第4話 カテゴリ分けをする
レオは、手首を縛られた状態で、船室にあるソファに座り込んで静かに泣いていた。
海賊や海軍に知り合いがいないレオにはどういうシステムなのかわからないが、
大きな帆船でマストが三本ある。船首には石膏製の女神像がついている。レオには区別がつかないだけかもしれないが、商船にも見える。
ただ、甲板や船室の周りに合計八門、大砲を後付けで備えていた。
クセルニヒの最新鋭の軍艦は横っ腹から砲門を出していると聞いた。
その
船室は酒臭かった。窓はあるものの、おそらくはめ殺しだ。木目の床には謎の染みがある。しわだらけだが一応白いシーツが敷かれたベッドが一人分あって、昨夜はそこを使って寝た。なかなか寝つけなかったけれど、ともかくひと晩が過ぎた。
手首を縛られているので、涙を拭うことができない。雫がはらはらと顎からドレスの胸に落ちていった。
幸いなことに、海賊の男たちはレオの身体には触れなかった。下品な野次はたくさん浴びせられたが、意外にもあのセザンヌという女が男たちを黙らせ、まめにレオのトイレや食事の世話をしてくれた。
彼女はこの海賊団の中でかなりの地位にある人間らしい。男たちは彼女の言うことにはおとなしく従った。
チャーリー・バーニーも例外ではなく、はたから見ていると二人が姉弟のように見える。二人の実年齢がわからないので、実際は兄妹なのかもしれないし、まったく血縁関係などないかもしれないが、長い付き合いなのが察せられた。
しかしレオはセザンヌを信用できない。
彼女がイェルケルの手首を切り落とした張本人だからだ。
どんなに親切にされても、彼女は暴力行為をはたらいた女だ。
もしかしたらイェルケルは死んでいるかもしれない。
よく自殺する時には手首を切るという。かみそりで皮膚を刻んで手首にある太い動脈を切るのだそうだが、イェルケルは皮膚どころか手首をまるごと切断されてしまった。失血死の危険性がある量の出血をしているはずだ。
レオにとっては、身近な人間が暴力行為で死の危機にさらされるというのは、生まれて初めての経験だ。家族や親戚を老衰や病気で亡くした経験はあるが、昨日まで元気だった人が事件事故で突然死するのは遭遇したことがない。つらく、悔しく、恐ろしく、ひときわ悲しいことだった。
船室のドアが開いた。どかどかと足を踏み鳴らしてチャーリー・バーニーが入ってくる。続いて、セザンヌもついてきた。
チャーリー・バーニーがベッドの縁に腰を下ろした。セザンヌはレオのすぐそばに立つ。
「まーだめそめそ泣いてんのかいお嬢ちゃん。もう一日経ったってのに。これだから女の子はめんどくせェんだよなァ」
友を思って泣くことも許されないなら、レオは女の子でいいと思った。自分のせいで大事な友人が死の危機に瀕している、九死に一生を得ても生涯片手で過ごすことになる。そういう事実に直面しても泣いてはいけないのなら、男に分類されるのは願い下げだ。
「あのオグズ人は愛人か何かだったのかァ? 公女エレオノーラはザイツェタルク王ジギスムントといい仲だって聞いてたが」
チャーリー・バーニーをにらみつけ、「答えたくない」と吐き捨てる。時間が経って少しずつ抵抗する気力を取り戻してきた気がする。
別にイェルケルをそういう意味で愛しているわけではない。ケマルが同じような怪我をすれば同じように泣いただろう。もっと言えばジークが相手でも同じように泣いたはずだ。レオの中では彼らはみんな年上の親しい男性というカテゴリに入っていて、それ以上でもそれ以下でもなかった。
だが、下世話なチャーリー・バーニーは曲解したらしい。
「いいねェそういうの、俺ァそういうの大好きよ。ノイシュティールンの人間はみんなそういうところがあるねェ」
そう言ってげらげら笑った。
それから、欲望を宿した目をして、レオのことをまっすぐ見据える。
