第15話 自由の国ノイシュティールンにおける自由恋愛

 グリュンネンからブラウエまでは川下りだ。大型の船舶でも行きよりかなり速度が出る。グリュンネンからツェントルムに向かう道中はしばらく馬車だったので三日かかったが、ツェントルムからブラウエまではわずか一日半で帰ってくることができた。


 ツェントルムでディートリヒおよびツェツィーリエ親子を船からおろすと、とても気が楽になった。


 もうすぐブラウエだ。

 何隻もの船がすれ違うことのできる幅広の川、流れはとてもゆったりしている。


 ツェントルムを出たあたりから気温が明らかに変わった。ここはザイツェタルクよりもずっと暖かい。毛皮を着なくてもフェルトの上着一枚で事足りそうだ。


 雲がザイツェタルクに流れていく。ノイシュティールンでは薄い雲も、ザイツェタルクには雪を降らせる。冬のザイツェタルクはずっと曇天だった。


「めちゃめちゃ嫁ぎたくない。ザイツェタルクで冬を越えられる気がしない。十二月の今でも寒かったのに、本格的に雪が降り始めたらどうなってしまうのか」


 フリートヘルムがからりと笑った。


「では渡り鳥のように冬が近づいたらブラウエに帰ってきたまえ」

「簡単そうに言うが、王妃が寒さから逃れて実家に帰るのはどうなのか? 母上でさえ冠婚葬祭でしかツェントルムに帰らないものを」

「ふむ、なかなか政治のことを考えるようになったものだね。人心というものを意識するようになったと見える」

「兄上が知らないだけで、僕は昔から大公家五女として民衆に対して気を遣って生きている」

「本当に? お前が美しくて愛嬌があるから自動的に愛されているだけではなく?」

「うーん、兄上がそうおっしゃるならそうかもしれない」


 斜め後ろで聞き耳を立てていた双子が笑った。


 川沿いの景色が変わってきた。葡萄畑の中に点々と古城があるのどかな風景から、人がまとまって住む街並みが見えてきた。冬至祭や年末年始に備えて家々が飾りつけをしている。ノイシュティールンの毎冬の眺めだ。


 やがて大きな港町が見えてきた。我らがブラウエである。我が愛しき故郷だ。

 たった半月ちょっとの旅行だったのになつかしく感じた。

 大きな港と年々拡張を続ける新市街を抱えるブラウエに城壁はない。グリュンネンは分厚い城壁といかめしい市壁に囲まれていた。あそこは戦うための城塞都市だったのだ。

 ブラウエの集合住宅の窓辺には、冬にもかかわらず花を咲かせる植物が彩りを添えていた。

 なんと美しい街だろう。


 しかし、港に入った時、レオは絶望的な気持ちになった。


 愛すべき大公家の面々の帰還を歓迎する民衆が、港まで押しかけていた。


 その民衆が、大きな横断幕を複数掲げていた。


『公女エレオノーラ様ご婚約おめでとうございます』

『エレオノーラ殿下・ジギスムント陛下万歳』

『花の命は短し恋せよ乙女』


「耳が早い」


 アーデルが呟いた。エーレンは忍び笑いをしている。


 まるで知っていたかのようにフレットが言う。


「素晴らしい。民がみんな祝福してくれている。我らがノイシュティールンは自由の国だからね、自由恋愛を良しとしているのだろう」


 衝撃だった。

 レオからしたらこれは政治のために行われるれっきとした政略結婚だったが、みんなはレオが望んで結婚しようとしていると思い込んでいる。

 人間の恋愛感情すら政治の道具だと思っているフレットならではの策略だ。

 ますます逃げられなくなってしまった。


 民衆が、祝福してくれている。

 民衆が、喜んでいる。


 船が埠頭ふとうに停まった。


 タラップが用意された。レオは船からおりるのを恐ろしく思っていたが、フレットが「エスコートしよう」と言ってむりやりレオの手をつかんで引いた。


 押しかけた人々が喝采を浴びせる。


「おめでとうございます」

「我々の大事なお姫様」

「どうかお幸せに」

「ジギスムント王はどのようなお方ですか」

「いつ頃ザイツェタルクに行かれるご予定ですか」


 生まれてからずっと頼もしく愛しく思っていた民が怖い。


 愛して、愛されて、生きてきたはずだった。レオは公女として民衆に尽くし、民衆は公女であるレオを尊んでくれていたはずだった。

 それが、最後の最後である今になってこういう扱いとは、裏切られた気分だ。


 みんな、レオの胸中を勝手に決めつけようとしている。


 しかし、みんな、レオの幸せを考えたらこうするのが一番だと思い込んで喜んでいる。


 これが、国じゅうに愛された大公家の末っ子、公女エレオノーラの最後の公務だ。


 レオは泣きそうになった。


 タラップをおりきり、港湾管理者の執務どころのある館に向かおうとした。


 足が震える。

 けれどフレットは立ち止まることを許さない。


 波止場に並ぶ群集の列から、二人の青年が飛び出してきた。

 ケマルとイェルケルだ。

 二人ともすぐそばにいたレオの警護官たちに捕まってしまったが、レオが「乱暴はよせ、学友だ」と叫ぶと、警護官たちは二人を引きずり倒すようなことはせず、腕をつかんだまま引っ張って群集の中に戻そうとした。


