第10話 彼らには神の姿が見えている 1
山を駆け上がった。
幸運にも、追い掛けてくる人間はいなかった。うまく逃げおおせたらしい。みんな女王を捕まえるのに躍起になっていて周りに目が向いていないと見える。
この幸運はいつまでも続くわけではない。政治的熱狂は空気感染する病気のようにすぐ蔓延する。
クセルニヒの通信網がどうなっているのかは知らないが、ゲルベスの民衆はみんな徹底した管理社会に
すさまじい反動が来るだろう。
彼らは女王の誕生日パーティの招待客をどう扱うだろうか。
民衆は、どの参加者が何を思っていたのかなど考慮せず、参加者名簿を上から順にさらって捕まえていこうとするかもしれない。なにせみんな彼らからの税金で作られた食事を食べていたのである。好むと好まざるとにかかわらず、アーデルも晩餐会に出席していたのは事実だ。彼らはアーデルのノイシュティールンでの身分を考慮してくれるだろうか。
鳥肌が立つ。
山を駆け上がっても、リヒャルトは息を乱していなかった。さすが高山のグリュンネン育ちだ。彼からしたらゲルベスの山など木の生えた丘程度のものだろう。しかし平らなブラウエで生まれ育ったアーデルはそうはいかない。ブラウエの人間のわりには体力に自信があるほうだったが、リヒャルトについていくのは大変だった。
山の中腹に修道院の尖塔が見えてきた。
それが希望の光のように映った。
さすがに宗教寺院にまで押し寄せてくることはないだろう。ここは神の領域だ。クセルニヒ王家どころかロイデン帝室まで手を出さずにハインリヒの生存を許した聖域でどうこうということはないはずだ。
鉄の門扉は閉められていた。突然の訪問だったので案内がいないのも当然だ。しかしここで引き返すと何が起こるかわからない。
「すみません!」
二人で門扉を殴る。
「中に入れていただけませんか!」
反応はない。
だが、リヒャルトがその秀麗な顔に見合わぬ態度で「破れないかしら」と言って体当たりをすると、ぎい、という音を立てて扉と扉のあいだに隙間ができた。
「開いた。やっぱり」
「どういう発想だよ」
「グリュンネンの建付けの悪い建築物の中で育つといろいろあるわよね。まあ、これが歴史があるということよ」
一瞬、自分たちはそんな寒々しいところにレオを嫁がせるのか、と思ったが、今はそんなことを考えている場合ではない。
二人で体当たりを繰り返す。扉が少しずつ開いていく。
ある程度まで空間が広がったところで、両手で押して中に入った。
「すみません!」
すぐに一人の修道士が駆け寄ってきた。まだ若い、少年と言ってもいいような顔をした修道士だ。
「何をなさっているのですか!」
彼は真っ青な顔で怒鳴った。
「入らないでください! ここは神聖な場所ですよ! ましてや帯剣してだなんて」
「すまんが非常事態だ、許してくれ」
「どんな非常事態でも受け入れられません、今は夕方の日課の時間ですので」
そういえばグレゴールとハインリヒと四人で話をした日もハインリヒが夕方の日課をしなければならないとのことで修道院を後にしたのだった。
「夕方の日課って何だ」
アーデルは威嚇するように低い声で言った。
「こちらからしたら身の安全がかかってるんだが。神に奉仕する立場の人間が救いを求めに来た哀れな子羊たちを追い返すと言うのか?」
驚いたことに、修道士は「知りません」と答えた。
「あなたがたが何に追い詰められているのかはわかりませんが、我々には関係のないことです」
リヒャルトが「嘘でしょう」と呟く。
「お願い、入れて。外の一般市民が暴動を起こして、女王を捕まえて暴力を振るって、貴族を皆殺しにすると騒ぐくらい混乱している。私たちも捕まったら何をされるかわからない。今ここで死ぬわけにはいかない。私たちが母国に帰らないと国際問題になってさらなるパニックが起こるわよ」
修道士はなおも「知りません」と言って首を横に振った。
「俗世のことは我々には無関係です。お引き取りください。ここは祈る者たちだけが救われる空間です」
