第2話 やんちゃで可愛いみんなの弟分

 新年第一日目の朝が来た。


 ブラウエ港に大勢の人が集まった。圧死者が出ないか心配になるほどの群集で、雇った警備員が総動員で業務に当たっていた。


 レオとその家族は、港湾管理局の庁舎の一階、壁に何枚もの巨大な鏡が取り付けられている大広間の窓からその様子を見つめていた。


 ブラウエは今日もにぎやかだ。とてもロイデン帝国が皇帝を失って政治的に混乱しているとは思えない。ノイシュティールンは中央でどんな政変が起こっても永遠に不動の存在なのではないかと思うほどだ。


 日が高く昇ると、祝賀パーティが始まる。夜通し飲んでいるではないか、などという無粋な問いかけは、今日は厳禁だ。


 みんな楽しく笑っている。ノイシュティールンの栄華を言祝ことほぎ、平和と幸福を祈念して互いの友愛を確かめ合っている。


 その様子を、レオは一歩引いたところから見ていた。


 輪に入れない。


 輪に入ると、酔った大人たちに「ノイシュティールンで一番のお姫様」として褒めちぎられることがわかっていたからだ。


 言わせてやればいい。みんな言いたくてたまらないのだ。彼ら彼女らは大公家の末娘を自慢したくてたまらない。レオのことを、ロイデン帝国どころか、世界に向けて見せびらかしてもいい姫君だと思っている。


 息苦しいのは、まだ受け入れきれていないからか。


 早く受け入れなければならない。

 早くお姫様にならなければならない。

 早く女の子にならなければならない。


 広間の壁に取り付けられた鏡を見る。

 唇の端を持ち上げて、笑顔を作ってみた。

 作れないわけではない。ただ、維持ができないだけだ。心から笑っていないから消えてしまう。唇だけ形を作っても目が笑っていない。

 笑わないといけない。


 どうして笑えないのだろう。

 今までは口を開けて下品ながらもよく笑っていたのに、上品な淑女として振る舞おうとしただけで何がそんなに難しいのか。


「レオ!」


 声をかけられたので振り向いた。


 そこに立っていたのは、パーティ用の紳士服を着たイェルケルだった。大学に通っている時のくだけた私服とは異なり、そこはかとない上品さが出ている。

 イェルケルはオグズ系二世だが、親は資金が潤沢なワイン工房に勤めていて経済的にゆとりがあるので、少年時代にもそれなりの教育を受けていたらしい。したがってこういう上流階級のパーティに出席していても違和感がない。だいたいパーティ自体もしょせんノイシュティールンなのでそこまで堅苦しいものではない。


「会いたかった。会えてよかった」


 彼は左手にシャンパングラスを持ったまま小走りで近づいてきた。レオも彼に向き合った。


「今日はケマルは一緒でないの?」

「今日は研究室の別の友達と来てるよ。後で紹介する」

「ありがとう」


 険しい顔をしている。


「どうして講義に来なくなったの? すごく心配したんだ。ケマルもね。ケマルは自分が余計なことをしたせいでレオに精神的に重荷を負わせてしまったんじゃないかと思って落ち込んでるよ」

「ケマルはちょっと反省したほうがいいわね。彼、あのままでは就職できないのではないかと思うのだけど」

「本当にね。将来は弁護士になるとは言ってたけど……、僕には法曹関係の仕事のことはよくわからないんだけど、個人で活動できるのかな? 法律事務所とかに所属しなくていいのかな」

「どこかに所属するということが向いていなさそう」

「僕からしたらそもそも反体制の活動ばかりしてるくせに堅気かたぎの仕事を目指すとはっていう感じだ。しかも法律系だって? あいつにもノイシュティールンの法に従う気があったのか」


 レオは思わず声を上げて笑ってしまった。


「本当にな。言われてみれば、ケマルの活動範囲はノイシュティールンの法で保障された自由の中だから、下手に帝国内の他の国に職を求めるよりはブラウエで骨身をうずめろ、と僕は思う」


 イェルケルの表情が優しくなった。目を細めてレオを見つめる。


「ほら。レオはそういうほうがいいよ」


 指摘されて、はっとした。


「無理してレディとして振る舞わないでほしい。僕たちのレオはやんちゃで明るくて時々毒を吐く、みんなの可愛い弟分だ」


 レオはうつむいた。


「そういうのから脱却したいのだけど……そういうのはあまりザイツェタルク王妃としてふさわしくないと思うので。みんなわたしにもっと可愛くおしとやかなお姫様を求めているのだということはよくわかったし……わたしだって期待に応えたいわ」


