第3話 会話することができなかった思い出
公都ブラウエはだいたいいつも晴れだ。太陽の国ノイシュティールンには日光がさんさんと降り注ぐ。海から吹きつける湿度の高い風はノイシュティールンを通り過ぎて南下し、ザイツェタルクの高山にぶつかってグリュンネンに雪を降らせると聞いた。
ブラウエは今日も快晴で、しっとりとした風が吹き渡っていた。
しかし空気が湿ってくると、秋も深まってきた、とは思う。真冬になれば雪も、積もらないのだが、まったく降らないわけではない。今日のレオは長ズボンにジャケットを羽織って大学まで出てきた。
ブラウエ大学は公都ブラウエの中心から少し離れた西側にある。
広大な公園のような土地に七棟の煉瓦造りの建物が建っていて、世界各地から集まってきた学問の徒が思い思いに勉強をしている。
神学、哲学、数学、基本的に何でもやっていいことになっているが、ブラウエ大学でもっとも有名なのは医学だろう。気候のいいブラウエでの療養を求める人々を相手に発展してきた医学は、今やロイデン最先端の科学技術を探究していた。
だが、レオは血や臓物が苦手だ。そのためマイペースに史料を読んでちんたらちんたら歴史学をやっていた。歴史をやるのに必要なので、哲学や神学もやっている。南方の宗教思想がおもしろくて、最近はオグズ人の神話や民話などを研究している。
レオがオグズ神話に興味を持っていることを知ると、オグズ人の学生たちが群がってきて、うちの親類縁者がどうこうという話を聞かせてくれる。
今日一緒にランチを食べているケマルとイェルケルも、オグズ研究に協力してくれる仲間だ。二人とも物心がついた時からノイシュティールンに住んでいるが、ルーツはオグズ帝国にあるのだそうだ。
「ザイツェタルクとかいうクソみたいなところ、そんなに楽しみにするほどのものか?」
スープを飲みながらケマルが言う。彼は根は善良だが、たまにちょっと物騒なことを言う。端的に言うと口が悪い。
「言わなかったか、俺の親は赤ん坊の俺を抱えて命からがらザイツェタルクから逃げてきたという話」
「聞いたことはあるけど……」
「何が三百年の名門だ。オグズ人の労働力を搾取して命脈をつないでいる斜陽の国家、今や貧乏二流国だ。今回の戦争だってヴァランダン騎士団が出動しなかったらグリュンネンは陥落していたと思うぜ」
ケマルはザイツェタルク生まれらしい。両親が二十年前のオグズ帝国とザイツェタルクの戦争の結果捕虜としてザイツェタルクに抑留されていたそうで、彼らは今でも時々当時の奴隷労働を振り返っては恨み言を吐くようなのだ。
ケマルの両親は、ノイシュティールンに逃亡したあと、ブラウエ近郊の農園に家族で身を寄せて働き始めた。農作業はきつかったが、農園主はこの一家に一日三食と定期的な休息を与え、子供みんなに教会付属の手習い所に通うことを許してくれた。親二人はそのおかげで五人の子供を無事に育て上げることができたと考えており、農園主にとても感謝している。そして、子供がみんな巣立った今もその農園で働いていて、ケマルに時々仕送りをしてくれている。
ケマルの家族のようなパターンでノイシュティールンで暮らすオグズ人は多い。
宮廷から下町までいろんなところにオグズ人がいて、多くは黒髪に紫の瞳でありながらロイデン風の服装をしてロイデン語を話して生活している。金持ちも貧乏人もいて、それぞれに意見があるようだが、みんなおおむね生活に満足しているのか、ザイツェタルクで頻発するような反乱は聞いたことがない。
「でも、いい経験なんじゃないかな」
そう言って微笑むのはイェルケルだ。彼は冷静沈着で、おっとりしていてあまり怒らない。
彼もケマルの一家と同じような経緯でノイシュティールンにやってきた家庭の人間で、両親は今もユーバー川の河畔のワイン工房で働いている。
ワインはロイデン帝国内では温暖なノイシュティールンとツェントルムの一部でしか作られていない。国内生産のワインは外国から輸入するワインより安価だ。したがってよく売れる。葡萄農家やワイン工房は比較的豊かだ。彼も子供の頃はワイン作りを手伝っていたはずだが、なんとはなしに気品があった。
「だって、ザイツェタルクも代替わりなんでしょう? 次の王はジギスムント王子、オグズ人とのダブルだ。母親がオグズ人で、彼も瞳の色が紫らしいじゃないか。時代の潮流が変わる予感がしない?」
イェルケルのそんなポジティブな意見に、ケマルが「そんなわけがないだろう」と悪態をつく。
「ザイツェタルクの国内もふたつの派閥に割れていると聞いたぞ。親オグズ派、反オグズ派」
