第8話 この国らしい景色

 自分自身で乗馬して出掛けること自体が久しぶりだった。


 レオはジークに貸してもらった馬にまたがって有頂天だった。


 ブラウエは日常生活で用事のある施設がすべて宮殿から徒歩圏内にあるし、遠出する時は馬車に乗らされる。令嬢は一人で長距離移動することはない。ましてや単独での乗馬などありえない。


 そんな日常から抜け出して、馬と一体感を得ながら行動することに大いなる喜びを感じる。


 ザイツェタルク騎士を乗せることに慣れた馬は、賢くて素直だ。初対面のレオにも従順で、何にも煩わされることはなかった。


 しかも、行き先は城から見えたあの大きな湖である。鬱蒼と木々がい茂る山の中の湖だ。


 ザイツェタルクの美しいところを抜粋したようなところだ。


 頬に触れる風は冷たかったが、ジークがコートと手袋を貸してくれたので耐えられぬほどではない。むしろ、ザイツェタルクの冴え渡る清浄な空気を感じられてとても快い。


 ジークと馬たち、二人と二頭で山道を登る。


 グリュンネンは街の中も坂道が多かったが、街を出ると市壁の向こう側はそのまま山である。舗装もされておらず、ほぼ剥き出しの土だ。馬たちががんばってくれなければ途中で音を上げていたかもしれない。


 山道の左右は黒々とした針葉樹だ。ノイシュティールンは広葉樹が多いので、これだけでも興味深い。川を一週間さかのぼっただけで植生がここまで変わるのか。


 時々後ろを振り向く。石畳とスレートの都が遠くなっていく。天をつく大聖堂の尖塔だけはどこまで行っても識別できる。


 ユーバー川はもうレオが知っているそれとはまったく異なる姿をしていた。川底の岩にぶつかった水が白い飛沫しぶきをあげている。この荒々しさは、とてもではないが、ノイシュティールンに恵みをもたらす母なるユーバー川と同一の川には見えない。


 この間ジークはずっと無言だったが、レオはあまり気にならなかった。周囲の景色に興奮していたからだろう。末っ子のレオはどちらかといえば無言の相手に気を遣って一生懸命しゃべるタイプだったので、無理をせずにただただ周りを見ていても許される、というのはありがたいことだった。


 そのうち、小さな街にたどりついた。もうずいぶんと川幅の狭くなったユーバー川の左右の岸辺に、石畳の街が作られている。白い漆喰の壁に黒い梁が浮かんでいるように見える建築様式の家が並ぶ。


 ここに至って、レオは少し緊張した。


 人が外を歩いていない。ぞっとするほど静かだ。これが冬になるということなのだろうか。


「静かだな」


 あまり大きくない声でジークに話し掛けた。

 ジークは淡々としていた。


「先の戦争で人口が減ったからな」

「住民が亡くなったのか? ここでも戦闘があったのか」

「いや、ここでは何も起こらなかった。グリュンネン防衛のために若い男を徴集した。あと、オグズ人はオグズ帝国に引き揚げていった。人手不足でどこの家も忙しいんだろう」


 戦争とは、戦場になることだけを言うのではないのだ。レオはそれを目の当たりにして黙った。


 今度は気まずくなって、何も言わずにただ前だけを見る。


 ジークの後をついていく。

 周りの男たちが大きすぎるせいでどうも小柄に見えてしまいがちだが、こうして見ているとジークも案外肩幅が広くて背中ががっちりしている。鍛えているのかもしれない。騎士の国ザイツェタルクの王だから当然か。


 そういえば、街の中に入ったのに、民衆が王を歓待する様子が見られない。

 フレットが他の都市を訪問する時は沿道に人が並んでノイシュティールン国旗を振るものだが、ザイツェタルク王はそういうことをしないらしい。

 少しは挨拶に出てきてくれてもいいような気もするのに、戦争はそれすらできないほど日常を破壊するのか。

 レオもザイツェタルクの一般市民と交流してみたいが、機会はしばらく巡ってこないかもしれない。


 この街は市壁に囲われているわけではないらしい。さらに坂をのぼっていくと、建物の密度が少しずつさがっていって、眼前に広い湖面が見えてきた。


 神秘的な光景だった。透明な水があっちこっちにうねりながら川のほうへ向かって流れていく。波が岸辺に押し寄せてくる。岸辺は細かい砂になっていて、灰色の小石が水の中をころころと転がっていた。