 身を切るようにつらい。こんなふうに言われたらまた男装して大学に戻っていきたいと思ってしまう。イェルケルは良き理解者なのだと感じてしまう。

 だが、それは許されない。

 それで理解されているとは思わずにおくべきだ。


「大学は殿方の行くところだから。殿方に交じって学問だなんて、やんちゃすぎるわ。いくらおてんばで知られたわたしでも、もうちょっとわきまえないと。淑女には淑女のやるべきことがあるのよ、ダンスとか声楽とか」


 イェルケルが笑みを消す。悲しそうな目をする。


「もう男の子に交じって遊ぶ子供時代は終わりなの」

「そんなの悲しすぎるよ」

「それに……」


 手持ち無沙汰な気分だ。腹の前で左右の指と指とを意味なく組み合わせる。


「正直に言うと、わたしも完全に大学に、というか、男性の世界に馴染めたわけではなかった気がするの……。学生の仲間たちと一緒に、年季の入った酒場でお酒を飲んだり、賭け事をしたり、夜の仕事をしている女性を冷やかしたり、というようなことがとても苦手だったの。だから、わたし、本当は男の子ではなかったのだわ」

「それは……、まあ、例外の学生もいるんじゃないかな、探せば」

「そう、わたしは例外だった。みんなの優しさに甘えて、仲間に入れてもらっていた」

「そんなふうに考えたことはないけど……、でも、そうだね。レオもレオなりにつらかったりさみしかったりしたよね」


 頭ごなしに否定も肯定もしないイェルケルは大人だ。いっそ聖職者でも目指してほしいが、彼は神学部の人間ではない。

 話を、聞いてくれている。


「世の中には男と女の二種類しかいない、ということをまざまざと突きつけられる時がある。男でも女でもないと思っている人間はどこに行けばいいのだろう、どこにも居場所などないのではないか、と考えて気が滅入る。簡単に身体的特徴だけで割り振ることができたら、どんなに楽だろう。僕は……、僕はいったいどこに行ったら――」


 その時だった。


 どん、という、腹に響く大きな音が聞こえてきた。


 庁舎が揺れた。


 壁が砕け散った。


 壁に大きな穴が空いて、それから――信じられないものが飛び込んできた。


 鉄球だった。


 巨大な、レオの腕ではひと抱えほどもありそうな黒い円形のかたまりが、壁を突き破って広間の床に落ちた。


 床にも穴が空いた。鉄球がめり込んだ。その衝突に巻き込まれたらしい、紳士が一人鉄球に押し潰されて沈黙した。


 悲鳴が上がった。


 レオはとっさにイェルケルにしがみついた。何かをつかんでいないと恐怖で立っていられなくなりそうだった。フレットや双子にこうして甘えてきたためにやってしまった反射的な行動だ。しかしイェルケルも実家にレオと同い年の妹がいるそうで対応に慣れているらしく、レオの肩を軽く抱いてこうささやいた。


「大丈夫だよ、落ち着いて。すぐに警吏や大公家の親衛隊が来る」


 レオは二度も頷いた。


 だがイェルケルの言葉は実現しなかった。


 二発目が飛んできたからだ。


 二発目は二階に飛んできて、床を突き破って一階の広間に落ちてきた。


 人々がパニックで逃げ惑う。広間の出入り口に殺到する。押し合いへし合いで互いに潰し合いそうになる。


 そうこうしている間に、壁に空いた穴から、彼らが庁舎に入ってきた。


「やァ、やァ、新年明けましておめでとう、ブラウエ市民諸君」


 垢と酒のにおいを漂わせて入ってきた連中の先頭でそう言ったのは、ぼろぼろの黒いコートを羽織り、ぼさぼさのくすんだ金の髪に巨大な南洋の鳥の羽根を刺した黒い三角帽子、オグズ帝国のバザールを思わせる金銀の細工を首や指につけた、年齢不詳の男だった。


 男はおびえた人々を前にして大笑し、こう叫んだ。


「この俺様、海賊の中の海賊チャーリー・バーニーが新年の挨拶に来たぜェ! 全力でもてなしなァ!」


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