第4話 ゲルベス城の日常

 三人は控え室で正装に着替えた。


 リヒャルトはザイツェタルク騎士団の緑の騎士服を、グレゴールはヴァランダン騎士団の赤い騎士服を着ている。

 二人とも胸に立派な徽章をつけ、それなりに地位のある人間であることをほのめかしていた。

 グレゴールの鍛え上げられた戦士ならではの体格はもちろん、リヒャルトも背筋が伸びていて体幹が美しい。


 幸か不幸か、騎士に挟まれてしまった。アーデルも武術の鍛錬を積んではいるが、前線に出ることは決してない、文官であり侍従官である。見劣りしないか少し不安だ。

 しかし、アーデルも栄えあるフリートヘルム一味の人間である。何も気づかなかった顔をして、堂々とした態度で、何事もなかったかのように乗り切る。優雅で洒落たノイシュティールンの男として完璧を装う自信はある。


 アーデルはフレットに用意されたお仕着せを着た。贅沢に山羊の毛を使った黒い生地にノイシュティールン大公家独自の青い刺繍入りのジャケットだ。冬の礼装である。これで見劣りはしないだろう。

 だいたい顔だけならこの三人で一番良いという自信がある。なにせフレットは双子を見栄えのいい従者だからという理由で手元に置いているのである。アーデルの顔をどうこう言うことはフレットの審美眼を問うということだ。

 とはいえ、それが吉と出るか凶と出るかはわからない。イルマの目に留まれば何が起こるかわからない。


 三人で大広間に向かった。水晶の間、と呼ばれているらしい、ゲルベス城で一番大きなダンスホールである。


 中に入ると、豪勢に使われた壁の埋め込みのガラスで室内がきらきらと輝いていた。

 六人掛けの円卓が九個、縦みっつ横みっつになるように配置されている。しわひとつないテーブルクロスが掛けられ、金の燭台の上でかぐわしい香りのする蝋燭が燃えている。

 楽団が楽器を用意している。どれも一級品の弦楽器だ。楽団員が着ている服も完璧に揃えられていて統一感がある。


 客はすでに入っていた。老若男女が席について歓談している。


「これで誕生日パーティ本番ではないのか」


 グレゴールが呟く。

 彼の言うとおり、今夜はまだただの晩餐会だ。誕生日パーティ本番は五日後である。四日後の夜に前夜祭をして、五日目からパレードとパーティを三日間やるのだそうだ。


 三人も案内された円卓についた。六人掛けの円卓なので、席が三人分余っている。


 ややあって、若い男が三人入ってきた。


 アーデルは、思わず「あ」と呟いてしまった。


 入ってきたのが、ハインリヒ皇子と付き人と思われる青年たちだったからだ。


 彼らはこちらに連れてこられた。サービス係に促されて、同卓の三人の向かいに座らされた。


 ハインリヒは相変わらず穏やかな表情の青年だった。端正な顔立ちだが、弟たちとはどちらとも似ていない。黒髪がつややかに輝いている。


「またお会いできましたね。ええと、リヒャルト、アーデルハルト、そしてグレゴールでしたか。先日父の葬儀でご挨拶させていただいて以来ですね」


 ハインリヒが目を細めて微笑んだ。

 まさかこんなタイミングでこんな大物とこんな間近に接触できるとは思わず、アーデルは一瞬動揺してしまった。何か言わなければならないのに、とっさに声が出なかった。おそらくリヒャルトとグレゴールも同じ心境なのではないか。三人はしばし沈黙してハインリヒを眺めた。


「おや、私の顔をお忘れでしょうか」


 ハインリヒが少しいたずらそうな目をする。今まで泰然とした聖職者の顔をしていたので、そんな些細な表情の変化に大きな人間らしさを見た。


「とんでもない!」


 グレゴールが大きな声を出した。アーデルは「しっ、みんなが注目する」とささやいた。グレゴールが縮こまる。


「ハインリヒ殿下も、お変わりのない様子で何よりです」

「ええ、私のほうは何も変わらず」


 ふと、遠くを見る。


「本当に、何も変わらず。父親が死んだというのに、一切何も変わることなく、毎日神に祈りを捧げてはご奉仕のための掃除や農作業をして暮らしております」


 その様子に、アーデルは、ハインリヒはそれを良く思っていないのだ、ということを察した。変化のない自分の生活を、これは良くない、と思いながら暮らしている。それがクセルニヒで出会った唯一のまともな神経の持ち主であることの表れのように感じた。


 彼は、きっと、悩んでいる。


 権力や財力を当たり前のもののように思って暮らしているディートリヒとは、違う。


 気を取り直したかのように、彼はこちらを改めて見て笑みを作り直した。


「皆さん、よかったら、私の住まいにもおいでくださいませんか。山の中腹にある、ゲルベス聖ゲオルク修道院というところです。六百年前に建てられた礼拝堂がそのまま使われておりますし、修道士の間に伝わる伝統の菓子を焼いてお出しすることもできますので、観光地としておもしろいのではないでしょうか」