「レオ!」


 ケマルが叫ぶ。


「これはどういうことだ!」


 レオも叫び返した。


「僕のほうが聞きたい!」


 イェルケルも叫ぶ。


「話を聞かせてほしい! 君が心配だ!」


 この二人はレオ個人のことを深く理解してくれている。この婚姻が心底レオ自身が望んでいるわけではないことを察しているのだろう。レオは安堵した。持つべきものは友だ。


「夕方の鐘が鳴る頃に港湾管理局に来てくれ! ケマルとイェルケルは通すように双子に言っておく!」

「わかった!」


 そんなやり取りのあと、ケマルとイェルケルが群集の中に消えた。レオはその後ろ姿をずっと見つめていたかったが、人が多すぎてすぐ見えなくなった。




 夕方、港湾管理局の館にケマルとイェルケルがやってきた。レオは男物の服に着替えてから二人と話をした。ちなみに兄と母はアーデルに連れられてブラウエ宮殿に戻り、エーレンがレオの警護のために別室で待機している。


 レオがひととおり事情を説明し終えると、ケマルが「くそっ」と言って壁を殴った。


「だからフリートヘルムは信用ならなかったんだ。レオをこんなふうに陥れるなんて……、実の妹の気持ちを踏みにじって」


 イェルケルが溜息をつく。


「困ったことになったね。民衆はみんな大喜びだ」


 次の言葉がレオの胸をえぐった。


「ジギスムント王がエレオノーラ様を女の子に戻してくれた、って。これで男の子みたいだったエレオノーラ様もいい加減女に目覚めてくれるだろう、って。そんな話をしているよ」


 足元が崩れ落ちるような衝撃だった。


「僕は、そんな目で見られていたのか」


 男の装いはレオにとって心の武装だったが、本当は、民は快く思っていなかったのだ。みんな静かに見守ってくれていただけで、内心では女の子らしく振る舞ってほしいと思っていたのだ。


「ノイシュティールンは自由の国だよ。だから服装や言葉遣いも少しぐらいは大目に見るべきだと思っていたんだろうね。でも、まあ、みんな性別までは自由に選べるわけじゃないと思っているということなんだろう」


 イェルケルに落ち着いた声で説明されて絶望する。


 自由の国ノイシュティールンでさえ認めてくれないものを、いったいどこに行ったら認めてもらえるのか。


 ザイツェタルクでは何も言われなかったのに、と思ってから、はっとした。

 あの国では、というより、ジークは何も言わなかった。


 急激にジークが恋しくなってきた。だがノイシュティールンでこんな騒ぎになっていると知ったら彼も困るのではないか。ただでさえ色恋沙汰の苦手そうな彼にうまい対処ができるとは思えない。


「レオが望んでいることじゃないんだな」


 ケマルが言う。その声には怒りがにじみ出している。


「ひどい。抗議してやる」

「誰にどこでどんな?」

「今に見ていろ」


 彼はレオの問いかけには答えずに部屋を飛び出していってしまった。レオが「ちょっと、おい」と呼びかけたが無視だ。相変わらずかっとなったら周りを見られない男である。


「早まって余計なことをしないでくれたらいいのだが」


 レオがそう呟くと、イェルケルが苦笑した。


「僕がなんとかするよ、と言ってあげたいけど、僕の言うことをすぐに聞いてくれるようなら誰も苦労しないんだよな。むしろレオから一言言ってくれたほうが効果はある」

「僕はケマルにそんなに大きな影響力を与えられる人間だったのか」


 二人で顔を見合わせる。


「で、レオとしてはどうなの? やっぱり本音では行きたくないのかな。僕はどちらかといえば大公殿下寄りの実利を考えてしまうタイプの人間だから、レオがザイツェタルクとの架け橋になってくれるというのは悪い話ではないような気がするんだ」


 イェルケルはどこまでも冷静な男だ。信用できる。レオは本音を打ち明けることにした。


「僕も大公令嬢だ。いつかはどこかと政略結婚させられるのだろうと覚悟していた。だが兄上のやり口は汚い。手順を踏んで婚約期間を設けてくれればいいものを、こんなに急ぐとは」

「一刻も早くディートリヒ皇子の味方を増やしたいんでしょう」

「それはわかっている。ローデリヒ皇子が死んだ今がチャンスだ。だから外堀を埋めて僕やジークが逃げられないようにしている」


 船の上で、兄は笑っていた。


「みんな末っ子のお姫様のわがままだからと言って笑って目をつぶろうとしている。僕がどんな覚悟で生きているかも知らないで。これでは僕が情勢を読めない馬鹿な女ではないか」

「あまり思い詰めないようにね。君の言うとおりだ、残念ながら、ノイシュティールン民は大公家のかわいい末っ子の君が何をしても目をつぶる。それが自由の国ノイシュティールンの器だ。利用すればいいさ」


 レオは苛立ち紛れに大きく息を吐いた。


「ジークも哀れだ。これではあいつが女にたぶらかされてロイデン一の名門の尊厳を売り渡すようなものだ。あいつにそんな迷惑をかけるとは思っていなかった」


 イェルケルが「おや」と目をまたたかせる。


「ジギスムント王とは何らかのやり取りができたの?」

「ああ。友達になった」

「……ふうん? 友達ねえ」

「個人的に親しくしようとは思っているので、結婚は悪くないと思うのだが……僕のこういうがさつなところを受け入れてくれているし、あの男自体は悪いやつじゃない」

「え、それ最初にケマルに説明すべきだったよ」

「ええ? なぜ?」

「いや……まあ、うん……」

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