第15話 悪趣味な子供部屋での密談

 その夜、ジークは初めて父オットーが用意した城内の子供部屋で寝ることにした。

 例の、銀のプレートメイルや角のついた鹿の首の剥製が置いてある部屋だ。

 父が妄想した、男の子らしい、騎士の息子らしい少年のための部屋である。

 青いチェック模様の掛け布団の上に転がって鹿を見上げていると、やはり悪趣味だ、と思ってしまうが、父はこの部屋にジークを迎え入れたかったのだ。


 明日以降、ジークは君主として王のための寝室に移る。この部屋は片づける。


 父は、この部屋をひと晩しか使ってもらえなかったことを、悲しむだろうか。


 父自身が使っていた部屋に移るのだから、それはそれで喜んでもらえるかもしれない。


 あの人は、ジークがこうして城にいることを、喜んでいるのだろうか。


 なんだかんだ言って一番愛というものを過信していたのは自分自身かもしれない、とジークは思った。愛を神聖視しているからこそ拒絶感があったのかもしれない。愛をあまりにも美しいものだと思い込んでいたから、それを利用しようとしている人々に嫌悪感があったのかもしれなかった。


 本当は、どこかで信じていたのだろう。


 父はずっとジークを愛してくれていると思っていたし、母もずっと父を愛していたのだと思っていたし、ミーヒャとガービィは夫婦として強く結びついた上で二人ともジークに友愛の気持ちを抱いてくれていると思っていた。


 極めつけはリヒャルトだ。


 彼が自分にきずなを感じているとまで思うほどおごるつもりもなかった。

 だが、オグズ帝国に行ってジークから離れることをそんなに簡単に了承してしまうとは、と思うともやもやする。

 そう思う自分は、傲慢なのではないか。


 寂しいのではないか。


 目の前にあったはずの愛が消えていくのを、寂しく思っている。


 愛などという形のないものにすがっていたからだ。


 忘れたい。


 ドアをノックする音がした。

 上半身を跳ね起こしてドアのほうを見た。


「誰だ」


 問いかけると、「私、私」というリヒャルトの声が聞こえてきた。


「あんたがこの部屋にいると聞いてちょっとびっくりしたけど、まあ場所はどうでもいいのよ、今夜のうちに会話することができれば」

「急ぎの用事か?」

「私じゃなくて彼女がね」

「彼女?」

「ヌルギュルが」


 ぎょっとしてベッドをおり、ドアのほうに駆け寄った。


 ドアを開けると、そこにヌルギュルとリヒャルトが立っていた。


 思わず顔をしかめてしまった。


 シャツにズボンだけの軽装のリヒャルトと、胸元の見える切替のないワンピースと頭に引っ掛けたヴェールというやはり軽装のヌルギュルが、寄り添い合って立っている。


 濃厚な性の香りがした。


 気持ちが悪い。


 夫婦愛と性愛の間にあるものも愛なのだろうか。

 やはり、愛というものはよくわからない。


 ヌルギュルが長くて濃い睫毛をぱちぱちと重ね合わせた。昼間の甲冑姿からは想像できなかったつやっぽい仕草だった。


「夜分にすまない。お前と個人的に一対一で話をしたいと思ってな」


 一対一で、と言われてから、ジークは我に返った。

 彼女はオグズ人の兵士を連れていなかった。ザイツェタルク兵もいない。本当にリヒャルトと二人きりらしく、城の長い廊下は静かで、松明の光に浮かび上がる影はない。


「このたびよしみを結ぶにあたってもう少し仲良くしてやろう。我々は義理の兄弟になるのだからな」


 そう言って、彼女はにっこり微笑んだ。


「私たちは家族だ」


 出た。また家族愛がどうこうというやつだ。前言撤回、やはり理解できない。


「いいじゃない、たまには」


 リヒャルトが言う。


「ちょっと夜更かしするだけよ。おしゃべりだけ。何もいかがわしいことをしようというんじゃない」

「当たり前だ」


 ヌルギュルが一歩、二歩と近づいてくる。

 女の肌がベッドサイドのチェストの上にある蝋燭の明かりに照らし出される。

 彼女はジークの許可を取らず、一人掛けのソファに腰を下ろした。


「座れ」


 どちらが部屋の主なのかという話なのだが、ジークは雰囲気に圧倒されて文句を言わずに彼女の向かいに座った。


「大勢の人に囲まれていると個人的な話ができないからな。政治に関しても、首脳同士の密談で済ませたいことがある」


 ジークは唾を飲んだ。


「個人的な話には興味はないが、政治に関する密談は興味がある」

「そうか、つまらんやつだ」


 リヒャルトが静かに出ていって、外からドアを閉めた。


「私はお前に人生の先輩としてオグズ帝国について語り聞かせてやる義務があると思っていたが、必要ないか」


 心が揺らいだ。

 物心がついた頃からずっとオグズ人は下等な人種だと刷り込まれてきたが、オグズ帝国はザイツェタルクなどよりずっと文明的で自由主義的な国に見えた。ヌルギュルも知性的だ。

