第4話 そんな感じに見えないような振る舞いをひとは品性と呼ぶ

 ブラウエからツェントルムまではユーバー川をさかのぼる旅だ。流れに逆らって進むため、旅程は少しのんびりしたものになる。といってもだいたい丸二日程度でつくので、一昨日の朝にブラウエ港を出て本日夕方ツェントルムの川辺の港に到着した。


 ツェントルムからザイツェタルク首都グリュンネンには、船で二日と馬で二日、合計三泊四日ほどかかるのだそうだ。上流に近づくにつれて川が浅くなるので、一般の客船は途中からあがれなくなるらしい。帰りは流れに沿ってくだってくるので、もう少し短縮されるとのことだ。


 この三泊四日の旅を、ディートリヒとツェツィーリエと過ごさねばならなくなった。


 気が重い。


 レオはこの親子が苦手だった。ツェントルムとノイシュティールンで離れて暮らせてよかったと思ってしまうほどだ。極力会いたくない。

 けれどレオももう十八で、中央の人間の顔色も窺えるようにならなければならない。

 レオも政治の場に出てもおかしくないように淑女らしい愛想笑いを身につけなければならないのだ。


 船着場近く、ノイシュティールン出身の商人が構えた豪華な客室をもつ商館で、ディートリヒとツェツィーリエと合流することになった。


 応接ホールの窓からぼんやり港を出入りする船を見ていると、後ろから声を掛けられた。


「ご機嫌よう、レオ」


 そこに例の親子が立っていた。


 ツェツィーリエはライトグレイの生地に控えめなレースのドレスを着ていた。季節柄か肌の露出は少ない。だが曲線美を惜しみなく見せつけるマーメイド型だ。


 レオも今はドレスを着ているが、首元まで隠す高い襟、手首より少し長い袖、腰から下はたっぷりと膨らんだ形で、極力体の線が出ないようにしている。

 自分の肉体が女であることと向き合いたくない。


 いつも長靴下とズボンでかっちりと武装しているので、スカートの下が少し心許ない。何枚も重ねたペチコートのおかげでドロワーズのあたりまでは寒くはなかったが、足首のあたりがなんとも不安だった。


「さっそくで申し訳ないけれど、フレットと大事な内緒話があるから、レオはディートリヒとおしゃべりしていてくれる?」


 背筋が、ぞわり、とした。


 しかしレオに拒否権はない。


「ええ、いってらっしゃい」


 レオがそう言うと、ツェツィーリエはつやっぽく微笑んでから出ていった。


 ディートリヒと二人きりになる。


 今日の彼は白を基調として紫の差し色が入った服を着ていた。襟のあるジャケットに絹のブラウス、ウールのベスト、半ズボンに長靴下だ。普段着のレオとそう変わらない、高貴な家庭の子弟としての少年の姿だった。


