第3章 公女エレオノーラとその恋にまつわる情報

第1話 がんばればきっとお姫様になれる 1

 教会の鐘の音が鳴った。毎朝の目覚ましの音だ。


 レオは、ベッドの中で、ゆっくりまぶたを持ち上げた。

 長い睫毛を何度か重ね合わせて、視界の焦点が現実に合ったのを確認してから上半身を起こす。

 大きく伸びをする。寝ている間に固まった肩がごりごりと動いた。


 朝が来た。


 ベッドから足を下ろし、室内履きを履いた。


 大きな窓のカーテンを開け放つ。朝の明るい光、爽やかな風が入ってくる。


 ノイシュティールン大公邸であるブラウエ宮殿は、首都ブラウエの中心からやや東に行ったところにある。階層としては二階建てだが、ワンフロアの天井が一般住宅よりも高いので、二階のレオの部屋からは街の中心部を見下ろすことができた。


 赤い屋根瓦の住宅の屋根、白い石畳の広場、教会の尖塔、秋の花々が咲き乱れる花壇、そして遠くに見えるユーバー川の河口に位置していてロイデン海に開けたブラウエ港――世界は何もかも輝いて見える。


 レオはついこの間ツェントルムに連れ出されるまでノイシュティールンを出たことがなかった。ツェントルムの街並みも似たような建築物ばかりだったので、そんなに大きく違っていると思ったわけではない。しかし、たぶん、この世にブラウエほど住みやすい街はないだろう。レオはこの街が大好きだ。


 明るい太陽の光が降り注ぐ、潮の香りがする街ブラウエ――それは世界の中心であるノイシュティールンのさらに中心部で、どこよりもずっと光り輝いている都だ。


 ドアをノックする音が聞こえてきた。


「レオ様」


 いつもの侍女の声だ。この侍女は少し厳しいところがあるので、話しかけられるたびにレオはちょっとだけ緊張してしまう。


「お時間です。起きておいでですか」

「起きている。問題ない」


 ドアが開き、侍女がいかめしい顔を見せる。


「朝のお支度をしましょう」

「自分でできる、出ていってくれ」

「またそのようなわがままを。ご令嬢たるもの、下々の者に仕事を与えるのも務めですよ」

「いいと言ったらいいのだ。兄上にも好きにしていいと言われている。それとも何か、今日は特別な用事でもあるのか?」

「はあ、そういうわけではございません。では、下がらせていただきますよ」

「うむ」


 これは毎朝同じように繰り返されている問答で、ある種の儀式のようなものだった。彼女はレオの性格や言動を詳しく把握している。兄のフレットがレオをどれほど甘やかしているかも熟知している。したがってこのきょうだいが言うことを聞かないのはわかっている。とりあえず一回言ったという実績さえ作れればあとは何もせずに引き下がる。


 侍女が連れてきたメイドが、水を張った金だらいとタオルだけテーブルに置いていった。これで顔を洗えということだ。レオは丁寧に顔を洗い、軽く叩くようにして水を拭くと、鏡台の鏡の前に並べてある化粧水を手に取って肌に塗りたくった。


 ベッドの隣にある扉は衣装部屋につながっている。扉を開け放つと、ふりかけておいた柑橘系の香水の爽やかだがほんのり甘い香りが広がった。


 服を手に取る。生成きなり色の絹のブラウス、膝丈の濃き緋色のベルベットのズボン、膝上まで覆う白い長靴下、革の黒い靴、薄紅色の絹のスカーフ、そして最後に秋用の濃き緋色のジャケットだ。


 一式を持って寝室に戻り、鏡台の前に立った。


 寝巻きをぽいぽいとベッドの上に投げ捨て、下着姿になる。


 ふと大きな鏡を見ると、そこには年頃の美しい娘が立っていた。細く長い首になだらかな肩、まだ未婚の十代の娘なのに豊満すぎる乳房、くびれた腰――その下は角度的に見えないが、レオは今日も少しがっかりした。


 自分が欲しかったのは、こういう肉体ではない。


 きついベストをつけて胸を潰すと、まず絹のブラウスを身につけた。靴下をはき、ズボンに足を通す。そして、襟元にスカーフを巻いて蝶々結びのリボンの形にする。最後に革の靴を履いてジャケットを着ると、裕福な商家のご令息という身なりになった。