「ジギスムント王の采配次第じゃないか。どんな青年なのかは知らないけど」
レオの脳内に、ツェントルムの宮殿で会った青年の姿が浮かんだ。
特別小柄だというわけでもないのだろうが、特別高身長の兄や双子と比べると背が低く、大きな目も相まって少々幼く見えた。
まっすぐの黒髪は目にかかるほど伸ばしていて、隙間から見える目は紫色をしていた。
厚い唇、筋張った首や手はそれなりに色気があるように感じた。
だが何よりも、一切笑わないことが気に掛かった。
冷たい紫の瞳は黙して何も語らず、唇は引き結ばれたまま、自分から話をしようとはしない。
内側に閉じこもったままの、重苦しい空気をまとっていた。
そんな態度で、寂しくないのだろうか。むなしくないのだろうか。悲しくないのだろうか。
「ツェントルムで会った」
「どうだった? 賢そうだった?」
「暗かった」
「……それは、ザイツェタルクの将来が不安だね」
しかしレオもあまりひとのことは言えない。
レオはジークに話しかけることができなかった。
女物のドレスを着ていたからだ。
ああいう服装をして、令嬢として、公女エレオノーラとしての振る舞いを求められると、レオは硬直してしまう。自分の心が
自分が死んでしまうのではないかと思うほど、寒さを感じる。
レオは話しかけられることが恐ろしくて、ジークに対して無愛想に振る舞ってしまった。
お姫様であることを求められたくなかった。
第一印象が悪いかもしれない。ちょっと不安になる。
「先のオグズ帝国との戦争でもなんとなく丸く収まったと聞いたよ。ユーバー川を行き来するオグズ人が増えると。我々もさらに生きやすく自由になるかもしれないね」
「戦争は戦争だ。大勢の犠牲の上になされたものだ」
「だからこそ、得るものがないよりはうまくいったと思えるほうが、死んだ者たちも浮かばれるのでは?」
「戦争反対! 戦争をしないための闘争が必要だ」
「それは矛盾していないかな」
「我々の父祖がどういう目にあったのか忘れたのか」
レオは「あー」と声を上げて両手で両耳を押さえた。
「大きな声を出すな。頭が痛くなる」
二人が「ごめん、ごめん」と苦笑した。
「見つけた!」
不意に後ろから肩をつかまれた。驚いて「わっ」と叫びながら振り向くと、そこに黒髪で金の瞳をした青年が立っていた。白い滑らかな頬には若い男らしい脂ぎった感じはないが、胸板は厚く肩はがっしりしている。
彼は紺色のジャケットに同色のタイを合わせていた。
「おっ、出たな、エーレンハルト・ファウンター」
ケマルがそう言うと、彼、エーレンがにっこり笑った。
「レオを捜していたんだ。今日は午前中に講義があって午後は特に予定がないと聞いていたから迎えに来たんだよ」
「相方は?」
「エヴァ様のお買い物に付き合ってそろばんを弾いてる。彼はそういう事務処理は得意中の得意だからね。僕はだめだね、エヴァ様の新しいドレスを似合います美しいですと褒めるのは得意なんだけど」
「役に立たねえ男だ」
「ファウンター家はアーデル一人いれば安泰だ。僕は気ままに生きるさ」
そうは言ってもこの男は双子の兄であるアーデルハルトが何よりも誰よりも大好きで、家を出ていくつもりはまったくない。アーデルもこの弟を追い出すつもりはなく、二人でカードゲームをしたりワインを飲んでおしゃべりしたりする時間を大切にしている。
二人には二人だけの閉じた双子の世界がある。二人とも普段は明るく社交的な性格だが、時々ぞっとするほど閉鎖的だ。
この二人は、あかの他人どころか実の親でさえ、見た目では区別がつかない。本人たちも好き好んで似た髪型にするし服の好みも似ているのでなおさらだ。したがってある時フレットが二人に色違いの服を着るよう命令した。赤を基調とした暖色系がアーデル、青を基調とした寒色系がエーレンだ。そのため知り合いは服の色で二人を見分けている。
「街で靴を買って帰ろう。靴屋を呼んで一から作ったら間に合わないからね。たまには既製品の中から好みのものを選ぶといいよ」
「この前ツェントルムに行った時に履いた靴があるだろう? 葬式用の黒いやつ」
「ノイシュティールン公女が何度も同じ靴を履いたらだめだ」
レオは溜息をついた。おしゃれは嫌いではないが、こんなことだから成金国家と言われるのではないか。
こんなノイシュティールンでジークはどう思うだろうか。嫌われていないといい。
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