アーデルは背中で扉を押して内側から閉めた。そして、修道士を突き飛ばして、「ごめんな!」と言いながら建物の中に乱入した。その後ろをリヒャルトがついてくる。修道士はなおも何かを言っていたが、取り合わなかった。
礼拝堂の中でいったん腰をおろした。
「まさか拒まれるとはね」
息が上がっていてうまく返事ができない。
「何が聖職者だ、俗世の迷える子羊を救えよ」
「まあ聖職者なんてそんなものよ、グリュンネンの大司教様だって善人ではないんだから」
ゆっくり休んではいられないようだ。礼拝堂の戸が外から開けられる。そちらを見ると、鍬や斧を持った修道士たちが中に入ってきたところだった。
ある修道士が言った。
「この時間帯に部外者がここに入ってくることは許されない」
「おいおい」
そこでふと、リヒャルトが呟いた。
「変なにおいがする」
「におい?」
「なんか臭くない? 甘ったるいにおいがしないかしら」
彼にそう言われて、落ち着いてあたりのにおいを嗅いでみた。
確かに、甘い香りがする。何の香りかはわからないが、礼拝堂の中が匂っている。修道士たちが焚いた香のにおいだろうか。
修道士たちが、それぞれの農具を振りかざした。
「気づいてしまったか」
全員凍てついた無表情をしている。
「それならばなおのこと、生かして帰すわけにはいかんな」
鉄の器具が空を切ってこちらに迫ってきた。
二人は転がるように逃げ出した。
いくら武術の腕に自信があると言っても、鉄の武器を持った十数人の修道士に囲まれて真向対立する気にはなれなかった。せめて防具があれば違ったかもしれないが、今の自分たちは一撃でも喰らったら死ぬ。
「どうしてだ」
混乱しているアーデルに、リヒャルトが言う。
「ハインリヒ殿下を探しましょう。どれくらいの位階なのかは確認しそびれたけど、さすがに親が王族で帝室の人間だった殿下の発言力が皆無ということはないでしょうよ」
「そうか?」
こういう時、ノイシュティールンでは、レオやエヴァンジェリンに発言力はない。フレットの発言力も、彼が高貴な身分だからではなく、国家元首という政治家としての仕事をこなしているからこそのものである。偉いのは血筋ではないのだ。今まで無言でただ祈ってきたハインリヒの力がどれほどまで通用するのか、アーデルは疑った。
だが他にどうしようもない。むやみやたらに走り回っても体力を消耗するだけだ。リヒャルトの言うとおり、ハインリヒに賭けるしかない。
礼拝堂の裏に回り、修道士たちの生活空間に押し入った。
内部構造は前回来た時に案内してもらったのでおぼえている。どこにハインリヒの個室があったのかも思い出せる。
しかし、食堂に近づいた、その時だった。
あの甘い香りが、強くなった。
リヒャルトが立ち止まった。アーデルも嫌な予感がして足を止めた。
食堂から、あのにおいが、漂ってきている。
「……まずい予感がする」
そんなリヒャルトの言葉に、アーデルは「俺も」と頷いた。
食堂の両開きの扉が、目の前にある。
リヒャルトが右の扉の
ゆっくり、開けた。
異様な光景が広がっていた。
長い食卓の左右に十人ずつの修道士が座っていた。
そして、彼らは、例外なく楽しそうに笑っていた。
食卓の上に並べられた香炉から、煙が立ち昇っていた。それが、食堂の扉を開けた瞬間、一気に外に出ていった。
修道士たちが、「ああ」「ああ」とうめくような声を漏らしている。
「神よ……神よ……」
「おお……天使の迎えが……おお……」
リヒャルトは「いったい何を見て……」と呟いたが、アーデルは、こういう状態に陥った人間を港の裏路地で見掛けたことがあった。
背筋が、寒い。
「大麻だ」
「え?」
「こいつら、大麻中毒なんだ」
リヒャルトが翠の目を真ん丸にしてアーデルを見ている。
「夕方の日課というのは、大麻をいぶして吸う儀式のことだったんだな」
「……最悪」
こちらに気づくことなく恍惚とした笑みを浮かべて祈る修道士たちを眺めて、リヒャルトとアーデルは呆然とした。
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