 ゲルベスで観光など許可してもらえるのかと思っていたが、さすがに修道院まで女王の魔の手が入っているわけではない、と信じたい。


「ご歓談中の皆様」


 不意に出入り口のほうから大きな声が聞こえてきた。


「ご静粛に願います」


 そちらのほうを見ると、お仕着せを着たロマンスグレーの男性が声を張り上げていた。


「今夜の晩餐会の主催者である女王陛下がお越しになりました。拍手でお迎えいただきますようお願い申し上げます」


 その言葉を聞いて、周りが拍手を始めた。アーデルたちの円卓の六人もぱらぱらと手を叩き始めた。


 とうとう女王が姿を現した。


 長い白金の髪を豪快に巻いた少女だ。透けるように白い肌、ぷっくりと赤い唇、大きな青い瞳をしている。中身を知らなかったら天使のように美しい少女だと思っただろう。腰から大きく広がるドレスは白を基調にして暖色系のレースをふんだんに用いたもので、ドレスの裾から時々見え隠れする靴には宝石のビーズがついているのがわかった。


 クセルニヒ女王イルムヒルデ――邪悪の国のお姫様、この国に君臨する支配者だ。


 彼女の後ろを、二人の人物がついてきていた。


 一人はバルトロメオだ。

 彼はブラウンの髪を後ろに撫でつけて額を出していた。ひげを剃り上げた顎の形が整っていて、清潔な色男に見える。着ているジャケットも履いているブーツも高級そうだ。


 もう一人は、ツェントルムでも見掛けた侍女だった。顔立ちや服装こそ地味だったが、唯一イルマをたしなめるような口を利く豪胆な女だったのでおぼえている。ほとんど黒と言ってもいい栗色の髪に同じ色の瞳をしていて、首まで詰まった襟に腰元のふくらみのない服を着ていた。目は吊り目ぎみで、一切微笑まず、愛想を感じられない。年の頃は三十歳前後か、まだ中年というには早いが大人の女性である。


 広間の正面奥、女王のために用意された椅子にたどりつくと、イルマは堂々と座ってから片手を挙げて合図をした。

 先ほどの出入り口で音頭を取っていた男性が大きな声で「女王陛下万歳」と言った。


「女王陛下万歳!」

「クセルニヒ王国万歳!」

「クセルニヒ王国万歳!」


 周りのクセルニヒ貴族たちが唱和した。


 それが終わると、イルマが口を開いた。


「みんな、今夜も楽しんで頂戴」


 また、大きな拍手が上がった。


 その時だった。


「女王陛下!」


 客たちの間から歩み出てくる男があった。四十代半ばから五十代くらいだろうか、蒼白い顔で額から頭頂部の髪がない男性だ。立派なジャケットを着て柔らかそうな革靴を履いているので、招待客のうちの誰かで、貴族男性なのだろう。


 彼はイルマの前まで進み出た。


 そして、言った。


「このようなお戯れ、おやめください!」


 場が、静まり返る。


「こんなこと、毎晩毎晩毎晩……! 平民たちはこんなパーティのために納税しているのではない!」


 クセルニヒ貴族にも心ある人がいたようだ。彼の言うことはもっともで、女王にもちゃんと諫言できるまともな人間がいたのかと安心した。


「このパーティにいくらかかると思っておられるのか! 毎晩大量に出る残飯で何人の飢えがしのげるのかと思うと、私は――」

「うるさいですわ」


 イルマが、可愛らしい眉を寄せ、赤い唇から白い歯をちらりと見せながら言った。


「あなた、わたくし、いつわたくしに対して口を利いてよいと言いましたか?」


 男性の顔が蒼ざめていく。


「興ざめですわ。今すぐ出ておゆき」


 少女の白い顔が、美しかった。


「この国からね」

「女王陛下」

「わたくしにあれこれ言うおじさんなんて、わたくし、大嫌い。わたくしはパーティがとっても楽しいのに、水を差すなんて」


 イルマの左から、例の侍女が歩み出た。


「イルマ様、おやめください」


 彼女は毅然とした態度だった。


「これ以上閣僚を減らしてはなりません」


 閣僚――それをこんな当然の進言で国から追放しようという神経が知れない。


「国の政治が立ち行かなくなります。イルマ様のお立場が悪くなります。お取り消しください」


 イルマは彼女をにらみつけた。


「うるさいわザーラ! あなたはいつもいつもいつもそうしてわたくしの邪魔をして! ザーラなんて大嫌い!」


 今度はバルトロメオがイルマに一歩近づいた。


「では、処分してしまいましょうか」


 イルマが目を丸くした。


「ザーラも、ヴァルゼン卿も。いなくなってしまったほうが、陛下はすっきりするんですよね?」


 バルトロメオのささやきが、空気を凍りつかせる。


 イルマは、ぐるりと青い目を回した後、こう答えた。


「ザーラは、別に、いいわ。女性なのだから、大目に見てさしあげてもよくてよ」

「さようでございますか」

「でもおじさんはいりません。中年太りでハゲのおじさんは見苦しいもの。ヴァルゼン卿は処分して頂戴」


 バルトロメオがあたりを見回す。


「と、女王陛下はそうおおせだ。そうするように」


 周りから音もなく近衛兵たちが近づいてきた。もがいて抵抗するヴァルゼン卿の腕をつかんで、ずるずると引きずって広間から出ていく。


「この国は狂ってしまった!」


 卿の悲鳴が広間に響き渡る。


 ぱたん、と扉が閉じられた。


 イルマが息を吐いた。


「皆さん、明るい顔をなさって!」


 そして率先してにこりと笑った。


「はい、音楽! 明るく楽しい曲を頂戴!」


 楽団が演奏を始めた。明るい曲調が吐き気を催すほど気持ち悪かった。






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