第5話 聖ゲオルク修道院の化けの皮が剥がれる前 1

 ゲルベス聖ゲオルク修道院は、ゲルベスの街の中心部から見て北西部の山中にあった。

 修道院というものは往々にして生活環境の厳しいところにあるものだが、ノイシュティールンは国土の大半が平地なので、ハイキングが主目的でないのに山登りをする、というのが新鮮だった。とはいえこの状況でもそれを無邪気に楽しめるほどアーデルは純粋ではない。無言でうつむきながら坂道を上がった。


「いやあ、たまにはこういうのもいいものだなあ」


 グレゴールが晴れやかな顔で言う。体力お化けのヴァランダン男らしい。大陸の田舎のヴァランダンにとって山は熊と山賊が出る危険地帯である。大型の獣がいないゲルベスの山は快適だろう。


「外国に来てまで勘弁してほしいわ」


 一方、国土の大半が山岳地帯のザイツェタルクで生まれ育ったリヒャルトは、涼しい顔をしている。楽しんでいるでも苦しんでいるでもなく、黙々と歩き続けていた。


 監視役の兵士はついているが、自然の中で体を動かすことによって清らかな空気を吸い込めた分、気持ちは少し明るいかもしれない。周りに人間がいないのも、厳しい監視社会だから、ではなく、単に人が住む地域ではないから、という理屈がつく。


 やがて石造りの立派な礼拝堂が見えてきた。灰色の石を積んで作られた壁と黒いスレートの屋根は重厚感があっていい雰囲気だ。大きな鐘のある鐘楼がそびえたっている。レオが好きそうだ。そういえばレオはグリュンネンでも大聖堂でとてもはしゃいでいた。レオに解説を頼めばクセルニヒとザイツェタルクの宗教建築の様式の違いなどを語ってくれそうだが、連れてこなくてよかった。


 礼拝堂の前で白髪の修道士が待っていた。彼は穏やかな笑みで三人を迎え入れ、挨拶をして、中を案内してくれると言った。


「さあ、遠路はるばるおいでくださいました外国のお客様を十二分にもてなさせていただきます」


 そして、兵士たちをちらりと見やる。


「兵隊さんたちもお疲れ様です。あなたがたには別に休憩室を設けておりますので、そちらでごゆるりとお休みください」


 兵士たちが「いえ」と無表情で断ろうとした。


「自分たちも彼らとともにまわらせていただきます」

「いいえ、ゆっくりお休みください」


 修道士の毅然とした態度が心強い。


「ここは修道院です。武器をお持ちの方が好きに動き回られては困ります」


 兵士たちが黙る。


「武力による解決は、神は望まれないでしょう。すべては平和な祈りの上にあるものです。ここでくらいご自身と向き合うことで神の愛を感じてください。もちろん、あなたがたのお食事もご用意させていただきますのでご心配なく」


 クセルニヒにもまともなところがあったものだ。アーデルは胸を撫で下ろした。


「さあ、お客様方も剣をお預けください。またお帰りの際にお戻し致します」


 リヒャルトとグレゴールはためらったようだったが、もともと文官で日常的に剣を振ることのないアーデルは深く考えずに彼に剣を託した。それを見て、リヒャルトもベルトをはずして剣を差し出す。最後まで悩んでいたグレゴールも、ややあって剣から手を離した。


「では、こちらへ。まずは礼拝堂のご説明をさせていただいて、のちに食堂のほうにお連れ致します。兄弟ハインリヒは食堂で皆様とお食事をされた後個室にてゆっくり話をしたいと考えているようです」

「ありがとうございます」


 修道士に連れられて、三人は礼拝堂の中に入っていった。その背中を、兵士たちはずっと眺めていたようだ。刺すような視線を感じて居心地が悪かったが、アーデルは極力背筋を伸ばして堂々と振る舞った。




 歴史的価値の高い礼拝堂や食堂の壁画をじっくり見物させてもらった後、三人はハインリヒに導かれるまま北側の修道士のための個室に向かった。


「どうぞ、狭苦しいところですが」


 ハインリヒの言うとおり、狭い部屋だった。ベッドと机しかなく、独房のようである。皇子なのにこんなところで暮らしているとは、不遇としか言いようがない。ディートリヒの贅沢三昧の生活を思うと、落差の激しさに目眩がするほどだ。


「ベッドに二人、椅子に一人座ればいいでしょう。私は立ったままで結構です」

「いやいや、殿下がお座りになっては……」


 かしこまってそう勧めるグレゴールに、ハインリヒが「本当に大丈夫ですから」と優しい笑顔で断る。


 アーデルもはじめは探りを入れるのも込みで少しためらうそぶりを見せた。だが、こういうのは誰かが思い切らないといらない譲り合いのために時間を無駄に消費するものである。すぐさま切り替え、「では失礼」と言ってベッドに腰をおろした。図々しく思われるかもしれないが、それだけで損をすることはない。


