベッドの上についていたアーデルの右手をつかんだ。
鳥肌が立つ。
「ああ……、なんて美しいんだ」
そう言って、バルトロメオは右手でアーデルの頬を撫でた。
「可愛い……、可愛いね。ここまで連れてきたかいがあった」
「な……なに……?」
今までに起こったことのない危機が迫っている。
「アーデル、ひとつ契約をしよう」
うっとりとした顔でアーデルを見つめている。
「一夜だけでいい、思い出をくれないか? そしたら、ブラウエ行きの船を手配してあげてもいい」
「思い出? なに? どういう――」
「枕を交わさないか?」
左手が、アーデルの右手をしっかり握っている。
「君と性交したい……」
彼は、絶句しているアーデルから、右手を離した。
そして、トラウザーズの前をそっと撫でた。
「君のお尻の穴に私のペニスを挿入したい……」
こんなことは生まれて初めてだった。自分はなんとお気楽に生きてきたのかと痛感させられた。
バルトロメオは恍惚とした顔でアーデルの中心を撫でさすっている。
「困った顔をしているね。初めてなのかな? 優しくするよ……」
「待……っ、なに、え……っ」
「気づかなかったのかい? 私は同性愛者なんだ」
股間を軽く握られた。
怖い。
「私は若くて美しい男が大好きなんだ。そう、イルマ女王と好みが一緒なんだよ。女王のおこぼれ、おさがりをたくさん抱いてきた。宰相とはなんと素晴らしい身分かと思う。永遠にこの地位を守らなければと何度も何度も思ったよ……」
炎に照らされた白い歯でさえ気持ち悪い。
「嬉しいね……君の処女を奪う日が来ようとは、私には幸運の女神がついているんだね……」
犯される。
でも悲鳴すら出ない。
次の時だった。
バルトロメオが動きを止めた。
「――何の真似だい?」
彼の視線が下に落ちた。
彼の首に、鈍く光る刃物が突きつけられていた。
「殺されたくなかったらアーデルから離れて立ち上がりなさい」
リヒャルトがバルトロメオの背後でバルトロメオを羽交い絞めにするような形で剣を押しつけていた。
バルトロメオが両手を挙げて立ち上がる。リヒャルトがバルトロメオの左脇に左腕を差し込みながら右手でなおもバルトロメオの首に剣を近づける。
「どこまでも
「口が悪いな。可愛い顔が台無しだ」
アーデルはその場で脱力した。背中が冷や汗で濡れている。
「死にたくなかったらこれ以上がっつかないで素直に船を手配して」
「君は優しいねえ」
バルトロメオはまだ悪人の顔で笑っていた。
「アーデルの貞操を守ってどうする? 君が食べるのかい?」
「あんたと一緒にしないでほしい」
「君一人だけ清廉潔白みたいな顔はしないでおくれ」
「私が清廉かどうかはどうでもいいから約束は守れ」
変なところが敏感なアーデルは、そのリヒャルトの台詞を聞き漏らさなかった。
「約束?」
リヒャルトとバルトロメオがアーデルの顔を見る。
「約束って、何だ? リヒャルトとバルトロメオは俺が知らないところでなんらかの約束事を交わしたのか?」
バルトロメオが高笑いをした。
「性交させてくれたら船に乗せると言ったじゃないか。つまり、させてくれなかった君は乗せず、させてくれたリヒャルトは乗せてあげるということだよ」
一瞬、頭の中が真っ白になった。
「つまり、リヒャルトとバルトロメオは寝たということか?」
リヒャルトが表情をゆがめる。
「私がしなかったらあんたを犯すと言われたら私には選択肢がなかった」
最悪だ。
バルトロメオをにらみつけて「お前を殺してやる」と吐き捨てたら、バルトロメオが「美しい友情だ」と言った。
「だがこんな危ないおいたをするようだったら二人とも船に乗せてあげられないよ」
「こっちから願い下げだ!」
枕元に置いておいた剣を手に取った。
抜こうとした。
「アーデル」
リヒャルトが真剣そのものの顔で言った。
「逃げなさい」
「え」
「部屋の外の廊下にこいつの取り巻きがいる。窓から出ていきなさい」
バルトロメオが目を細める。
「ここは二階だぞ。アーデルが怪我をする」
「それは反射神経でなんとかしてもらって。どのみち廊下に出たら本物の兵士とちゃんばらなんだから」
ごくりと唾を飲む。
「お前はどうするんだ」
リヒャルトは即答した。
「どちらかはブラウエに帰るという約束だったでしょう」
決断を迫られている。
出ていくか、残るか。
残っても生き残れる保証はないし、リヒャルトの足手まといになる。リヒャルトは本物の騎士で剣の腕はあるはずなのだから、アーデルが邪魔をしなければ生存率は上がるのではないか。
否、自分はずっと足手まといだったのではないか。
離れるべきだ。
そうと決まったら早い。
「またあとで合流しよう」
そう言うと、アーデルはベッドからおりて窓に向かって走った。
窓を開けた。
暁の光が差し入る中、アーデルは地面に飛び降りた。
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