第7話 ザイツェタルクのいいところと言えば?

 グリュンネン城の古い石造りの建築物は重厚感があり、歴史が好きなレオはザイツェタルク三百年の歴史を思って興奮している。


 ノイシュティールンのご令嬢のため、と言ってつけられたザイツェタルク民のお目付役の女性に、城の案内を頼んだ。彼女はあまり愛想のない女性だったが、食堂の暖炉のタイル、礼拝堂のステンドグラス、暖気を逃さないための小さな窓やそのすぐ近くの腰掛けで吟遊詩人が愛の歌を歌った話など、なかなか興味深いことを聞かせてもらった。


 玄関にたどりつき、天井から下がっている防火用のバケツの話をしていた時のことだった。


「何をしているんだ?」


 玄関の奥、地下室に続く階段を、一人の青年があがってきた。

 さらさらの黒い髪に紫の瞳、少し濃い肌の色の彼はザイツェタルク王ジギスムントだ。

 彼はお供を連れていなかった。しかも、木綿のシャツの上にウールのセーターを着たラフな恰好だ。まったく王らしく見えない。ノイシュティールンではよくいる豪農の息子くらいの雰囲気だ。


 お目付役の女は軽く頭を下げたが、目を合わせようとはしなかった。口も利かない。本当に高貴な身分の者への対応とはこんなものだろうか。


 ノイシュティールンではみんな気軽に挨拶をするし、話しかけてきて世間話をすることもある。しかも、一部の市民はフレットやレオを愛称で呼んでいて、敬称をつけない。もとは商家の大公家はそんなに上の身分ではなかった。


 ノイシュティールンは良くも悪くも身分や職業の上下がない。その分侮られていると思わなくもないが、兄は風通しがいいと言ってこれをよしとしている。生まれた時からそういう風潮に慣れたレオは、今、ザイツェタルクの厳格な身分制を目の当たりにして困惑している。


 ジークに話しかけられた。


 兄がいないところで会話をするのは初めてだ。レオは緊張した。

 背筋を正し、軽く胸を張ってから、ドレスの裾を摘んだ。腰から角度をつけて頭を下げる。完璧な淑女の礼である。


 今度こそ、ちゃんとした令嬢として振る舞わなければならない。


 相手は、ザイツェタルク王だ。


「グリュンネン城の内部を案内していただいております。ザイツェタルクの歴史に興味がございまして、勉強させていただければと思っているのです」

「そうか」

「ザイツェタルクの歴史はすばらしいですね。三百年も、いえ建国以前から人がいたことを考えると、何百年、何千年という歳月の伝統があるのですから」

「そうだな」


 そこで会話が途切れた。


 それだけか、と言いたくなるのをこらえた。


 話を切り替える。


「陛下は何をなさっておいでだったのですか?」

「地下の小麦粉の貯蔵庫を見てきた。この前の戦争でほとんどの糧食を使ってしまったので、城の人間がこの冬を越えられそうかと思って」

「まあ、ご立派ですのね。そういう計算を自らなさるのは、君主の重要な務めだと存じます。数字に疎いようでは国を切り盛りできませんのよ。兄も税などは税務官に丸投げせず自ら台帳を取り寄せて確認するようにしていますわ。ザイツェタルクではどうかしら?」

