第13話 腐敗した政治が終わった国

 二人は明るい雰囲気のゲルベスの街を小走りで動いた。


 今のゲルベスは、二人が到着した時とはまるで違う街だった。


 破れられた王家の紋章の薔薇が描かれた旗が壁に貼り付けられ、窓には見たことのない人魚を戯画化した絵の描かれている旗が掲揚されていた。曇天にぼろぼろの薔薇の旗と真新しい人魚の旗がはためく様子は、ぞっとするほど美しかった。


 そこかしこで炎がくすぶっている。貴族の屋敷が焼き討ちされているようだ。


 一部崩れた街並みに子供たちが駆け巡っている。子供たちは棍棒を持って「自由のために女王を殺せ! 自由のために女王を殺せ!」とはしゃぎまわっている。


 街角から血のにおいがする。角を曲がって路地を覗き込むと、上等な紳士服を着た男が壁にはりつけになって絶命しているところに出くわした。男の頭上には、白い塗料で、クセルニヒに自由を、と書かれている。


 振り切って港に向かった。


 港は当然ながら海に接している。そして自分たちが最初におり立った港は街の一番南側に面していたと思う。すぐに兵士たちに連行されたために不確かな記憶ではあったが、ゲルベスの街は海と山に挟まれていてどちらもどこからでも見えるので、迷子になることはなかった。


 港にたどりつくと、そこもすさまじい人混みだった。


 沖合に停泊する船へと向かっていくつかの小舟が移動している。見るからに富裕層のいでたちをした人物が乗る粗末な小舟に対して、群衆がブーイングをしている。


 大きな漁船が小舟に近づいた。


 漁師と思われる男たちが舟に飛び乗り、紳士服の男を小舟から海に突き落とす。


 浮かんできたところをもりで突き刺す。


 海面に赤い血液が広がっていく。


 歓声が上がった。


 恐ろしいほどの勧善懲悪の世界だ。民衆を虐げていた悪の貴族たちを抑圧されてきた民衆がやっつけている。


「これ」


 リヒャルトがぽつりと呟いた。


「どこの国でも大なり小なりこういうことが起こりうるということを意識しないとだめね」


 彼の言うとおりだ。

 ロイデン帝国には身分制度がある。

 自分たちは身分が上の人間だ。

 いつ銛で刺される側になるかわからないのだ。


 ノイシュティールン大公国は今のところ民と国家元首の対話が成立していると言える。だが、フレットがその気になればいくらでも弾圧できることに気づく人もいるはずだ。識字率が高く個人所有の富の蓄積がある程度なされているノイシュティールンでは、もっと簡単に国家が転覆するかもしれない。


 ザイツェタルク王国はノイシュティールンよりずっと過酷な状況にある。なにせつい最近オグズ人が反乱したことによりオグズ帝国の進軍を許してしまったばかりだ。騎士対異民族の構図だったことやオグズ帝国軍が統制されていたことなどが重なったので、今のところは王国の形が残っている。だが、ジークは薄氷の上に立っている。


 ヴァランダン辺境伯国はどうだろう。

 そもそも、かの国はどんな国だろうか。

 東方植民騎士団、尚武の気風、最強の騎士たる辺境伯――そういう断片的なことしか知らない。遠い東方の国であり、アーデルの身内はまだ誰も足を踏み入れたことがない。


 クセルニヒ王国は、近々イルマの処刑をもって消滅する。

 そして生まれるこの土地には何という名前がつくのだろう。


 思考を振り払った。


「とにかく、船だ。ブラウエに帰らないと」


 アーデルがそう言って歩き出すと、リヒャルトが「ええ」と言ってついてきた。


 ブラウエと同じ仕組みなら、ゲルベスにも港湾管理局があって、そこで各客船の乗船券を斡旋してもらえるはずだ。そう思い、アーデルは港湾管理局を探した。


 すぐに見つかった。


 人間の流れが、一点に集中している。


 アーデルはリヒャルトとはぐれないように気をつけながら流れに乗って列に並んだ。


 はたして読みは当たった。


 灰色の石組みの重厚感がある建物に、その雰囲気にはそぐわない看板が掲げられている。薄桃色の背景、赤と黄色の花が作る列でできた枠線の中には、定期運航便乗船券売場、と書かれていた。


 楽園への切符を手に入れられる気分だ。


 すがる思いで、一日千秋の思いで並んだ。

 日が暮れてからやっと窓口にたどりついた。


 窓口では、三人の女性が並んで座っていた。どの女性も明るい表情をしていた。


「こんにちは」

「こんにちは。さっそくだけど、船に乗りたいのだが」

「どちらまでですか?」

「ブラウエまで」


 窓口の女性が、手元の予約表をめくり始めた。


 心臓が、口の中に来たのではないかと思うほど強く脈打っている。


 女性が、にこ、と愛想よく微笑んだ。


「最短で三月二十四日になります」


 一ヵ月以上後だ。


 叫びながら転げ回りそうになった。


「ブラウエ線、そんなに人気があるのか?」

「一番人気ですね。せっかく自由に好きな国へ行き来できる時代が来たんですもの、みんなノイシュティールンで一旗揚げたいと思っていますよ。というか、あなたがたもじゃないんですか?」


 彼女は幸せそうだった。


「ブラウエは夢がありますものね。でも、私は今はゲルベスに生まれたことを誇りに思っています。ロイデン帝国で初めて自分たちの手で女王を倒した国になりましたから」


 口から胃液が出てきそうになった。


「どうしますか? 三月二十四日の便を取りますか?」


 アーデルはリヒャルトの顔を見た。


 今度はリヒャルトが窓口の女性に話し掛けた。


「ブラウエ以外の港には何本の路線があります? 実は私たち、ゲルベスの革命を聞きつけて田舎から出てきたから、ゲルベスがどれくらい定期運航便を出しているのか知らなくて」

「あら、そうですか。まあ、最近まで政府の許可証がないと乗船券を出せなかったので、定期便なんてあってないようなものでしたよ」


 女性が小さな地図を差し出した。クセルニヒの南半分と大陸の北側の海岸線が簡略的な図で描かれている。


「この星マークがゲルベスで、二重丸のマークがロイデン帝国内の外国の主要な都市、三角のマークが異国の都市です。赤い線が今回同志バルトロメオの手によって解放された航路です」


 リヒャルトが一番近そうな都市の名前を挙げると、女性はまたもやにこやかに「最短は三月十日ですね」と答えた。


「逆に訊くわ。一番早い便はどれ?」

「そんなにお急ぎですか?」


 疑われる。手に汗をかく。

 女性は険しい表情で表をめくった。


「今月いっぱいはもうすべての便がキャンセル待ちですねえ……」


 最終手段だ。

 アーデルはコートの内側に手を突っ込んだ。

 取り出したのは財布だ。


「ここだけの話、いくらかならあなたのためだけに出せるが」


 小声でそう話し掛けた。


 こういう時、腐った国クセルニヒでは賄賂が効く、と聞いていたのだ。


 けれど、女性は甲高い声でこう答えながら立ち上がった。


「私たちのクセルニヒではもう腐敗した政治は終わったんです、贈収賄はもう通用しないんです!」


 彼女の威勢のいい声に周りの人間が反応した。

 大勢の人間に白い目で見られた。ひそひそという話し声も聞こえる。

 周囲に――クセルニヒの善良な一般市民に注目されている。


「逃げるぞ」


 アーデルはリヒャルトの手首をつかんで引っ張った。リヒャルトは溜息をつきながら後を走り始めた。




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