「俺も相手してくれねェかなァ。なにせロイデン一の美女だぜェ。おっぱいも大きい。イルマちゃんはだめだねェ、平らな胸のまだ毛も生えてなさそうなガキだからなァ、どうもその気にならねェ」
あまりの嫌悪感に鳥肌が立つ。それに今のレオには性暴力から逃げる術もないのだ。彼が本気になればいつでもこの場でそういうことになる。
警戒をあらわにしたレオに気づいているのかいないのか、セザンヌが「よしな」と言った。
「お姫様を相手にあんまり下品な物言いをするんじゃないよ。あたいらは交渉するに足る理性を持った人間なんだと思われなきゃならないからねえ」
交渉するに足る、とはどういうことだろう。誰かと何らかの取引をする予定があるのか。
「一回や二回減るもんじゃねェだろォ。用事が済むまでここでよろしくやったっていいだろォ」
「万が一
「そんなことある? 稀代の魔性の女エレオノーラ姫様だぜ」
「高嶺の花であればあるほど値段は釣り上がっていくというものさ。あとはあたいの女の勘だね」
セザンヌがレオの目の前にしゃがみ込んだ。
「フリートヘルムと連絡がつかない。あんたこういう時お兄ちゃんはどこでどうするか見当はつくかい?」
レオは首を横に振った。
「兄上は僕なんかもうどうでもいいのかもしれない。僕は大勢いる妹の一人でしかない」
そんな弱気な言葉に、セザンヌが「そんなこたあないだろ」と言う。
「あんたはでかい取引材料になる。うまくいけばジギスムントも引きずり出せるかもしれない。あたいらロイデン海の人間にとって内陸国のザイツェタルクはいろんな意味であこがれの存在だ」
それは否定できない。ジークがレオにご執心なのはレオの思い上がりではない気がする。幸いなのは今あの国を仕切っているのは王のジークではなく家臣のグルーマン侯爵だということだ。いいストッパーになってくれると信じる。
海賊と取引をするのは危険だ。まともに契約を守るわけがないからだ。そう思うと、海賊たちの前から姿をくらましたフレットの判断は正しいかもしれない。
「それに」
チャーリー・バーニーが顎の不精ひげを撫でる。
「あいつは諦めないね。これは俺の男の勘だ」
レオはチャーリー・バーニーのほうを見た。彼はにっこり微笑んだ。
「プライドが高いからな。一番高値をつけた妹がさらわれて今頃かんかんに決まってらァ」
「あのフリートヘルムはそんなちゃちな意地で行動を取るような男かね」
「間違いない」
ベッドから腰を上げた。そして、今度はレオが座っているソファの隣に座った。レオの肩を抱く。
「いいかい、お嬢ちゃん。こういう時にはトップは逃げるのが正しい判断だ。なぜなら組織は頭が生きている限り再生するからだ。これがクセルニヒやザイツェタルクみたいな王の支持率が低い国なら、下々の民が臆病な王を突き上げるような暴動を起こすかもしれねェ。だが、ノイシュティールンみたいな国なら、フリートヘルムが悲劇のヒーローになって妹を救いたいと檄を飛ばすのがベストだ」
レオは息を呑んだ。
「生き延びればどうとでもなる。本当に守りたいものを守るためなら死んじゃァだめなのよ」
チャーリー・バーニーの伸び放題のアッシュブラウンの長い前髪の
その瞳に、ロイデン海の荒波を生きてきた男の野生の本能に似た感性が、見え隠れしている。
船室の外から騒ぐ声が聞こえてきた。
乗組員たちの怒鳴り声が響く。
「チャーリー・バーニー! お客さんが押し寄せてきたぜ!」
「おうおう、様子を見に行くかァ」
チャーリー・バーニーが立ち上がった。
「一緒に来るかい、お嬢ちゃん。あんたをちらつかせたらあっちもこっちも盛り上がると思うんだよなァ」
居ても立ってもいられず、レオは「行く」と答えた。
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