「到着だ」


 そう言ってジークが馬からおりた。手綱を引いてどこかへ歩いていこうとする。レオも慌てて馬からおりて、馬の首に頬擦りをして「ありがとう」と言ってから手綱を引いた。


「待ってくれ」


 ジークの目線の先をたどると、そこに小屋があった。丸太を組んで作られた小屋だ。


 彼はその小屋の裏の木に手綱をぐるぐると巻きつけた。レオも彼に倣ってそうした。


 レオを待たずに小屋の扉をノックする。


 小屋の扉が内から開いて、ひげ面の大男が姿を見せた。ウールのシャツに革のベストを合わせている。


「おや、ジークじゃないか。久しぶりだな。もう来ないかと思ってたぞ」


 男は朗らかな笑顔でジークに腕を伸ばしたが、それに対してジークが抱擁を返すことはしなかった。男は苦笑して腕を下ろした。


「今日はグルーマン家の犬ころどもは一緒じゃないのか?」

「連れてこなかった。代わりに客を一人連れてきた」


 ジークがこちらを向いた。男もこちらを見た。レオは反射的に微笑んで会釈をした。


「またえらい美少年だな」


 男に見えるのだろうか。

 女には見えないのだろうか。

 かえって嬉しい。

 美しいことと女性的であることは必ずしも同じことではないのだ。


「オットー様の隠し子か?」

「そうだったらよかったんだが、残念ながらノイシュティールンから父上の葬式に駆けつけてくれたの国の偉い人の妹君だ。名前をエレオノーラ嬢という」

「なんだ、女の子だったのか。こりゃ失礼」


 男がこうべを垂れたので、レオは手を振って「お気になさらず」と言った。正体が露見してしまったと思うとがっかりだ。


「わしはこの釣り小屋の主ですわ。高貴なご令嬢にご挨拶するほどの身分の者じゃございません、ぶしつけで申し訳ございませんね」

「とんでもないです。突然押しかけてしまってこちらこそ申し訳ありません」

「どうせジークがろくに行き先も言わずに連れてきたんでしょう。ちゃんとしたご令嬢をお連れするんだったら、ちゃんとしたお供もつけないと。いるだろう、ほら、リヒャルトとかガービィとか――」


 そして緑の瞳を曇らせた。


「ミーヒャが死んだんだったな」


 レオの知らない誰かが亡くなっているようだ。それも戦争の影響だろうか。ザイツェタルクのそこかしこに戦争の爪痕が残っている。


「舟を出せないか」


 ジークがそう言うと、釣り小屋の主は我に返った顔で頷いた。


「ご令嬢と釣りかね」

「こんなところ、他に何かすることあるか?」

「別に構わんが、お前、会話はもつのか? 普段はよくしゃべる幼馴染たちとばっかりだったから、お前がしゃべらなくてももってたが」

「だからと言っておっさんについてきてもらうのもな。気を遣うだろうが」

「お前とは気を遣わないほど親しい仲になったのか?」


 男の問い掛けにジークは黙った。レオはかなり困ったが、他にどうしようもないので適当に「大丈夫です」と言っておいた。


「まあ、お嬢さんがそう言うんなら、準備しましょうか」

「よろしくお願いします」


 それに、釣り、という行為にも興味を持った。双子と海で釣りをしたことがあるが、舟を出して淡水魚を、というのは生まれて初めての活動だ。魚は怖くない。楽しみだ。


 釣り小屋の主が舟と釣り道具を用意してくれている間、ジークとレオはぼんやり岸辺で遠く湖の向こうのほうを眺めていた。


 ジークの寡黙さにだんだん慣れてきた気がする。

 べつに怒っているわけではないのなら結構だ。逆に、レオがしゃべれば適当に返事をしてくれるのだから、そんなに気にするほどではない。こういうやつは、たまにいる。


 そんなことより、舟を出して釣りだ。

 心は弾み、胸は躍る。

 来てよかった。


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