第9話 『レオ』の家族
宮殿に帰宅してからの三日ほど、レオは泥のように寝た。トイレ以外のことをすべてベッドで済ませた。風呂にも入らず、食事も軽食のみにして、とにかく寝続けた。
すさまじい疲労感だった。
幸いなことに、レオが何も言わず何もせずに寝ていても、怒る人間はいなかった。
レオは本来公的な場で被害を報告しチャーリー・バーニーを断罪しなければならない立場だったが、すぐにそういう行動に移れなくても
心配した市民が見舞いの花々を送ってくれているようだが、真冬にもかかわらず花を調達してくれた彼らに礼を言うことすら後回しでいいと言ってもらえた。
考えなければならないことは、いくらでもある。
けれど、自分は何も考えなくても許されるほど愛されている。
それを自覚させられるには十分な時間だった。
四日目の朝、ようやく目が覚めた。
自室のベッドの上で伸びをしてすっきりしたレオは、廊下に顔を出してひとを呼んだ。
いつもの冷たい対応の侍女が、はしたなくもドレスの裾を持ち上げて走ってくる。レオの目の前まで来ると、いつもと変わらぬ無表情に落ち着いた声で「おはようございます」と言う。彼女もこんな対応でも本当はレオのことを愛してくれている。
「いい加減起きる。着替えを用意してくれないか。それと食堂での朝食を手配してくれ。家族に挨拶してちゃんとしたものを食べようと思う」
「かしこまりました」
彼女は軽く頭を下げてから小走りで廊下の奥に消えていった。
その侍女からレオが正気を取り戻したことを聞きつけたのだろう、ややあって着替えよりも先に初老の女性が走ってきた。
レオの乳母だった女性だ。
「お嬢様、わたしのお嬢様」
彼女は号泣しながらレオを抱き締めた。
「あなた様に何かあったらわたしも死んでお供せねばと思って、大急ぎでブラウエに戻ってまいりました」
「大袈裟な」
乳母の白髪が増えた頭に頬を寄せる。
「もう大丈夫だ。ばあやに心配ばかりさせてしまって申し訳ない」
「いいのですよ、いいのです、わたしはあなた様のために心身をすり減らすために生きているのです、それは高貴な身分のお方に仕える者としてとても幸福なことです」
「そういうことは言わないでくれ、ここはノイシュティールンだ、仕えるべき身分というものはない。あなたは大金で雇われた育児の達人として胸を張って生きてほしい」
そう言って、レオはちくりと自分の胸の奥が痛むのを感じた。
彼女は数年前にレオの乳母を辞して田舎に帰ってしまった人間だ。レオが女の子らしくできないのは自分のしつけが悪いせいだと気に病んだからだった。どうやらレオに見えないところでエヴァンジェリンが叱責したらしいとの噂もあったが、レオに令嬢としての振る舞いを求める露骨な態度が重たかったのも本音で、別れた時は軽い安堵も覚えたものである。
混乱した状況下で素に戻ってしまった。せっかく半月ほど女言葉を意識して過ごしていたのに、気がついたらまた男みたいな口調でしゃべっている。これではまた母に怒られてしまう。乳母や市民たちもがっかりさせるだろう。
そんなことを考えて意気消沈したレオに、乳母がこう言った。
「ご無事で生きていてくださるなら、もうなんでもいいですよ」
彼女は軽く体を起こして両手でレオの両方の頬を包んだ。
「ドレスでなかったらもっと早く逃げられたかもしれないと思うと、ばあやは気が気でなくて。なにせお嬢様はご兄妹でフレット様の次に足が速かったものですから。どうしてお嬢様にあんなに口を酸っぱくして走ってはいけませんと言っていたのかしら。走ることに女の子も何もありませんでしたね。申し訳ございませんでした」
レオはちょっと笑った。
「そういうことではないのだけれど」
それでも、嬉しい。
改めて、乳母を抱き締めた。
いずれにせよ、自分はとても大切にされているのだ。理解されている気はしないし、理解してもらえる日が来るとも思えないが、理解しようとしてくれている。周りも周りなりに模索していて、レオにとって何が最適なのかを考えてくれているのだ。
それを重荷だと思わないくらい、強くなりたい。
結局例の侍女も普段のレオが大学に通っていた時に着ていた服を持ってきた。女物のドレスではなかった。
朝食の場にフレットは現れなかった。エヴァンジェリンと二人きりの静かな食卓だった。
エヴァンジェリンは基本的には気丈に振る舞っていたが、レオがしゃべると時々涙ぐんだ。面倒臭い親ではあるが、彼女も本当はレオのことが心配でたまらない。
うまく折り合いをつけなければならない。彼女らもレオがむりやり自分を曲げることまでは望んでいないのだ。
レオは受け入れてもらうための妥協点を探さなければならない。
それがこういう形で生まれ落ちた自分の宿命だ。