 鏡の前で、唇の端を持ち上げてみた。にこりと愛想よく笑う様子に満足した。


「僕は今日も可愛いな」


 大満足だ。


 女の体を見るたびに少し落ち込むけれど、国の宝でありノイシュティールンで一番可愛いレオがいちいち人生を悲観するのはもったいない。




 朝食を取るために食堂へ向かった。

 すでに大勢の使用人たちが並んでいて、揃ってレオに頭を下げ「おはようございます」と挨拶した。レオは笑って「おはよう、早くからありがとう」と返した。


 扉を開けると、大きなテーブルの奥のほうで兄のフレットと母のエヴァンジェリンが待っていた。


「やあ、おはよう、レオ。お前は今日も可愛いね」

「おはよう、わたくしの天使」


 二人がそう言って出迎えてくれたので、レオも弾む足取りで二人に近づいた。兄が当主として奥の一番広い席に座っているので、その斜め隣にいる母の向かいの席に腰を下ろす。


 三人で祈りの形に手を組み合わせた。


「今日も家族皆で飢えることなく食事をとれることを神に感謝します。いただきます」

「感謝します。いただきます」


 それぞれにスープのスプーンやバターナイフを手に取った。


 昔はこの食卓に大勢の人間がついていた。レオが五歳くらいの頃までは、祖母、父、母、兄、そして四人の姉たちと、レオを入れて総勢八人もの家族がいたのだ。

 しかし、祖母と父が病で亡くなり、四人の姉たちがそれぞれ異国に嫁いで、今は半分以下になってしまった。

 一人、二人と減るたびに寂しく思って泣いたものだが、さすがに最近はこの状況に慣れた。


「レオ」


 兄のフレットがパンを一口サイズに千切りながら言う。


「少し髪が伸びたようだ。前髪が目にかかっている。どうするのかね。伸ばすか、理髪師を呼ぶか」


 レオは何の気なしに「理髪師を」と言ったが、母のエヴァンジェリンが「いけません」と言った。


 母のほうを見る。


 母も美しい人だった。大きな碧眼に高い鼻筋、白い頬にはしみもない。ただ、さすがに四十六歳という年齢には抗えないのか、全体的にふっくらとした体つきになってしまっている。肌は滑らかだが、顎の下が少したるんでいた。髪は高く結い上げられており、生来の明るいブロンドに救われて白髪は目立たない。水仕事をしたことのない綺麗で太い指には、亡き夫から贈られたサファイヤの婚約指輪とダイヤモンドの結婚指輪が輝いている。


 このエヴァンジェリンは帝室から嫁いできた女性だ。ルートヴィヒ帝の異母姉、クラウス皇子の同母の姉に当たる。きょうだいの父が莫大な献金をした見返りとしてノイシュティールンへの降嫁を許されたらしい。


 聞くところによると、ノイシュティールンに身売り同然の状態で下げ渡されたと知った直後の少女時代のエヴァンジェリンは、己の身の上を嘆いて毎晩泣き暮らしたそうだ。

 しかしいざブラウエまで来ると、明るい空、暖かい天候、朗らかな人々、おいしい食事、豪華なドレスとアクセサリー、何より見下していた商人の男というイメージとは異なり上品で機知に富んだ美男であった夫に、ころっと態度を翻した。

 こういう現金で俗物的な性格がかえって似たような気質のノイシュティールン民には愛される。

 今となっては彼女も立派なノイシュティールン民だ。しかも大公の子供を六人も産んだ良妻賢母の鑑として民に慕われている。


 ただ、彼女は時々自分の生家の誇りだ品だというものを振りかざす傾向にある。


 昔はちょっと面倒臭いと思う程度のことだったが、娘たちが嫁に行き始めると、皇帝の血を引く娘として、大公の令嬢としての心構えがどうこうと言い始めて、聞いているレオはきつかった。


「髪を伸ばしなさい、レオ」


 今、レオは髪を兄より短いショートヘアにしていた。兄の子分である双子のアーデルとエーレンを意識した髪型だ。


「そんな頭、修道女でもあるまいし、普通の令嬢の髪型ではありませんよ。今からまだ間に合います。もう十八になったのだから、お嫁に行くことを前提に身なりを整えなさい」


 ぐさり、ぐさり、と心に刺さる。


「いつまでもお兄様や双子のおさがりを着て、男の子みたいで困ります。母はあなたが心配です、わたくしの宝物。あなたがお嫁に行った先で苦労するのが嫌なのです」


 母の言うことはもっともだ。すでにレオも十八歳、いい加減嫁ぎ先を決めてもいい頃である。姉たちもみんな十六歳前後で婚約をして十八歳になったら異国に旅立っていった。ノイシュティールン大公家の娘に生まれたレオは同じようにそうすべきなのだ。


 わかっているのに、しっくりこない。



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