第13話 お前は僕と結婚したいか?

 その夜、レオとジークはグリュンネン城の二階の大広間に向かった。


 バルコニーの内側の大きな窓から二人並んで空を見上げる。


 冬のグリュンネンの空は曇天が多くて月も星も見えない。それがジークの今の立ち位置を表しているようでなかなか厳しい。外のバルコニーに出ない理由も、外気があまりにも冷たいからだ。温暖なブラウエ育ちのレオにはこたえた。


 正直なところ、レオはこんなところに嫁いできたくなかった。差別意識にまみれた民衆、政治闘争に明け暮れる貴族、寒すぎる気候、どこを取ってもザイツェタルクはつらい。ブラウエを出る時にはあんなに格式が高く歴史的建造物と雪山の美しいグリュンネンにあこがれていたのに、今となっては帰りたくてたまらなくなっていた。


 広間には何人かの衛兵が交代で詰めている。これなら二人きりでいちゃついているとは言われないだろう。もしかしたら彼らも婚約者たちの甘い語らいを捏造するかもしれないが、レオはやぶれかぶれでもうどうにでもなれと思っていた。どこで話しても誰かは何かを言うのだ。


 しかし、それでも、レオはジークと話したかった。

 彼の本音を聞きたかった。


 レオは自分でも馬鹿だと思うほど純真で素直な人間で、政治のために姉妹を犠牲にすることをなんとも思わない兄より、レオの言動を見てからっと笑った純朴な青年の見解を聞いてみたくなった。

 この目で見て、この耳で聞いて、それからすべてを判断する。


 それに、ジークは、助けてくれた。


 医者に縫われた左手の傷が、じんじんと痛む。けれど、薬を塗って包帯を巻いた今、レオはほっとしてしていた。こうして手当てを受けることができたのも、ジークが手配してくれたからだ。

 怪我をさせても自分の欲望を優先したディートリヒとは違って、ジークは、レオの心身をおもんぱかってくれる。


 今も、その気になれば、レオを二人きりの場所に閉じ込めて、いくらでも自分のものであることをアピールすることができるはずだ。それなのに、寒々しい広間で窓を見上げている。


 この男は、たぶん、善良なのだろう。


「悪かった」


 ジークがこぼすように言った。


「実は父の葬式の話をした段階ですでにお前の兄貴から婚約の打診があった」


 胸がつきりと痛む。


「本人を連れていくから、直接会って話をして気に入ったかどうか教えてほしいと言われた。俺も、お前の知らないところで勝手に進めるよりは、とりあえずザイツェタルクに来てもらって状況を知ってもらってから判断しようと思って」


 そう思うと、兄もジークもまだ優しいのかもしれない。有無を言わさず次に会った時には結婚式だと言われるよりは、多少の猶予があったものと見える。


「まあ、お前が何と言おうとフリートヘルムは強引に話を進めただろうが。ザイツェタルク側からも断る理由がない。金がないし、味方がいないし、俺は天涯孤独で血縁者がなく早急な後継者作りが必要だ」

「そうか」


 これがあかの他人だったら政治的な決断としてはそれなりに良いと言ったかもしれない。そこに介在しているのが自分だから気分が悪いのであって、客観的にザイツェタルクの状況を考えれば最適解かもしれなかった。


 あのならず者国家クセルニヒと同盟を結ぶのは危険だ。

 ヴァランダンもあまり裕福であるとは言えないし、クラウスという大問題を抱えている。


 ノイシュティールンとザイツェタルクはユーバー川の利権をめぐって長年対立してきた。だが、実際に紛争になっているわけでもない。あくまで仮想敵でしかなかった。むしろ、ライバル同士だと思われてきた国同士で電撃的に婚姻政策を取るほうが、クセルニヒやヴァランダンを出し抜くことができる。


 そういうことが理解できないほどレオも愚かではない。


 けれど、やはり、その間の道具として使われるのが自分の身柄だと思うと、すぐに応とは言えない。


「それに」


 ジークがそこで一度溜息をつく。


「ザイツェタルクはローデリヒ殿下を失って次の皇子が必要だ」


 レオはひとつ頷いたが、ジークはその後「だが」と続けた。


「あのディートリヒとかいうガキはだめだ。絶対にだめだ。あのガキを推挙するくらいならクセルニヒとも同盟を結んでハインリヒ皇子に寝返る」

「えっ」


 さんざんブラウエ港がクセルニヒ海賊に荒らされるのを見てきたレオからすればありえない。クセルニヒはクセルニヒというだけで嫌悪するに足る。


「やめておけ、イルマ女王を見ただろう、あんなだぞ」

「それでもディートリヒよりはマシだ」


 先ほど、女を力ずくでどうこうしようとするやつが大嫌いだ、と言っていたことを思い出した。気持ちは嬉しいが、それこそ政治のことを考えたら、と思うと不安になる。


「お前が傷ついたんだろう?」


 ジークはレオの体を純粋に心配してくれている。自分の女に手を出されそうになったから怒っているわけではない。


「怪我もした。縫った。それも三針も」


 ジークはいいやつだ。

 胸の奥がぽかぽかする。


 レオは、包帯の上からそっと自分の手を撫でた。皮膚の神経が過敏になっていてびりびりとした刺激を感じる。


「絶対にゆるさない」

「ありがとう」


 そう言うと、ジークが弾かれたように顔を上げた。こちらを向く。ランプの炎に彼の紫の瞳が照らし出される。こうして見ると彼も顔立ちが整っている。大きな目、厚い唇、さらさらの黒髪、二十歳のわりには少々幼く見えなくもないが悪くない。


