第8話 わたくしがケーキを食べさせてあげる

 クセルニヒ女王イルムヒルデの誕生日が来た。

 本日二月十五日は、彼女の十五回目の誕生日だ。

 今日から五日間にわたって、クセルニヒは祝賀ムードに包まれる。


 クセルニヒ民は全員イルマ女王の誕生日を祝うことになっている。


 パレードの沿道に並んだゲルベス市民たちの姿を見て、アーデルはぞっとした。


 全員が全員、蒼ざめた顔に大きく見開いた目をして、無言で王家の紋章と国章が入った旗を振っている。


 アーデルは、リヒャルトとグレゴールと三人イルマの隊列の後方を貸し出された馬で闊歩しながら、異様な光景に言葉を失っていた。リヒャルトとグレゴールはこの光景を見て何を思っているのか聞きたかったが、近衛兵たちに囲まれた状態でこの国の異常性を語ることはできない。


 誰一人として声を上げることなくイルマの行列を見送る様子を、イルマは何も思っていないのだろうか。


 クセルニヒのシンボルカラーである黄色の旗が、世界を埋め尽くしている。


 四頭の白馬にひかせた屋根のない馬車にて、イルマが笑顔で沿道に手を振っている。


「皆さん、ありがとう! 皆さんがこうして祝ってくださって、わたくし、とっても嬉しいわ!」


 少女の明るくまろやかな声が、この場で唯一意味のある音声として響いている。あとは馬のひづめの音と旗がはためく音ばかりで、彼女に声を掛ける者はなかった。


 美しい少女が、笑っている。


「ありがとう、ありがとう! わたくし、とっても幸せだわ!」


 行列が、王城から港へ、港から王城へと往復する。

 その間、イルマに近づく人間はいなかった。




 夜はパーティが開かれた。


 広間の真ん中にはシャンパングラスで作ったタワーが鎮座しており、その周りを囲むテーブルには皿からあふれんばかりの量のオードブルが並べられている。玉座の前のテーブルには五段重ねのデコレーションケーキが置かれていて、主役のカトラリーの到着を待ちわびていた。音楽隊は夏至祭のような明るい音楽を奏でている。


 何もかもがちぐはぐな、狂った祝宴だ。


 何も食べる気にはならないが、ひとまずフォークと小皿を手に取って、アーデルは沈黙していた。そのすぐそばで、リヒャルトとグレゴールも黙って突っ立っていた。


 四方八方から視線を感じる。見張られている。余計なことを言わないように、余計なことをしないように、監視され続けている。


 イルマの誕生日を、祝わないといけない。


 やがてイルマが姿を現した。

 彼女は金色のドレスを身にまとっていた。ヒールの高い靴を履き、まだふくらみのない胸の寄せて上げて作った谷間をさらして、大人の女性のようなふりをしている。


 その場にいた来賓が揃って頭を下げ、この世で唯一の女王に敬意を払う仕草をした。


 最後、彼女はバルトロメオにエスコートされて玉座についた。


「皆さん、ありがとう!」


 真っ赤な唇の端が持ち上がる。青い瞳には楽しそうな光がともっている。


「さあ、皆さん、わたくしがケーキを食べるところを見て! 残ったケーキは皆さんに分けてさしあげますからね」


 彼女はそう言って周りに控えていた召し使いの女たちにフォークを運ばせた。


「いただきまーす!」


 何のためらいもなく、山のように巨大なケーキの中腹にフォークを突き立てる。そして、大きく開けた口に運ぶ。


「おいしい!」


 その儀式のような光景を、みんなで見ている。


 何口か食べると、彼女はフォークを投げ捨てて「もういいわ」と言った。ほんの何口かだった。


「皆さんにあげる。適当に分けて」


 女王のその言葉に従って、女たちがケーキを解体し始める。食べかけの、口をつけたスプーンの形もわかるような部分も、小皿に取り分けてテーブルの上に並べる。


「食べて」


 穴の開いたケーキを目の前に置かれた大人たちは、唇を引き結んでケーキを見つめていた。


「食べなさい!」


 みんな、フォークを手に取った。


「そうよ! 嬉しいでしょう! わたくしと間接キスよ!」


 女王が声を上げて笑った。


 アーデルはとてもではないが口をつける気にはなれなくて、ケーキをそっとテーブルの中央に追いやった。


「これはだいぶヤバいな」


 思わずそう漏らしてしまった。


 リヒャルトが小声で「だいぶ?」とささやいた。


「すごくじゃなくて?」


 一見涼しそうな顔をしているが、その言い方を聞いているとアーデルより彼のほうがたじろいでいる可能性もある。とにかく、彼のおかげで自分の感覚は間違っていないという確信は持った。


 二人が口を利いたのがきっかけになってしまったらしい。招待客たちが客同士でこそこそと会話をし始めた。軽くざわつく程度の音量だったが、空気が弛緩したような気がする。


 アーデルは、またやってしまった、と思った。またノイシュティールンの男はおしゃべりだと言われてしまう。ノイシュティールンでは、女は度胸、男は愛嬌、という。アーデルもエーレンもぺらぺらとよくしゃべってしまうタイプだが、国内で咎められたことはない。そしてこうして外国に来て冷や汗をかく。


