第11話 彼らには神の姿が見えている 2

 信じがたいことに、食卓の奥から三番目の席にハインリヒがいた。


 彼は薄く笑みを浮かべて斜め上を見ていた。食堂に闖入者ちんにゅうしゃがいることにすら気づいていない様子だった。


 これが、帝国の命運がかかっている人間の姿か。


 冷静でいられない。

 叫んで怒鳴って地団太を踏みたい。


 アーデルは扉を完全に開け放って食堂内に外の空気を入れた。深呼吸をしたかったが、ここで大きく煙を吸い込むと自分も向こう側に連れていかれかねない。


 アーデルが心の中で十を数えているうちに、リヒャルトが動き出した。


「リヒャルト?」


 返事をしなかった。

 彼はまっすぐハインリヒのほうに向かって歩いていった。


 ハインリヒのすぐそばに立った時だ。


 リヒャルトが腕を伸ばした。


 ハインリヒの胸倉をつかみ上げた。


「リヒャルト!」


 ようやくリヒャルトの存在を認識したらしく、ハインリヒの碧の瞳がリヒャルトを見た。


「よくも」


 リヒャルトの声が震えている。表情は凍りついたような無の状態だが、ハインリヒを引きずる手も声同様細かく震えていた。きっと怒っているのだろう。こんな彼の姿を見るのは初めてだ。


「私はザイツェタルクの命運をかけて会いに来たのに」


 アーデルは慌ててリヒャルトとハインリヒに駆け寄った。リヒャルトの手をつかみ、「おい、離せ」と声を掛ける。


「何キレてるんだ、お前らしくない」

「私らしいって何。あんたが私の何を知っているの」


 言われてみれば、アーデルはリヒャルトのことを何も知らないかもしれない。ここまでずっと行動をともにしてきたが、リヒャルトはアーデルの前では感情の動きをほとんど見せてこなかった。リヒャルト自身が冷静そうな顔でたまに呟く台詞からしか彼のことを推測できない。


 彼はいつも落ち着いていて、超然、泰然としていた。

 それが、今にも殴りかからんという勢いで、怒っている。


「ジークに何と報告すればいいの」


 アーデルは初めてリヒャルトの胸の内に触れたような気がした。


 そして、自分自身を恥じる。


 アーデルはあくまでイルマの誕生日パーティに招かれたからここにいる。

 リヒャルトはザイツェタルクの代表者としてジギスムント王の代わりにハインリヒに会いに来た。


 彼は周りのみんなが思っているより責任感の強い男だ。

 それに、初めて気づかされた。


 しかし、だからと言ってリヒャルトがハインリヒを殴るのを黙って見ているわけにはいかない。

 アーデルは力任せにリヒャルトの手をハインリヒの修道服の襟からはずした。

 少し突き飛ばすようにリヒャルトの肩を押す。リヒャルトが一歩分だけよろけて下がる。


「ザイツェタルクの命運ねえ」


 ハインリヒが呂律ろれつの回らない声で言った。


「そんなもの、私に言われても……。私はここで神との交感にいそしんでいるので……」

「交感? 何を言っているんだ」

「あなたがたには見えないのですか?」


 彼は、「ほら」と言って、何もない斜め上を指した。


「天使がそこにおいでくださいました。我々はこの天使たちに連れられて高みにのぼります。我々は選ばれた人間なのです。今まで一心不乱に祈ってきたのが成就して、最後の時に救われることを約束されたのです」


 うっとりと、微笑んでいる。


「ほら、ささやいている……! 私の苦難の道のりを理解してくださっていると、そう言っておられるではありませんか。聞こえないのですか? あなたがたには祈りが足りないのかもしれません」


 アーデルは後じさり、リヒャルトのすぐ隣に移動した。


「これは……、だめだろう」

「だめそうね」


 リヒャルトが声を振り絞る。


「もうおしまい」


 そんなリヒャルトに、ハインリヒが笑みを向けた。


「大丈夫ですよ。祈りましょう。祈れば必ず救われます。神は見ておられるのですから」


 脱力してしまった。かろうじて二本の足で立っているが、少しでも力の込め方を間違えれば床に崩れ落ちそうだった。


「殿下……、念のために申し上げますね」


 リヒャルトが言う。けれどその声はもう冷静さを取り戻していて、呆れや諦めが滲んでいる。もうハインリヒには何も期待していないのが伝わってくる。


「クセルニヒ王政はきっともうだめですよ。イルマ女王が自称平民宰相とやらに捕まって暴行を受けています。平民はみんないきり立って王侯貴族を皆殺しにすると言っていますよ。あなた様も逃げたほうがよろしいのでは?」