 リヒャルトはたぶんアーデルが座るのを待っていたと見える。アーデルの隣にリヒャルトが「では私も」と言って座る。


 最終的に、グレゴールも机に付属している小さな椅子に腰掛けた。木製の固くて冷たそうな椅子だ。


 ベッドも硬かった。少し身じろぎするだけでぎしぎしと軋む音がする。シーツは清潔そうだが、掛け布団の毛布はぼろぼろだった。


「よくぞここまでおいでくださいました」


 ハインリヒが深々と礼をした。グレゴールがまた立ち上がって「いやいや、いやいや」と手を振った。


「私はこの修道院とゲルベス城のほかにゆっくり滞在できる場所を知らないのです。でも、ゲルベス城は、ほら、ご存じのとおり。とてもではないですが、本音で語らうことなどできません。ですので、ここまでご足労くださって、どれほどありがたいことか。行きたくないと言われれば、会話をする機会は永遠に失われたことでしょう」


 会話をする気がある、ということに救われた気持ちになる。ディートリヒやツェツィーリエと付き合っていると、皇族などというものは上から押し付けるような言葉を吐くことが会話だと思い込んでいるのではないか、と思うことがあるからだ。ハインリヒにはもう少し理性がある。


「見たところ全員同世代のようですし、一緒にいられるだけでも私は楽しいですよ」


 そう言われれば、ここにいる四人は全員二十三歳の独身男性である。まったくの偶然だし、アーデルは運命などを無邪気に信じるような人間ではないが、これを足掛かりに親睦を深められるのなら素晴らしいことだ。


「殿下」


 リヒャルトがいつもと変わらぬ無表情で言う。ハインリヒが「ただのハインリヒで結構ですよ」と微笑んだが、リヒャルトが態度を崩すことはない。こいつも案外保守的なザイツェタルク男なのかもしれない。


「単刀直入に申し上げます。帝位を継承するおつもりはおありですか」


 本当に単刀直入すぎて、アーデルは心臓が跳ね上がるのを感じた。リヒャルトの肝は鋼鉄製なのだろうか。


「我がザイツェタルクはローデリヒ殿下を失って以来旗印がなく混迷しております。殿下にそのお気持ちがないなら、ノイシュティールンのディートリヒ殿下ともう少し話を詰める必要がありますし、カールの様子を見ることも考えられるでしょう。しかし、我々はまず、ハインリヒ殿下のお気持ちをお聞きしたく存じております。無用な争いを避けるためにお言葉を賜れませんか」


 リヒャルトの言葉は、どこまで本音かわからなかった。

 ザイツェタルク勢がクラウスを警戒してカールを忌避していることは知っていた。カールの様子を見るというのは嘘のような気がする。

 ジークとレオの話を聞いた限りでは、ザイツェタルクはハインリヒ自身が否と言っても強引に候補者として立てることもしそうだった。そしてロイデン最古の王国ザイツェタルクの王と王妃がその道を選んだのなら追随する国も現れるだろう。

 何より、アーデル自身も、我々はそこまでディートリヒにこだわるべきか、というのに悩んでいる。やはりツェツィーリエのことが引っ掛かってならない。


「――そうですね」


 ハインリヒはうつむいた。力なく肩を落としている様子は彼の気弱な素の性格を連想させられて不安になる。


「リヒャルトの言うとおり、無用な争いを避けるためには、私が何かをしないといけないのでしょう。神は争いを望まれません。修道院の院長も、民のため、国のために還俗することは神の御心に叶うことではないかと言ってくださっています」


 アーデルは、気づいてしまった。

 神のため、民のため、国のため――そこにハインリヒ自身の意思はない。


「しかし、私は弱い男です。本当に、弱い男なのです。この荒波を乗り越えることができるか、乗り越えた後国を統治することができるか、不安があります」


 そう言って、彼は自分の喉元に手を伸ばした。そこに石の数珠をつないだ十字がかかっていた。その十字を握り締める。

 手が、震えている。


「みっともないことで、話があべこべになってしまって申し訳ないのですが、あなたがたのお力を借りられれば……という」


 情けない。


 リヒャルトが口を開く。


「力を貸すなら立ってくれると、そう解釈してもよろしいのですね」


 ハインリヒは一瞬唇をわななかせた。


「消去法かな、と思ったのです」

「消去法?」

「ローデリヒは命を落としました。ディートリヒは人間性に難があります。カールは出自に疑問がある。そうなると、私にお鉢が回ってくることを受け入れなければならないのではないか。誰かはやらねばならないのですから」


 実に的確な自己分析だったが、どうも頼りない。リーダーシップのかたまりのようなフレットや、自己主張の激しいレオやエーレンとばかりつるんでいるせいだろうか。アーデルは少しいらいらしてきた。


「ディートリヒは……、ちょっと、問題の多い子ですから……、あの子に皇帝が務まるかというと……、誰かが諫めてやらねばならないのではないか、と思うのですね。そうなったら、兄である私が、とは――まあ、イルマ一人コントロールできない私がツェツィーリエ様と対決できるかと言ったら疑問なのですけれど」


 現状認識がアーデルと完全に一致している。そのへんの常識はちゃんとしているのがかえってむなしい。ハインリヒは生きづらそうだ。


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