 イルマが怒りをあらわにした。


「内緒話をしないでくださらない!? 皆さんわたくしにもわかるように話して!」


 広間が静まり返った。


 イルマが玉座をおりる。

 そしてこちらを見る。


 目が、合ってしまった。


 心臓が止まりそうになる。


「アーデル、あなた今なんて言ったの?」


 さすがにお前は頭がおかしいとは言えなくて、ただただ恐縮して首を垂れた。


 やってしまった。


 床を見ながら、誰か助けてくれ、と念じるしかない。


「まさかわたくしの悪口ではないでしょうね!?」

「そういうわけではございません」


 横から口を挟んでくれたのはリヒャルトだ。


「彼は甘いものが苦手なそうなので私にケーキをくださるとのことです」


 嘘八百だが、ありがたい。


「だめ! 食べて!」


 イルマが金切り声を上げる。


「わたくしのケーキよ! 食べて!」

「いただきます」


 グレゴールがテーブルの上からアーデル用にとサーブされたケーキを持ってきた。アーデルはそれを受け取った。


 イルマがすぐそばまでやってくる。


「食べさせてあげる」


 白く細い指が、ケーキをわしづかみにする。生クリームが崩れて、スポンジが潰れた。


 彼女は笑顔でその手をこちらに突き出した。


「ほら、あーん」


 大勢の人間が、固唾を飲んで見守っている。


 アーデルは、すぐ、従おう、と決意した。先日処刑されたヴァルゼン卿のことを思い出したからだ。ここで逆らったら首をくくられる。アーデルには命に替えてまで守りたいプライドなどない。すべて命あっての物種だ。


 彼女の細い手首を取り、自分の口元に寄せた。そして、口を開いて、彼女の指にしゃぶりついた。指と指との間を舐める。甘いクリーム、滑らかな肌、何にも嬉しくなかったが、生きてエーレンのもとに帰るにはこれしかない。


 イルマが機嫌良さそうに笑った。


「くすぐったい!」


 よせばいいのに、そこでグレゴールが声を上げた。


「アーデル!」


 イルマの手から口を離して、グレゴールのほうを見る。


 彼は顔を真っ赤にして、まなじりを吊り上げていた。


「お前にはプライドはないのか!?」

「ないな」


 アーデルは即答した。


 けれどこれがイルマにとって好ましいやり取りではなかったらしい。


 彼女はアーデルの頬にケーキを塗りたくると、グレゴールを見た。


「それではわたくしがアーデルのプライドを傷つけたかのようですわ。こうしてさしあげたら殿方はみんな喜ぶはずでしょう。そうに決まっているのよ、だってわたくしはこんなに可愛いのですもの」

「魔女め」


 空気が大きくざわついた。


「男を……大人を、いや、人間を何だと思っている!? お前の欲望を満たすために存在するわけじゃない!」

「では、何のために?」


 イルマの青い瞳は純粋な疑問を表現している。


「ここにいる人間はみんなわたくしのために存在するのではありませんか?」

「そうですよ、女王陛下」


 イルマの後ろからささやく者があった。

 バルトロメオだ。

 彼はイルマの肩を抱いて微笑んだ。


「無礼ですね。我々の大切な女王陛下になんという口の利き方を。これだから外国人は良くないんですよ」


 イルマが片頬をふくらませる。


「いいえ、バルトロメオ、外国人だからという理由で排除するのは良くないわ。せっかくわたくしのためにここまで来たのですもの、追い出すにはまだ惜しい」


 彼女はまた笑みを作り直して、こう告げた。


「そうだわ、チャンスをさしあげます」


 グレゴールは愕然とした顔を作った。


「今夜わたくしの寝室に来て。たくさん鞭で打ってあげる。それで興奮して勃起したら許してあげるわ」

「馬鹿にするな!」


 彼は、腰の剣の柄に、手をやった。


「カールと同じくらいの子供が生意気な!」


 剣を、抜いた。


 あまりのことに、客たちはみんな微動だにしなかった。ただリヒャルトが右手で彼自身の顔を押さえたのだけが視界の隅に入った。


 グレゴールがイルマに斬りかかろうとする。


 まずい。

 彼を止めなければならない。


「グレゴール!」


 アーデルは手を伸ばした。


 けれどその手は届かなかった。


 イルマが悲鳴を上げた。


 それを聞きつけて、大勢の近衛兵が駆け寄ってきた。


 グレゴールは見事な剣技で近衛兵を二人斬って捨てた。カーペットが赤く染まった。血のにおいがあたりに漂い始めた。


 しかしリヒャルトも、その場で立ちすくんでしまったアーデルも含めて、誰も何もできなかった。


 さすがにヴァランダン騎士も十人近い人数に囲まれたら敵わない。


「離せ!」


 グレゴールが命を顧みずに突進してきた近衛兵たちに押さえ込まれる。それでもなお剣を振るって一人を倒したがこれ以上はどうにもならない。


「離せ、この……、イルマ、このクソガキ! 殺してやる!」


 イルマが甲高い声で叫ぶ。


「城壁に吊るしておしまい!」


 彼女のその叫びを聞いて、近衛兵たちが「はっ」と返事をした。


 パーティはこれでおひらきだ。


 もう、どうにもならなかった。



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