それに、幸か不幸か、レオはあと半年ちょっと程度でこういう家族と距離を置いてザイツェタルクに嫁ぐことになっている。結婚相手はレオを決闘するために剣を握ることができる人間だと思い込んでいる男だ。今冷静に考えるとそれもそれでどうかと思うが、少なくともおしとやかで上品な貴族令嬢を求めているわけではないと思えば、話し合う余地は母や乳母よりある。
朝食が終わって自室に戻ると、思わぬ人物が部屋に訪れた。
エーレンだった。
彼は、ソファにレオを座らせてから、そのすぐそばにひざまずいた。
いつになく真面目で、もっと言うなら沈痛な面持ちの彼に動揺する。エーレンはフレットに似てかなり図々しいところがあるので、しおらしいと困惑する。
「港湾管理局でのことなんだけどね」
神妙な顔で言う。
「フレットがあの場を離れるのを後押ししたのは僕なんだ。アーデルはレオの安全を確保してからだと進言したんだけど、僕がフレットを連れ出した」
「そうか」
「だからねレオ――」
「いや、いい。お前が兄上をかばおうとしているのはよくわかった。それも兄上の
エーレンが苦笑する。
「さすがのフレットも僕に全部かぶせるほどの人でなしじゃないよ。でも、半分は正解だと言わないといけないかな。僕はレオがフレットを嫌いにならないかどうかが心配で、仲を取り持つためなら僕が嫌われてもいいと思ったから今ここにいる。けれどあくまで全部僕の独断だ」
「正直だなあ」
「レオは嘘を見抜いてしまうからね。ぐだぐだ理屈を並べたら余計にこじれる」
レオは腕を伸ばして、自分の目線よりも低いところにあるエーレンの頭を撫でた。アーデルがエーレンによくこうしているのを見てきたからだ。案の定、エーレンは目を細めて表情を緩めた。
「仲直りしてよ」
「そもそも仲
「本当に? 置いていかれてがっかりしなかった?」
「まったくショックではなかったといえば嘘になるけれど、憎たらしいことにあのチャーリー・バーニーがトップは逃げて生き延びて再起を図ったほうがいいと言っていて、そうだな、と。兄上はトップとして正しい判断をしたのだ」
「あいつも腐っても海賊船の船長というリーダーをやってきた男なんだな」
そして、目線を下に落とす。
「大局を捨ててまで身を
「さすがエーレン、僕のことをわかっている」
しかし、レオは正直なところエーレンがこう言わなくてもフレットはそういう理屈を編み出すだろうという気はしていた。フレットはそういう男だ。
だがそれが嫌ではなかった。不思議なほど胸が晴れた。
レオは、兄に捨てられたと思って泣いてばかりの末っ子ではない。大局を見据えた兄を肯定する、それがノイシュティールン大公家五女なのだ。
「なんだかんだ言って兄が生きて無事ですぐ次の行動に移ったというならばそれでいい。僕も僕のことで悩み苦しむ兄など見たくない。兄は少し人でなしのほうがちょうどいい」
エーレンが歯を見せて笑った。
「あと、おぼえていてほしいんだけど、アーデルは反対したんだよ。アーデルはレオが心配だって。アーデルはレオの救出が最優先だと言ったんだよ」
「お前、本当に何かにつけてアーデルを推すな……」
双子の熱すぎる愛にちょっと引きつつ、「そういえば」と続ける。
「今はアーデルと一緒ではないのか?」
エーレンはすぐ答えた。
「アーデルはフレットと軍隊の駐屯地の準備をしているよ。今回海賊討伐のために集めた兵士をそのまましばらくブラウエの郊外に駐留させることにしたんだ」
すっかり忘れていた。その話もまだ立ち消えたわけではなかったらしい。
「とりあえず皇帝が決まるまでね。一年くらいだったら税を免除して農作業を休ませてもいいと判断したみたい。クセルニヒと決着をつけたり、あるいは今のところは何もないけれどカール少年を諦めていないヴァランダンと何かあったり、というようなことを見据えて。ノイシュティールンも黙って搾取されるだけではないというところを見せつけなければ」
「いいぞ、やれやれ!」
気持ちが
「アーデルは事務処理能力が高いから、兵士の食糧などの計算にも向いていそうだ」
「そうでしょう、そうでしょう。僕にはできないことだ。それに今ザイツェタルク騎士団の若衆がいてくれるからいろいろ助言もしてもらっている。特にグルーマン兄弟は有能だよ、普通同じ親から生まれた子供が均質に有能な人間に育つなんてことないのにね」
エーレンが立ち上がる。
「さて、レオ、ちょっと出掛けない?」
予想外のことにちょっと目を
「どこへ?」
「君に会いたがっている人がいるんだ。目が覚めたら連れてきてほしいと頼まれている」
「別に構わないが、とりあえず風呂に入らせてくれ。髪が
「あはは、どうぞ」
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