 ハインリヒは一瞬我に返ったらしい。笑みを消して目を丸くしてリヒャルトを見た。


 次の時、彼は、食卓の上の香炉に手を伸ばした。


 止める間もなかった。


 彼は香炉から立ち昇る煙を吸った。


「大丈夫です」


 手をぶるぶると震わせながら微笑む。


「滅ぶ時はともに滅びます。死は恐れるものではありません。我々は死後楽園に入ることを保証されています」


 彼の心はとっくに壊れていたのだ、ということを察するには十分な台詞だった。


「行こう、リヒャルト」


 そう言って、アーデルはリヒャルトの肩をつかんだ。


「大麻中毒の狂信者よりうちのディートリヒのほうがいくらかマシだ」


 アーデルの言葉に、リヒャルトは頷いた。


 二人で食堂を出た。

 外はもう月が輝いていた。




 襲い来る修道士たちを振り切った。

 アーデルとリヒャルトが剣を抜くと、彼らはおびえて修道院の建物の中に引っ込んでいってしまったのだ。

 殺される覚悟なしに殺そうとしていたらしい。

 海賊との死闘をくぐり抜けてきたアーデルからしたら複雑な心境である。


「まあ、乱闘騒ぎなんてないほうがいいんだけどな」


 山の中で、アーデルとリヒャルトは一本の大木の根元に座り込み、幹に寄り掛かって呼吸を整えていた。さすがのリヒャルトも疲れてきたようだった。彼の場合は肉体よりも精神が疲弊している可能性もある。


「こうしていると、ザイツェタルク騎士の私たちが生ぬるい空気感で生きている連中をどう見ているのかわかるでしょう」


 そんな冗談も言えるようになったらしい。いいことだ。


 今、リヒャルトに何かがあったら、アーデルも無事では済まない。それをひしひしと感じる。


 木の幹に後頭部を押しつけるようにしてもたれる。


「ハインリヒのこと、諦めたか?」

「ええ、もう、すっぱりと」


 これでザイツェタルクはいよいよ本格的にノイシュティールンとの同盟を強化せざるを得なくなった。


「クセルニヒが呪われているとか魔女の国がどうとか、あんまり真に受けてはいけないな、と思っていたけれど、呪われているわ、これ。関わり合いにはならないほうがいい国に来てしまった」


 意識して細く長く息を吐いた。


「なんとか生きてブラウエに帰る算段を立てないとな」

「海の向こうというのが最悪。私、この前のブラウエ・ゲルベス間の航路が人生初の海外だったのに。さすがにこの距離は泳げない」

「船に乗ろう。この状況でまともに定期便が運行されているかどうかは疑問だが、ゲルベスから脱出しようとする人間は他にもいるだろうし、癪だけど海賊に金を握らせるという手段もなくもない。そこはクセルニヒだからな、金貨をちらつかせれば寝返る奴も出るだろう」

「金貨をちらつかせれば……。なんていうかもう――」


 リヒャルトが膝を抱え込み、その膝の上に自分の顔を押しつけた。


「プライドは、ないの……?」


 気高いザイツェタルク騎士の魂はそれを許さないのだろう。しかしノイシュティールンでは買収などよくある話である。なんなら国家元首のフレットが率先してばらまき政治を行っているような国だ。


 誇り高きザイツェタルクは信頼に値する国だ。どこよりもまっすぐで、同時に打たれ弱い。


 ついつい、アーデルはリヒャルトの肩を抱いてしまった。


「なによ」

「お前にも可愛いところがあるんだな、と思って」

「馬鹿にするんじゃないよ」


 アーデルは、また、ゆっくり息を吐いた。


「お前に意外と人間味があって安心した。ずっと、この年になっても双子の弟と隣同士の子供部屋で両親に見守られながらぬくぬく生きている俺なんかにはついていけない雲の上の存在なんだと思っていたからな」

「それは、私もグルーマン邸にある妹の寝室の隣の部屋に住んでいるから何とも言えない」

「一緒か」

「一緒よ。一緒一緒。そこはもうこれ以上見栄を張ってもどうにもならない」


 二人で小さく笑い合った。


 リヒャルトが顔を上げる。


「もう真っ暗になってしまったわね」


 空を見ると、雲の切れ間で星が瞬いていた。必死に行動していたので時間の感覚がなかったが、視界はもう足元も見えないほど暗い。


「今日はここで野宿決定ね」

「嘘だろう?」

「この時間帯にあの荒れ放題の市壁の中に戻るのは危険すぎる」

「ここでも動物とかは大丈夫なのか?」

「クセルニヒには大型獣がいないと言っていたからどうにかなるでしょう。まあ、一応私が見張っていてあげるから安心して寝て」

「お前はいつ寝るんだ?」

「夜中になったらあんたを起こして交代する」

「そうか」


 それを真に受けて寝てしまったのがまずかった。

 疲労に抗えなかったアーデルは、生まれて初めての野宿にもかかわらず、冷たい草の上で翌朝まで熟睡してしまった。

 どうやらリヒャルトは一睡もしなかったようだ。朝が来てからようやくアーデルを起こすと、くたびれた顔で微笑んで、「さて、そろそろ港に向かいましょう」と言って、歩き出した。



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