第10話 国家の安寧のために、幸せになってほしい
エーレンに連れられて馬車に乗った。
ブラウエの街は何も変わらなかった。
海賊に破壊されたのはユーバー川の河口からロイデン海にかけての沿岸だけなので、郊外の宮殿からでは傷が見えない。
きっと今のレオには見えない部分がぼろぼろになっている。
だが、レオは大丈夫だと確信していた。
ブラウエは強い街だ。
ブラウエ市民は強い人々だ。
何より、国家元首である大公フリートヘルムの
ブラウエはそう遠くないうちに、おそらく年内には元どおりになるだろう
だが、レオはザイツェタルク王妃になる身だ。もしかしたらブラウエ港が元どおりになる前にここを発つかもしれない。それだけが少しだけ引っ掛かる。
レオが心配しなくても大丈夫、ということは、レオがいなくても大丈夫、ということの裏返しで、ほんの少しだけさみしい。
馬車は、街の南方にある宮殿から、街の西方に向かっていった。
途中で、レオは気がついた。
行き先は、ブラウエ修道院だ。
しかし用があるのは生臭坊主たちではない。
修道院付属の病院だ。
エーレンにエスコートされて馬車をおりる。
とても酔っ払い司祭たちが清貧とはかけ離れた暮らしをしているとは思えないほど静かで
門の内側で案内の司祭が待ち構えていた。彼は穏やかな笑顔で「どうぞこちらへ」と言って二人を建物の中に導いた。
日光がさんさんと降り注ぐ中庭、掃き清められた回廊、その通路側にドアがいくつも並んでいる。ひとつひとつが入院患者を収容する病室だそうである。
そのうちのひとつに、たどりついた。
ドアをノックする。
「失礼します。面会のお客さんですよ」
司祭がそう言うと、病室から「どうぞ」という若い男性の声が聞こえてきた。
ドアが開く前から、レオは声を聞いただけでぼろぼろ泣いてしまった。
病室の中、ベッドの上で上半身を起こしてレオを待っていたのは、イェルケルだった。
彼は、レオの顔を見ると、いつものとおり緩く微笑んだ。
「こんにちは、レオ。無事だと聞いて安心したよ」
たまらなくなって、レオはイェルケルに抱き着いた。しがみつき、ベッドのそばに膝をつき、声を上げて泣く。イェルケルが「大丈夫、大丈夫だよ」と優しくささやいてくれた。
「死んだかと思った……! 何度も何度ももう二度と会えないのではないかと」
「大袈裟だよ。でも僕のために泣いてくれるのは嬉しいな」
イェルケルは、ベッドの上に座ったまま両腕を伸ばして、レオを抱き締めてくれた。
「レオが無事ならいいんだ」
ぽつりぽつりと、呟くように言う。
「レオが何事もなくブラウエに帰ってきてくれたんなら。報われるよ」
イェルケルの顔を見ようと思って、彼の胸から少し顔を離した。
彼の顔は蒼白く、どことなくやつれて見えた。けれど優しい目つきはいつもどおりで、少し休めば何事もなかったような日常が戻ってくるように思われた。
だが、次の時だ。
彼は、右手でレオの肩をつかんだ。
左手でも、レオの肩をつかもうとした。
「ああ」
左の手首が、レオの肩にぶつかる。
「そうか。左手はもうないんだった」
レオはなおも号泣した。「うう、うう」とうめきながら、イェルケルの左の肘付近をつかんだ。白い包帯が巻かれているので実際に傷口がどうなっているかはわからなかったが、手を失った手首はあまりにも痛々しく、とてもではないが直接触ることはできなかった。
エーレンが近づいてきて、ベッドのそばに簡易なつくりの椅子を置いて座った。主君の妹が床にひざまずいているというのに自分だけ椅子に座ろうとは、彼の性格が察せられるというものである。
「体調はどう?」
イェルケルがエーレンの顔を見ながら答える。
「おかげさまで。まだ貧血っぽいけど、病院内なら動き回ってもいいことになったよ。寝たきりなのも良くないからと言われた」
「食事は?」
「食欲がないわけではないけど、片手だとうまく食べられなくて、あまりたくさんは食べられないかな」
「たくさん食べてね。貧血には鳥の肝臓がいいらしいよ」
レオは服の袖で自分の涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔をぬぐった。
「何はともあれ生きていてよかった」
「そうかな」
イェルケルのその一言に、ぞっとした。しかし、イェルケルはレオの顔から血の気が引いたことにすぐ気づいたに違いない。彼はすぐ「まあね」と微笑み直した。
「ここ数日、いろんな人が見舞いに来てくれて、いろんな話をしたよ。まあ、悪くないよ。人生は悪くない。右手はあるんだから、なんとかなるでしょうよ」
「イェルケル……」
レオは「ごめんなさい」と言いながらまた涙があふれてくるのを感じた。イェルケルの「もういいんだよ」という言葉が優しくも冷たくも聞こえた。ゆるしてくれているようで突き放しているようでもあった。
「本当に、レオが無事なら。チャーリー・バーニー海賊団も壊滅して、チャーリー・バーニーが捕まったと聞いたし。僕も彼が公開処刑で首をくくられるところを見に行こうかな? 手に汗握るエンターテイメントだ。まあ握る手は右しかないんだけどね」
「絶対絞首刑にしてイェルケルに見せてやるからな。これからたくさん証言をして奴の罪状を重くしてやる」
「言うねえ」
またエーレンが問いかける。
「これからどうするの? 大学には戻れそう?」
一拍間を置いてから、イェルケルはこう答えた。
「一回田舎の実家に帰るかな。両親がまだ揃っていて健康で二人とも元気だから、多少は面倒を見てくれるらしいよ。妹夫婦も僕を心配してくれているらしい。身重の妹に心配をかけさせちゃって申し訳ないけど、今は甘えようかな、と思っている」
「そのほうがいいよ。頼れる家族がいるなら頼ったらいい」
心の底からイェルケルの実家の家族に感謝した。これがやたら兄弟が多い上に父親がすでに亡くなっているケマルだったらこうはいかない。
「ありがたいことに、さっきフレットが見舞いに来てくれて」
意外な人物の名前が出てきた。
「どうやら僕は
「よかった」
いくら大金を積んでもイェルケルの手は元に戻らないが、金はないよりあったほうがいいのだ。
「しばらく葡萄畑と川を眺めて暮らすさ。ボトルを運ぶ仕事はできなさそうで申し訳ないけど、多少のことは金が解決してくれる」
「で、繰り返しになるけど、大学は? イェルケルって何を専攻しているんだったっけ」
「医学部なんだけど……、うーん、この手ではもう外科的な処置ができないからなあ……」
内臓がへその上から下へ落ちていくような痛みを味わった。
「レオ、そんな顔はしないで」
彼はレオがショックを受けていることにすぐ気づいてくれた。
「だからこそ、こういう時には何がどうなっているのか自分のことがわかる。勉強したことは無駄じゃなかったね」
それでも過去形で言うのが身を切るようにつらい。
「祝賀パーティの時助けてくれたのも同じ研究室の仲間だった。持つべきものは友だ」
いまさら、イェルケルがあの時ケマルではなく研究室の仲間と来たと言っていたのを思い出した。
ブラウエに怪我人や病人が集まるのは、単に裕福で気候がいいから、というだけではない。
ブラウエ大学医学部はロイデン帝国最高の医師養成施設だ。世界で一番だと言っても過言ではない。
イェルケルも、そこに集まるエリートたちが処置を施してくれたことで一命を取り留めた。
ここがブラウエであったことを誇りに思う。
彼もまたそのエリートの一人だったというのに、そこからはずれるのはとても悲しいことだった。
「大丈夫だよ」
イェルケルはなおも微笑んでいる。
「レオ、僕が――僕たちノイシュティールン民が望んでいるのは、君の幸せなんだ。ジギスムント王がおいでになって、君を救ってくれた。みんなはそのための時間稼ぎになった。それがすべてだ」
「ああ」
「忘れないで。君は僕たちの愛の象徴でもあり、国家の統合の象徴でもある。君が幸せになることは国の安定と繁栄のためなんだよ。だから、何があっても諦めないでほしい。僕のためを思ってくれるんだったら、どうか、どうか、強く美しいままでいてほしい。そして、幸せになってほしい」
レオは頷いた。そして、もう一度イェルケルに抱きついた。
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