「はあ……そこまでは……」

「あら、そうですか……」

「ああ……」


 また会話が終わった。


 よほど話し下手らしい。


 このままだと永遠にレオが一人でしゃべらないといけなくなる気がする。気まずい。


 何の話題なら食いついてくるのだろう。あるいはもう切り上げてしまったほうがいいのではないか。


 悩み始めたレオに、ジークがこんなことを言った。


「寒くないか」


 レオはまたたいた。


「そう……、ちょっと、寒いですね」


 グリュンネンは底冷えする。湿度の高い、足元から冷気が這い寄ってくるような寒さだった。

 しかも自分は今ドレス姿だ。ペチコートとタイツで武装しているとはいえ、足首のあたりが少し頼りない。袖もシフォンの生地で腕を守り切れていない。


「無理してドレスを着ないほうがいい」


 その言葉が、レオの中にすんなり入ってきた。


「ザイツェタルクでは女もズボンをはいてウールの上着を着る。お前もそういう恰好が男みたいで嫌だというのでない限りは――」

「着る」


 食い気味に言った。


 もしかしたら、自分の好みの服装ができるかもしれない。


 ザイツェタルクの人に許されて、ザイツェタルクで自分らしい服装ができるかもしれない。


「そういう服装が許されるのなら、着たい」


 ジークは何の感動もない声で「そうか」と言った。


「俺の服を貸そうか?」


 視界が開けたような気がした。


「身長はそんなに変わらないだろう? いや、俺のほうがちょっと大きいけどな。ちょっと。いや、まあ、かなり」

「ジークがいいならそれがいい」

「グルーマン兄弟のお古も多いが――ザイツェタルク王室は本当に金がなくて。昔から貧乏ではあったが、この前の戦争で使い果たしてしまって。着回しの服なんかノイシュティールンの大公令嬢にふさわしくないかもしれないが」

「問題ない。普段から兄や双子のおさがりばかりなのだから」


 興奮しているレオの様子に、ジークはあまり深く突っ込まなかった。


「じゃ、こっちに来い」


 そう言うと、彼は今度は階段をのぼり始めた。レオは小走りでそのあとをついていった。




 ジークの服は彼の言うとおり少々大きかったが、手首や足首が軽く隠れる程度だったので、そこまで不恰好でもなかった。

 先ほどのお目付役の女性に脱ぐのだけ手伝ってもらって、後は自分でジークの服を着た。

 男物の服は着やすくて助かる。一人で着脱できる。それだけで解放感、高揚感を覚えた。


「じゃーん!」


 男装のレオを見ても、ジークは特に動じなかった。


「着慣れてるんだな」

「実は地元では兄のおさがりばかり着ていて」

「安上がりでいいな。女はとにかく金がかかるイメージだった。グルーマン姉妹を見ていると目眩がする」

「ぼ――わたしは金も手間もかからない女ですわよ」

「そう」


 ジークが遠くを見た。急に目線を逸らされたので何かあったのかと思ったが、彼は何気なく窓の外を見たらしい。


 窓の外には青い山脈があった。雪を冠した姿は優美で、まるで絵画のようだった。


「ザイツェタルクの三百年の歴史、か」


 ジークが呟く。


「歴史なんて大しておもしろくもないが――ツェントルムも似たようなものだし」


 わざわざ大学に行ってまで歴史の勉強をしているレオは苛立ったが、次のジークの言葉を聞いた時、ころっと態度を変えることになった。


「ツェントルムと比べて、ザイツェタルクの数少ない長所といえば、自然かもな。山とか、川とか、湖とか。子供の頃グルーマン兄弟と遊んだそういうようなところなら、俺も案内してやれなくもない」

「行く!」


 レオはまた食い気味に言った。


「雪が見たかったのだ。ザイツェタルクの山を感じたい!」


 ジークが少しだけ表情をやわらげる。


「この季節は山登りはもうできないぞ。麓の村に行って軽めのハイキングをして戻ってくるだけだ」

「それでもいい、行きたい。ノイシュティールンは山がないのだ、どこまで行っても平地で低地なのだ」

「はあ。じゃあ、まあ、ちょっと行くか」


 そこで、彼が「あ」と小さく呟いた。


「いや、だめだ」


 レオは薄く口を開けた。


「どうして? ここまで期待させておきながら」

「馬車を用意できない。山道を通ることになるからな」

「僕は歩ける」

「俺なら馬に乗る」


 憤慨して「僕も馬に乗る」と叫んだ。


「乗馬できるのか?」

「できるとも。見ていろ、僕の腕を披露してやるからな」


 ジークが溜息をついた。


「お前、ちょっと変わってるな」

「え?」

「まあ、別に、いいか。せっかくだから、俺も気分転換したいし」


 レオは自分の顔に笑みが広がっていくのを感じた。


「行こう、行こう!」

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