「お前のおかげでおおごとにはならなかった。同時に、心配してくれるのがとても嬉しい」

「レオ……」


 ジークが細く長く息を吐いた。


「ハインリヒ皇子本人の性格は悪くなさそうだしな。ルートヴィヒ帝の葬式で辺境伯がカールを連れてきた時、落ち着いてカールに話しかけていた」

「言われてみればそうだ」


 しかし彼は修道士で聖職者だ。皇帝などやりたいだろうか。ハインリヒの母親の件は現実主義で実力主義のノイシュティールンではさほど問題にならない。


「あるいはクセルニヒからハインリヒ皇子を取り上げるという手段もある。なんならザイツェタルクに連れてくるか?」

「お前な、簡単そうに言うけど、血は水より濃いんだぞ。俺もリリアーナ叔母上の件でどれほど気を揉んだか。お前のところだってツェツィーリエ様のことでいろいろあるんじゃないか」

「まあ、それはある。兄上と叔母上はあまり仲が良くない。叔母上は甥の独断専行に手を焼いているし、甥である兄上は生意気盛りで根性の曲がった従弟の教育に労力を割かねばならないことを憂いている」

「その件については俺は全面的にフリートヘルムを支持する」

「ははは」


 ディートリヒの後処理には困るが、ハインリヒをザイツェタルクが略奪するのは我ながら悪くない案ではないか。思いつきだが一考の余地ありといったところか。


「うちの頑固親父どもの意見も聞かないといけない」


 うちの頑固親父ども、というのは、おそらくグルーマン侯爵やケッヘム侯爵を筆頭とした騎士団の幹部たちのことだろう。


「今回の事件も、あいつらと情報共有させてくれ。俺がディートリヒを嫌っている理由を知れば何も言わないと思う」

「そういうものか? 彼らこそ政治的判断のためにたかだか大公家の小娘に過ぎない僕の身の安全など気にするものだろうか」

「いや、大丈夫だ。お前は気にしなくていい。それより今回の件をおおやけにすることでお前が傷つかないかどうかが気になる」


 レオはちょっと悩んだが、個人的にディートリヒに復讐したいので頷いた。それを見てジークもしかと頷いた。


「ディートリヒが僕に迫っていることは大公家ではみんな知っていることだ。双子も配慮してくれている。一般民衆に言いふらされるのは困るが――」

「それは俺もお前の名誉のために気をつける」

「それならばいいだろう。まあ、あとはうまくやってくれ」


 そこで一度二人の会話が途切れた。


 ジークは、いいやつなのだ。


「嫌だっただろうな」


 彼はまた窓のほうを向いてから、ぽつぽつしゃべった。


「ましてお前は女扱いされることを嫌がっているのに」

「男でも気のない相手に押し倒されたら嫌なのでは? 僕は男ではないので知らないが」

「そうかもしれないな。俺は押し倒したことも押し倒されたこともないのでわからないけど」


 レオは心の中で、お前は童貞なのか、と訊いてしまったが、声には出さなかった。うすうすわかっていたが、実際に目の当たりにすると難儀なことである。むしろ押し倒された経験がないのは幸福なことではないか。神は子を作る意図のない性行為を禁じている。真面目に受け取って遵守している人間は多くなさそうだが、本当は男も純潔のほうがいい。性病の心配もない。


「お前はお前のペースでな」


 レオがそう言うと、ジークが「わかったような口を利く」と苦笑した。


「とにかく、俺はお前がないがしろにされるようなことがあってはいけないと思う。どうしても俺と結婚したくなかったら言ってくれ、フリートヘルムに掛け合ってみる。俺ごときが何を言おうと自分の意思を曲げる男じゃなさそうな気もするけど」

「無駄だろうな。兄上が決めたことは絶対だ。僕はお前と結婚するだろう」

「嫌じゃないのか?」


 即答しなかった。嫌だと言ったら彼を傷つけることになるのではないかと考えたのだ。

 ところがジークはレオが何かを言う前に勝手に「嫌だよな」と結論づけてしまった。


「卑屈すぎるぞ。堂々としろ」

「だが――」

「逆に聞くが、お前は僕と結婚したいか?」


 途端、ジークは目を丸く見開いて硬直した。

 ランプの光で、彼の頬がほんのり赤らんだのが見えた。

 レオは眉間にしわを寄せた。

 こいつはこちらに気があるのかもしれない。


「……まあ、心の準備は必要そうだな」


 それだけを言うと、彼はいきなり踵を返して出入り口のほうに向かって歩き出した。レオはその背中に「おい」と投げかけたが、彼が振り向くことはなかった。


 なかなか難儀なやつである。


 これは、もっと真剣に考えたほうがよさそうだ。



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