第16話 愛に応えるということ

 翌日の昼前のことだ。


 ジークは城の二階広間のバルコニーに立っていた。


 冷たい風が山に向かって吹きつけてきている。上着がないと肌寒い。世界はいつの間にか長い冬に突入しようとしていた。


 寒いと思うのなら早く中に引っ込めばいいのだが、ジークはもう少し城の外の荒野を見張っていなければならなかった。それがザイツェタルク王の務めである気がしたからだ。


 こうしてオグズ軍の完全撤退を見つめることが、今の自分にできる唯一のザイツェタルク騎士団長らしい行動だ。


 誰かに言われたわけではない。ジーク一人が不安を紛らわすためだけの行為だ。これを完遂したからといって騎士ではない自分が騎士団長になれるわけでもない。

 それでも、何か、していたかった。


 屋内から広いホールの床を鳴らす足音が聞こえてきた。声も反響する。


「ここにいたの」


 振り向くと、リヒャルトがこちらに歩み寄ってきているところだった。


「こんなところで何をしているの?」

「オグズ軍の見張り」

「大勢の騎士や兵士がやっているわよ」

「俺の気分の問題だ」

「そう。なら、好きにしたらいいわ」


 そう言いながら、リヒャルトが隣で立ち止まった。背中を丸めて手すり壁に肘をつく。


 遠くでうごめく騎馬軍団を二人でぼんやり眺める。といっても、ここからだと胡麻ごまのような点々が動いているようにしか見えない。誰がどんな様子なのかはまったくわからない。ヌルギュルがどこにいるのかも、ジークは把握していなかった。


 昨夜のヌルギュルのことを思い出した。

 ジークの子供部屋で二人きりで話した時の彼女はなまめかしく、ジークは実は取って食われるのではないかと少し身構えていた。だが、彼女は、話したいことをすべて話すと、そんな夜更けまで滞在することなく出ていってくれた。

 あの女が昼間になると女だてらに甲冑を着て大軍勢を率いるのだから、人間はわからないものだ。


「すごい人だったな」

「誰が?」

「ヌルギュルさん」


 敬称に迷ってそう呼ぶと、リヒャルトが大笑いした。


「器の大きい女よねえ」

「俺、一生頭が上がらないような気がする」

「いい女よ。私はもっと可愛い系が好きだけどね」


 リヒャルトのほうを見た。彼はすぐジークに見られていることに気づいたらしく、そう間を置かずにジークのほうを振り向いた。


「本気で婿に行く気なのか?」

「ええ。約束してしまったもの」


 あまりにもあっさりとした回答だった。


「おもしろそうだからいいんでないの。オグズ語をちょっと勉強しようかな、と思いはするけど、オグズ帝国の上流階級の人間はだいたい三ヵ国語ぐらいできるそうで、ロイデン語でも通じる場面は通じるって。他の誰でもなくヌルギュルがああも流暢にしゃべっていることだしね」

「他に不安なことはないのか」

「特には。冒険の旅に出るうきうきわくわくならあるわ」


 ジークは目を細めてリヒャルトを見つめた。


 悲しい、と思っている自分がいる。


 この感情と正面から取っ組み合うのはきつかった。


 リヒャルトがこんなにひょうひょうとしているのに、自分一人ばかりがやきもきしているのだと思いたくなかった。


 彼がもう少し鬱々とした様子を見せてくれたら、と考えてしまう。


 寂しそうにしてくれたら、と、考えてしまう。


 情けない。


 自分と彼はそこまで感情的な付き合いではない。生まれた時からの知り合いだが、馴れ合ってきたわけではなかった。リヒャルトが求めているのは次期国王の乳兄弟という立場だけで、ジーク個人の人格はそれほど重視していないはずだ。


 わかっているのに、胸中に名状しがたい感情が渦巻く。


 リヒャルトがふと笑った。


「行きたくない、オグズ帝国に行くのが怖い、って泣いたほうがいい?」


 ジークは苦笑いして首を横に振った。


「ザイツェタルク王の乳兄弟よりオグズ帝の父親という肩書きのほうが大きそうだ」

「あら、ザイツェタルク王の乳兄弟でありながらオグズ帝の父親よ」


 勘違いしてしまいそうになる。

 彼もジークと一緒にいられてよかったと思ってくれてはいないかと、期待してしまっている自分がいる。


 そんなわけがない。


 それに、そうであってもそれを表に出すのは政治家として間違っている。


 リヒャルトの言うとおりだ。ヌルギュルはザイツェタルク王室とオグズ帝室が結びつくことに価値があると言っていた。ただの混血児でありオグズ人のことなど微塵も思いやったことのないジークより、よほどロイデン人とオグズ人の架け橋になる。これ以上政治的に価値のあることはない。


