第5章 クセルニヒ二月革命

第1話 ゲルベスまでの船旅

 ノイシュティールン大公国首都ブラウエからクセルニヒ王国首都ゲルベスへは、クセルニヒの最新鋭の軍艦で行けば片道たったの半日程度しかない。


 海兵たちが操舵そうだする軍艦は、あっという間にブラウエを離れた。


 そもそも、ゲルベスはブラウエから目視で確認できる距離である。夏の晴れている時期ならば、高台にある女王の住居ゲルベス城まで見えるくらいだ。


 しかし、アーデルにとってのゲルベスは、ユーバー川をさかのぼって一週間もかかるザイツェタルク王国の首都グリュンネンよりはるかかなた遠い地だった。

 なにせ、ノイシュティールン最大の敵国クセルニヒの都だ。

 クセルニヒ女王がノイシュティールン大公に頭を下げる日でも来ない限り、永遠に踏み入ることのない土地だと思っていた。


 一応、形式的には、クセルニヒ女王はノイシュティールン大公に海賊チャーリー・バーニーのせいで頭を下げた、ということになっている。


 けれど、ノイシュティールンも、現場に居合わせたザイツェタルクの人々も、これがクセルニヒの罠であることを察していた。


 クセルニヒで、何かが起こる。


 アーデルは、艦首の手すり柵に肘をついて、溜息をついた。


 自分はそんなところに単身送り込まれてしまうのか。


 主人であるフリートヘルムは昔から人でなしであったが、二十年も仕えている人間にもこの仕打ちである。


「大きな溜息ね」


 隣に立っているリヒャルトが言った。

 彼のほうを見ると、彼の目は遠くゲルベスの方角を見ていた。


「溜息って、つくたびに幸せが逃げるそうよ」

「お前は平気なのか?」

「何が?」

「あのクセルニヒに送り込まれるんだぞ? しかも剣一本で」


 リヒャルトもアーデルも腰に長剣をさげていた。リヒャルトはザイツェタルクから携えてきた愛剣だが、アーデルのはフレットに持たされたお守り程度の意味しかない。


 リヒャルトは誉れ高きロイデン騎士の本場ザイツェタルクの男だ。父親は前ザイツェタルク王オットー一の家臣とうたわれ、その先王亡き今ほとんど国王と変わらない権勢を奮っているグルーマン侯爵である。母親も大貴族ケッヘム侯爵家の出身なのだそうだ。純血のロイデン人、血統書付きのザイツェタルク騎士だ。


 一方のアーデルは、先祖代々ブラウエで市政の要人に仕えてきた従者の家系の人間だ。もはや完全にロイデン人と同化し、一族のほぼ全員が癖毛に金の瞳とブラウエによくいる外見になったが、数百年昔はヴァランダンのほうから来た奴隷だったらしい。ノイシュティールンが血筋を気にしない文化風土だから高貴なふりをしていられるのであって、家系図を気にするザイツェタルクだったら卑しい一族として冷遇されていたかもしれない。


 むろん、アーデルも、高貴な身分の人間に仕える者として、剣術をたしなんでいる。武術大会では国でトップクラスの成績を収めており、アーデルより剣の腕が立つノイシュティールン民など、身近ではエーレンくらいのものである。護衛として役に立つくらいの水準でよければ、条件は満たしているだろう。実戦経験も、一応、チャーリー・バーニー事件で海賊相手にかなり積めたと思う。


