第12話 修理費の請求書はフリートヘルム大公殿下へ

 レオはグリュンネン城の賓客用に設けられた部屋でベッドに突っ伏してうめいていた。


 さすがのレオも、自分の身分はそれなりに理解していたつもりだった。

 自分は大公令嬢だ。姉たちも四人ともみんな大公家の都合のいいところに嫁いでいった。自分も、いつかは、ノイシュティールンにとって利益になる形で結婚するだろう。それは覆せない宿命で、間違いなく近づいている未来だった。


 しかし、こんな騙し討ちのような形で進められるとは思わなかった。


 女として生きていくという悲壮な覚悟を決めようとしていたレオに、男女関係というおもしろおかしいゴシップの主役の立場が押し付けられる。

 気持ちが悪い。

 心の底から男に生まれたかったと思う。


 同時に、ほんの少しだけ、自分を責める気持ちも湧いてくる。


 気づかなかったレオも悪いのだろうか。


 レオの結婚相手はロイデンでも指折りの名門の息子だと聞かされていたではないか。


 ザイツェタルク王家はロイデン帝国でもっとも格式の高い家柄だ。三百年の歴史をもつロイデン騎士の家系で、ジークが純血のロイデン人だったら妃のあてはいくらでもあっただろう。それがオグズ人との混血だから身分が低く歴史の浅いノイシュティールン大公家に巡ってきたのである。


 思えば思うほどこの展開は既定路線であった。

 フレットの計画はツェントルムで引き合わされた時点ですでに始まっていたに違いない。


 ジークは最初からそういう目でレオを見ていたのだろうか。

 親切だったのは自分の妃になるからだと思っていたためだろうか。

 とんでもない裏切りだ。


 最初からそうと言ってくれればこんなに傷つかなかったかもしれない。


 ジークがレオを騙していたというのが、一番ショックだ。


 なぜ、普通に見合いから始めなかったのか。レオとて最初からジークを夫として意識しろと言われればそれなりの心持ちで接していただろう。


 いまさら夫婦になどなれない。


 ドアをノックする音がした。目元を押して今まさにこぼれ落ちようとしていた涙を拭った。女の子のように自分の身の上を悲観して泣いているとは思われたくなかった。


「誰だ?」


 問い掛けると、少年の声が返ってきた。


「僕だ。ディートリヒだ」


 心臓が跳ね上がった。胸の奥が冷えた。


 彼もジークとの婚約騒動を聞きつけたに違いない。河原で彼の話をして以降存在を忘れ去っていたので気まずい。


 嫌な予感がした。


「開けろ」


 ディートリヒの声が怒っている。


 従弟で年下といっても、ディートリヒは帝室の人間だ。身分を考えたら逆らえなかった。

 それに、これ以上機嫌を損ねるのも怖かった。レオはとにかく不機嫌なディートリヒに弱いのだ。ディートリヒは不機嫌を直接的にレオにぶつけてくるので逃げられないのである。


 これ以上おかしくなる前になんとかしなければならない。


 おそるおそるドアを開けた。


 案の定、不愉快そうな顔をしたディートリヒが一人で立っていた。


 ドアを開けた途端、彼は部屋に押し入ってきた。後ろ手にドアを閉めて鍵をかける。


 鍵をかけられてしまった。


 ドアが、ディートリヒの背中にある。


 彼は不安で後ずさったレオに腕を伸ばした。そして、レオの右手首をつかんだ。


「話は聞いた。あの薄汚いオグズ野郎と婚約するんだってね」


 とっさに否定しそうになってしまったが、レオはフレットにも逆らえない。フレットがああ言っている以上結婚はきっと確定だ。したがってここで否定すると嘘をついたことになる。これ以上話をややこしくしてはいけない。


「まあ、そうなるだろうな。僕は望んではいないが、兄上がそうお求めなのだから」

「そうだよね、レオがあんな下等な男を望むわけがないよね」


 ディートリヒが暗い目で微笑む。ぞっとする。


「レオは僕のものなんだから。僕が皇帝になったら、皇妃にしてあげる」


 もっと嫌だった。そうはっきり言ってやりたかった。少なくともジークは直接レオに欲望をぶつけたり意思とは無関係に体に触れたりはしてこなかった。ディートリヒよりはまだマシだ。


「穢らわしい」


 ディートリヒがそう言って、レオの手首を自分のほうへと引き寄せる。まだ十四歳の子供なのに力が強い。もうすでに身体が男になろうとしているのかもしれない。女の身体の自分では敵わないのかもしれない。