「そんなに寂しがらなくても、次のロイデンの皇帝が決まるまではあんたと一緒にいるわよ」


 その言葉がどれだけ心強いか、彼はわかってくれているのだろうか。


「寂しがってはいない。ザイツェタルク民として立派に務めを果たしてくれ」

「はいはい」


 ジークはふたたび遠くを見た。オグズ軍は人数が多いのでそんなに急には動けない。それでも徐々に離れていっている。


「次のロイデンの皇帝か」


 溜息をついた。


「ローデリヒ殿下が亡くなってしまわれて、計画が大幅に狂ってしまった」


 リヒャルトもジークの隣でオグズ軍の動きを見ながら「本当にね」となじるような声で言った。


「ザイツェタルクはゼロから出直しだ。ローデリヒ殿下以外の候補者を立てないと。ザイツェタルクを後ろ盾として必要としてくれて、その分見返りを期待できる候補者を」

「王様っぽいこと言うじゃない」

「新しく候補者を引っ張ってくるのは現実的ではないからな。今いる三人の中で、一番マシなのを選びたい」


 ジークのそんな決意を、リヒャルトは肯定してくれた。


「いいじゃないの。おやりなさい。家臣一同誠心誠意ついてまいります」


 安心したのを隠した。


「で、あんたとしては誰がいい?」

「三人とも思い入れがないんだよな。接点がなくて。誰がどう、という印象がなくて困った」

「そうね、まあ、あんたはこの前の葬式が初めての外遊だったものね。私も皇子様たちとは一対一で会話したことがないから、騎士団のおっさんどもの意見は聞いたほうがよさそうだけど」

「直接顔を合わせて会話できたら、と思う。可能だと思うか」

「もちろん」


 あまりにも簡単に言うので、どうしたものかと思った。けれど次の時、ジークもすぐに納得した。


「オットー陛下の葬儀に呼べばいいじゃない」

「そうか、その手があったか」

「一応四大国の元首が落命したんだから、常識のある人間なら来るでしょう。ローデリヒで開いた穴に潜り込みたいという気持ちもあるに決まっている。普通なら来るわよ」


 しかしそこまで言われると、考えてしまう。


「クラウス皇子に常識があると思うか?」

「クラウス皇子?」

「俺の感覚で言うとクラウス皇子は普通ではないので来ない気がする」


 もう一度、顔を見合わせた。


「お前、ヌルギュルさんにクラウス皇子の話は聞いたか?」

「ヌルギュルから? 彼女、クラウス皇子のことを何か話した? 私は何にも」

「これは共有するならグルーマン一族の中だけにしてもらいたいレベルの国家機密なのでここだけにして欲しいんだが、どうやらオグズ帝国をそそのかしてザイツェタルクに攻め込むきっかけを作ったのはクラウス皇子みたいだぞ」


 珍しくリヒャルトが目を真ん丸にする。リヒャルトクラスの鉄面皮でもこういう顔になる重大事件だということだ。


「はっきり自分が皇子だと明言したわけではないが、クラウスと名乗ったらしい。黒髪碧眼で顔に火傷の痕があるロイデン人の三十代の男性。と、言われると、かなり限られてこないか?」

「どうしてそんなことを? ザイツェタルクが陥落してツェントルムまで攻め込まれたらロイデン帝国が滅亡するじゃない。クラウス皇子は皇帝の座を大事なカール坊やに継がせたいんじゃないの? 坊やだって無事では済まないかもしれないのに」

「そのへんがまったく意味不明だから、俺もこの情報をどう処理したらいいのかわからずにいる」


 手すり壁に頬杖をついた。


「ヴァランダン、助けに来てくれた、と思ったけど、あんまり簡単に信用しないほうがいいんだろうなあ。カールは選ばないでおいたほうがよさそうだ」

「おっしゃるとおりだわ」

「となると、ハインリヒ皇子かディートリヒ皇子だろう? 背後にいるのはクセルニヒとノイシュティールンか」


 また、深い溜息をついた。


「どっちも嫌だな」

「あっはっは」

「笑うところじゃない」


 リヒャルトがジークの背中を叩いた。


「ひとまずディートリヒ皇子と会話できないだろうか。ディートリヒ皇子だけはルートヴィヒ帝の葬式の間一言も発しなかった。どんな奴なのか直接会話をして確かめたい」

「いい兆候だわ。あんたが自分からひとと会話したいだなんて、王様として成長しているのね」


 むっとしたジークが何か言い返す前に、リヒャルトが部屋の中に向かって歩き出した。


「では、さっそくザイツェタルク王オットーの訃報を全国に届けましょう。フリートヘルムはきっと動く。期待して待ちましょうね」


 あの狡猾な男と対峙するはめになるのか、と思うと少し気が重いが、仕方がない。


 このザイツェタルクを守るためだ。


 それが、父の愛に応えるということだ。


 ジークもまた、きびすを返して屋内に戻った。


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