 だが、リヒャルトは対オグズ帝国戦争を生き残った騎士だ。


「お前の冷静はお前が優秀だから維持していられるんだろうが、俺の冷静は意地の産物ではりぼてなんだ」

「なるほど」


 リヒャルトがこちらを向いて目を細める。


「エーレンよりアーデルのほうが落ち着いているように見えたけれど、当人たちからすればそんなことはないわけだ」


 アーデルはうつむいてまた溜息をついた。


「俺が落ち着いているんじゃなくて、エーレンに落ち着きがない」


 リヒャルトが声を上げて笑った。


「いや、というか、よく俺とエーレンの違いを見極めようとしたな。フレットでさえ俺たちには個性とか人格の別とかを認めていないのに」

「それはフリートヘルムの性格が悪いだけなんでないの。私も、今私と一緒にいるほうがアーデルでブラウエに残ったほうがエーレン、くらいの認識だけど」


 彼の言葉は間違いではないだろう。親ですらそういう感覚なのだから――と思っていたところ、リヒャルトが嘘か本当か「冗談よ、冗談」と言った。


「エーレンと国をまたぐほど離れて過ごすのは初めてだな」


 たとえようのない不安が、足元から這い上がってくる。


「子供の頃片方が風邪をひいた時にうつさないようもう片方を隔離したことがある、ぐらいのレベルだからな、俺たちの別行動は。それもせいぜい三日だ」

「それはさすがにまずいでしょう、あんたたちいくつだっけ?」


 まずいのか。ノイシュティールンでそれを指摘する人間はいない。


「年は二十三」

「なーんだ、同い年か」

「同い年だと? お前そんなに若かったのか、落ち着いてるから十個くらい上かと思ってた」

「嫌ね、そんなに老けて見える?」


 自分たちは生まれる前から二人でひとつだったし、きっと死ぬ時まで一緒だろう。

 そこに疑念の余地はない。


 そういえば、アーデルは子供の時、エーレンの身体が自分の延長線上にあるように思っていた。

 おそらくエーレンもだろう。

 自分たちが別々の肉体と精神を持った人間であるという意識がなく、二人でひとつの生き物として扱われることに何の疑問も持っていなかった。


 自分たちが別々の名前を持つ独立した個体である、というのを意識し始めたのは、五歳か六歳の頃だった。他人の子供を見ている感じ、自我を持つ生き物としてはかなり大きくなってからだろう。

 はっきり自覚したのは、フレットが双子の親に「二人に別の服を着せるように」と命令した時だった。

 以来、アーデルは赤いジャケットを、エーレンは青いジャケットを着ていることが多い。


 今日のアーデルはフレットがパーティ用として買ってくれた狐の毛皮のコートを着ている。

 だが、それが許されるのは、ここにいるのがアーデルでブラウエに残ったほうがエーレンという、誰の目から見ても明らかな違いがあるからに過ぎない。リヒャルトの言うとおりなのだ。


 エーレンが隣にいない。


 フレットは何を思って引き離したのだろう。


 隣にいる時は空気と一緒なので意識したこともないのに――どころか、まとわりついてくるエーレンをうっとうしく思うこともあるほどだったのに、どうしたものか。


 こんなことを考えているが、アーデルは自分がここまでエーレンに執着しているとは思っていなかった。どちらかといえばエーレンのほうがアーデルにべったりで、周りからも「甘えているほうがエーレンで甘えられているほうがアーデル」と言われたこともあるほどだ。


「俺がいない間にエーレンが病気になったらどうしよう」

「そこまで気にする?」


 不意に肩を抱かれた。


「やあ、お客人たち」


 ぎょっとして顔を上げると、いつの間にかバルトロメオがリヒャルトとアーデルの間に立っていて、右腕でリヒャルトの、左腕でアーデルの肩を抱いていた。

 アーデルは露骨に嫌な顔をしてしまった。リヒャルトも涼しい顔をしてはいるがあまりおもしろそうではない。


「何のおしゃべりをしているのかな? 私も混ぜてくれないか」

「いえ、別に……」

「たいして実のある話では……」

「いいじゃないか、そうやって交流を深めるのも円滑な人間関係には必要なことさ」


 バルトロメオが腕に力をこめる。彼のほうに半歩分引き寄せられる。リヒャルトもだ。このままではバルトロメオの頬に頬がついてしまいかねず、昨日知り合ったばかりの二十三歳の青年たちと三十代の大人の男性としてあるべき姿ではなかった。


 彼はどうもなれなれしい。頻繁に話しかけてきて、必要以上に接触したがる。


 アーデルからしたら敵国の人間だ。しかもお互いそこそこの年齢である。適度な距離が欲しかった。けれど、それをはっきり口にするのもどうなのか。つまり、お前は失礼だ、と言ってもいいものなのだろうか。こういうケースに遭遇するのが初めてで、対処の仕方がわからない。


 リヒャルトの顔を見る。相変わらず、彼は落ち着いている。何がどうなったら同い年でこの落ち着きが身につくのか。アーデルは自分が幼い気がしてきた。


「ゲルベスでのパーティが楽しみだね」


 バルトロメオの声は心底楽しそうである。


「あまり長居をしてご迷惑をかけるのも気が引けるのですが」


 リヒャルトの遠回しながらも長居したくないと告げるそんな言葉に、バルトロメオが「心外だ」と言う。


「だが、君たちは各国の要人だから、あまり長く引き止めるのも良くないんだろうね」


 ほっと胸を撫で下ろした。


「女王陛下のパーティはせいぜい二週間だ。いや、私の政務の都合上、一週間程度で終わらせることができたらいいなと思っているよ。二月中にはブラウエに帰ることになるんじゃないかな」


 そして、にやりと唇の端を持ち上げる。


「もちろん、ずっといてくれても構わない。永遠でも、私は構わないんだ」


 背中に、寒いものが走った。


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