「あの劣等人種はどこに触ったの? 僕が触って浄化してあげる」


 レオの右手首をつかんだまま、左肩を叩くように押した。レオはバランスを崩して床に倒れた。左手がテーブルの上に置いてあった花瓶にぶつかって派手な音を立てた。

 床に手をつこうとして左手を花瓶の破片の上に置いてしまった。鋭い痛みが走った。思わず「痛い」と叫んでしまったが、それをディートリヒが聞くことはなかった。

 尻餅をついたままのレオの上にディートリヒがのしかかってくる。


「やめろ!」


 一生懸命ディートリヒを振り払おうとした。なんとか抵抗を試みる。しかし押さえ込まれてしまって思ったとおりには動けない。左手から赤い血液が飛び跳ねてディートリヒの顔に点々と散った。


「大きい胸」


 ディートリヒの右手が、レオの左胸をつかむ。恐ろしく強い力で揉みしだかれて、痛みとともに恐怖がせり上がってきた。


「これもあの男に揉ませたの?」

「ちがっ」


 彼の左手がようやく右手首から離れた。けれどレオはそれだけでは解放されたとは思えなかった。ただ目の前のオスが怖くて大きな声も出せなくなっていた。

 体が動かない。


「もう処女じゃないの?」

「ディー……」

「あの男に見せたところ、僕にも見せてよ。ねえ」


 左手が、レオの顔の下半分をわしづかみした。唇が彼の手のひらに触れた。これでもう完全に声は出せない。


 もうどうしようもない。


 手が痛い。


 レオが抵抗をやめた、その時だった。


 外から大きな音がした。何か重くて硬いものをドアに打ちつける音のように聞こえた。がん、がん、と断続的に響いた。


 ディートリヒがレオから手を離して上半身を上げた。レオもそのままの体勢で音のするドアのほうを見た。


 ドアノブのあたりに、大きな穴が開いた。

 木製のドアに、鉄製の斧が突き刺さっていた。


 斧が引き抜かれ、次に手が穴から入ってきた。

 その手がドアの鍵を開けた。


 鍵を開けてくれた。


 ドアが外から開いた。


 そこに立っていたのは、左手に斧を持ったジークだった。


 彼は斧を壁に立てかけると無言で部屋の中に入ってきた。

 そして、ディートリヒの背中を横から蹴った。

 まだ少年のディートリヒの体が成人男性であるジークの脚力で吹っ飛んだ。


 次に、ジークはディートリヒの胸倉をつかんだ。それから、突き飛ばすように押し、床に転がした。


「殺すぞ」


 ジークが低い声でそう言うと、ディートリヒが蒼い顔で叫んだ。


「僕はツェントルム皇子だぞ。僕にこんなことをしてただで済むと思っているのか」

「失せろエロガキ」


 間髪入れずの罵倒だった。


「斧で頭をかち割られたくなかったらこの部屋から出ていけ」


 今のジークには血筋の高貴さを語っても通用しないことがわかったのだろう。ディートリヒはジークをにらみながら立ち上がり、転がるような勢いで部屋を出ていった。


 部屋の中に、ジークとレオの二人が残された。


 ジークが静かに歩み寄ってきて、膝をついた。


「痛かったな」


 そう言って、レオの左手首をつかんで、そっと持ち上げた。赤い血液がだらだらと流れ、服の袖の裾を濡らしていた。

 ジークの大きな手が、いやらしさを感じさせることのない優しさで、血で汚れるのもいとわずに、レオの左手を包んだ。


「すぐ手当てをさせる。立ち上がれるか? ソファに移動しろ」


 レオは何度も頷いた。


「だが、お前はどうしてここに……」

「さっきの件で、お前とちゃんと話をしたくて。部屋の前でどうやって話をしようか悩んでいたら、陶器が砕ける大きな音がしたから、何かあったんだろうと思って。部屋に鍵がかかっていたから、開けようと思って、こんな――」


 後ろを振り向いた。

 黒髪に緑の瞳の男――確かリヒャルト・グルーマン――が至極冷静な顔でこちらを覗き込んでいた。


「ドアの修理費」


 リヒャルトが言うと、ジークはちょっと黙った。少し間を開けてから、こう答えた。


「フリートヘルム大公殿下に請求書を」

「傑作」


 彼はそう言ってから、「別の部屋を用意するわ、待っていて」と言い残して離れていった。 


 ジークが、大きな溜息をついた。


「俺は女を力ずくでどうこうしようとする奴がこの世で一番嫌いなんだ」


 レオも、そっと息を吐いた。まだ心臓はうるさかったが、ひとまず危機は去ったことを感じられた。


「何かあったのか?」

「身内でちょっとな」

「身内?」

「今は話せない。俺もまだ気持ちの整理がついていなくて」


 そして、目を逸らす。


「でも、いつかは聞いてくれ。友達、なんだろう?」


 レオはついジークを抱き締めてしまった。

 しばらく、ジークにくっついておいおいと泣いた。ジークは何も言わずレオが泣きやむのを待ってくれた。


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