 ロイデン帝国より、オグズ帝国のほうが、暮らしやすそうだ。


「その……、もしかしたら少し失礼なことかもしれないが、ちょっと、聞いてもいいか」


 ヌルギュルが「もちろん」と言う。


「人を外見で判断するのはおかしいかもしれないが……事実俺自身もそれで嫌な思いをしてきたのに申し訳ないのだが、教えてほしい」

「どうぞ。嫌なら答えなければいいだけの話だ。若者のあやまちを大目に見てやれる心の広い女なのだと思われたいしな。といっても私も二十五歳でお前とは五歳しか違わないようだが」

「あなたはロイデン人とオグズ人の混血なんじゃないか? 顔立ちに少しロイデン的な特徴があると感じたのだが」

「いかにも」


 あまりにも簡単に肯定する。


「私の母親はロイデン人だ」

「それで嫌な思いをしたことはなかったか?」

「いいや、まったく。オグズ帝国ではオグズ人と異民族の夫婦の間に子供が生まれることは不自然なことではない。ロイデン人に限らず、世界の各地から人間が集まってきている。皇帝スルタンになるには瞳の色が紫であったほうがいいと思われているようだが、それもそんなに規範的なことではないのでいつかみんな忘れるだろう」

「オグズ帝国の上流階級はそうなのか」

「庶民の多くもそうだろうな」


 ジークは細く長く息を吐いた。


「お前は嫌な思いをし続けてきたのだな。可哀想に。ザイツェタルクの人間は保守的すぎる」

「そうだな」

「ザイツェタルクが嫌になったらいつでも玉座を蹴ってオグズ帝国に来るといい。弟として歓迎してやる」


 妙に安心してしまった。

 もし自分がザイツェタルクの王冠を捨てても、行く先はある。

 ひとつ大きな選択肢を得た。

 最悪、投げ捨てても、いい。


 オグズ帝国に行ってもいい。


「一番大切なのは生きること、そして自由であることだ。周りの人間に気兼ねすることはないさ」


 彼女が大きな光に見えた。


 しかし、次に彼女はこんな奇妙なことを言った。


「私が思うに、同じロイデン人の国でもノイシュティールンはもう少し自由主義的で進歩的なように感じるが」

「ノイシュティールン?」


 ジークは眉根を寄せて首を傾げた。


「ノイシュティールンに行ったことがあるのか?」


 ヌルギュルが悪戯そうに笑った。


「私が行ったことはないが、数年前から使節を定期的に行き来させている」


 衝撃だった。

 抜け駆けだ。

 ノイシュティールンが、地理的にザイツェタルクが間に挟まっているというのに、ザイツェタルクを飛び越えてオグズ帝国と結んでいる。


「最近も、半年くらい前にノイシュティールン大公の片腕を名乗る双子の兄弟が現れた。黒い髪に金の瞳の、二人ともまったく同じ顔をしたロイデン人の兄弟だ」


 脳内にすぐフレットの子分を名乗るあの双子の顔が浮かんだ。あんなに特徴的な兄弟はそうそういないだろう。


 ヌルギュルが堂々とソファにふんぞり返って指と指とを組む。


「グルーマン侯爵が、ユーバー川上流を押さえても流域のツェントルムやノイシュティールンは、というようなことを言っていたが、これは我が国からするとすでに解決済みなのだ。ノイシュティールンとはとうに同盟関係なのだから」

「そんな……」

「ノイシュティールンはユーバー川の河口を押さえている。地理的に我々はすでにロイデン海を手に入れているということだ」


 予想だにしなかったことに、ジークは動揺してうつむいた。


「これを機にザイツェタルクとも結べば、ツェントルムを圧倒的な兵の数で挟撃できる。我々の勝ちだな」

「知らなかった」

「教えていなかったのだから当たり前だ」


 そして、彼女は少し低い声で「気をつけろ」と言った。


「直接会ったことはないが、ノイシュティールン大公フリートヘルムという男、たいへん狡猾な知恵者であると見たぞ。大公と渡り合うためにはじっくり準備をしろ」

「はい」


 ジークが素直に頷くと、ヌルギュルがまた呵呵かかと笑った。


「政治的な密談というのは、これのことだったのか」


 そう呟いたジークに、ヌルギュルが言う。


「もうひとつ教えておいたほうがいいと思うことがある。我が国と隣接しているザイツェタルクが滅びれば次は我が国だと思っているので、お前を助けたいからな」

「ありがとうございます」

「だが、これから言う情報はグルーマン一族のような側近とだけ共有してあまりひとに言いふらさないほうがいい。フリートヘルムは内緒話をばらされても痛くもかゆくもないだろうが、こちらについては我々も得体が知れず不気味に思っているので、オグズ帝国上層部だけで処理しておいた」

「いったい何が?」

「我々にロイデンの皇帝が死んで三人の息子が争っていることを伝え、今ならザイツェタルクを滅ぼせるぞと誘惑してきた男がいる」


 背筋にぞわりと鳥肌が立った。


「黒い髪に碧の瞳の、顔に火傷の痕がある男だ。年齢はおそらく三十代だと思う。心当たりはあるか」


 カールの言葉を、思い出した。


「まさか真実を告げているとは思わなかったが。半信半疑だったが、言われるがままに兵を挙げたことでこのようなことになった。ありがたくも恐ろしくもある」

「名は……何と名乗っていた」


 ヌルギュルが、頷いた。


「クラウス」


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