「レオ」


 彼はにこりともせず近づいてきた。


 距離が縮まる。


 一歩引く。


 彼は無意識のうちに逃げようとするレオのすぐそばまで来てから、強引にレオの手を取った。


 そして、にたりと笑った。


「綺麗だよ、レオ」


 たかだかそれだけの言葉が、こんなにも気持ちが悪い。


「露出が少ないのがかえっていやらしいね。ドレスの下の肌に想いを巡らせてしまう」

「そんなつもりではない、ただ肌を隠したいだけで」


 ディートリヒの指が、服の袖の中に入ってきた。


 いつまでも子供だと思っていたディートリヒの手がいつの間にか大きくなって、大人の男を連想させるものに変貌しつつある。


 彼の手が、レオの手首の内側を這う。


「いいね。特別に選ばれた男だけが見ることのできる隠された柔肌」


 もう片方の手も、腰のほうへ伸びてくる。

 大きな手のまだ細い指が、腰に絡みつく。


「もっとそういう恰好をしなよ。いつものも倒錯的で好きだけど、僕はこちらのほうが好みだな」


 碧い目が、ぎらぎらと、輝いている。


 逃げ出したい。


 どうやって逃げよう。


 こういう時にうまくかわせない自分が恥ずかしい。


 頭の回転の速い貴族令嬢ならどうやって切り抜けるだろうか。


 相手は一応皇子だ。下手を打って話をこじらせるのはよくない。


 大きな手が尻へと伸びていく。


 怖い。


 その時だった。


「レオ、いるか?」


 若い男の声が扉の向こうから聞こえてきた。双子のどちらかだ。ちょっとぶっきらぼうなところからしてたぶんアーデルだ。


 レオは急いで「いる、入ってきてくれ」と返した。


 扉が開いた。


 助かった。


 入ってきたのは黒髪に金の瞳の美しい男だった。ライトグレーのズボンに臙脂のコートを羽織っている。臙脂ということはやはりアーデルハルトのほうだ。


 アーデルはディートリヒを一瞥した。ディートリヒはアーデルをにらみつけた。


「商会の会長の夫人がレオにも挨拶したいと言っている。来るか?」


 令嬢として社交の場に出るのは不安だったが、ディートリヒと二人きりよりははるかにいい。レオは明るく元気を装って「行く行く」と答えた。


 ディートリヒが舌打ちをした。レオから離れ、扉のほうへ向かう。アーデルとすれ違うようにしてホールから出ようとする。


「殿下、どちらへ?」


 アーデルが少し冷めた声で訊ねた。ディートリヒは「お前に告げる筋合いはない」と冷たく言い放った。


「あまりおいたが過ぎるとお母上様にご報告しなければなりません」

「何がおいただ。従姉殿と少しおしゃべりをしていただけなのに。それも母上の言いつけどおりに」

「ご不満なら何でもフレットにどうぞ。なんなら俺が聞きましょうか?」


 ディートリヒは振り返らずに部屋を出ていった。


 アーデルがこちらに歩み寄ってきた。

 レオは肩から力を抜いた。


「助かった。ありがとう、アーデル」

「いや、ツェツィーリエ様に皇子とレオを二人きりにしてきたと聞いて、嫌な予感がしてな」

「エーレンは?」

「ツェツィーリエ様の護衛だ。あいつ、女と剣の扱いはうまいから」


 窓と窓の間にある壁に背をつけ、深呼吸をした。アーデルはそのそばまで来たが、ディートリヒと違って必要以上に迫ってくることはなかった。近いながらも、節度のある距離感だ。


 双子は距離感の取り方がうまい。いつでもそばにいてくれているような気がするし、それでもあまり深くは立ち入らないでくれる。


「あのガキ、十四になってさらに磨きがかかってきたな」


 アーデルの言葉に、レオは深く頷いた。


 ディートリヒがレオに執着しているのは昔からのことだった。しかし小さい頃はなついてくれているという程度のことしか考えていなかった。周りの誰もが親戚のお姉さんにまとわりつく甘えん坊で寂しがりの皇子様を好意的に見ていたのだ。


 だが、成長するにつれて、彼がレオを性的な目で見ているのが明らかになってくる。


 子供に性欲がないというのは嘘だ。レオは数年前からディートリヒに服をめくられたり足に触られたりしていた。不快だがどう断ればいいのかわからない。


 三年ほど前、レオが十五歳でディートリヒが十一歳の時、エヴァンジェリンに相談したことがある。親であるツェツィーリエには言いにくかったので、伯母であるエヴァンジェリンからなんとか言ってほしいと思ったのだ。


 しかしエヴァンジェリンはレオの期待を裏切った。


 ――まあ、いいではありませんか。あなたが好きだということですよ、わたくしの愛。あなたたちは従姉弟同士で結婚できるのですから、うんと気に入られてそのまま次期帝妃になっておしまいなさい。


 それ以来エヴァンジェリンには何も言っていない。


 レオに救いの手を差し伸べたのはやはりフレットだ。


 ――叔母上からの抑圧で人格がゆがんでいるのだろう。しかしだからといってひとにぶつけて発散しようとするのはけしからん。お前たちが二人きりにならないよう取り計らおう。ツェントルムに行く時は極力私か双子といるように。


 フレットの言葉がすべてだ。ディートリヒはツェツィーリエに権力の道具にされた可哀想な子供だが、そうであってもレオがその受け皿になる必要はないのだ。


「あいつもいい加減自分で自分のコントロールの仕方を学ぶべきだ」


 アーデルが呆れた顔で言う。


「同じ男として十代の少年というものはと思うと同情するところもなくはないが、そこを制御するのが理性であり人間性だからな。早急になんとかしないとルートヴィヒの二の舞になりかねないので、フレットもどうにか矯正してやろうと思っているようだが、そのためには今のディートリヒを全肯定しているツェツィーリエ様とも対決しなければならないし、なかなか一筋縄ではいかない」


 レオはちょっと笑った。


「不思議な感じだ。アーデルにも十代の少年だった頃にはそういう欲求があったのか?」

「当たり前だ。今だってうまくコントロールできるようになっただけで皆無というわけじゃない。もちろんエーレンもだ」

「ぜんぜんそんな感じに見えない、双子をそんなふうに思ったことなんか一度もない」

「そんな感じに見えないような振る舞いをひとは品性と呼ぶ」


 ファウンター家はレオの祖父が起こした商会に丁稚奉公でっちぼうこうで来ていた男の子孫だ。高貴でも何でもない。だからこそかえって気品にこだわり、上品に振る舞うのである。今でこそレオの父親経由で男爵の位を賜ったが、商家の貧しい使用人だった頃の魂を忘れていないのだ。


「気をつけろよ」


 アーデルが真面目くさった顔で言う。


「年頃の女だというだけでナメた態度で接してくる人間はごまんといる。俺たちやフレットの目の届く範囲だったら守ってやれるが、お前ももう少し警戒したほうがいい」


 レオは溜息をついた。

 好きこのんで女に生まれたわけではないのに、この肉体のせいで苦労をする。


「訂正」


 顔を上げ、アーデルを見た。

 今度、アーデルはちょっと笑っていた。


「お前ほど可愛かったら男でも危ない目に遭うかもしれないな」


 レオはなんだかおかしくなって、笑いながらアーデルの腕を叩いた。


「そうだ。すべては僕が可愛くて美しいからいけないのだ」

「そういうことだ。充分に気をつけろ」

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