第12話 いつでも引きずり下ろすことのできる王

 礼拝堂のステンドグラスの窓ははめごろしで開けることができない。

 扉を大きく開けて風通しを良くしようと試みてはいるが、寒いザイツェタルクで暖を取れるように設計されたこの建物は気密性が高く、それが裏目に出て内部の空気の入れ替わりが遅い。

 オグズ人の使用人たちを虐殺したあの日から、一週間以上経過した。掃除は一応すでに終わっている。それなのに、まだ血の香りが染みついている気がする。


 インノケンティウスがハンドベルを鳴らした。りん、りん、という単調だが清らかな音が堂の内部に響く。音が空間を浄化し、厳粛な雰囲気を生み出す。

 博愛の精神も清貧の精神もない俗物だが、彼は見た目と動作が完璧な聖職者だった。白い衣装、白い帽子、左腕に抱えた革張りの表紙の聖書、何もかも重厚感ある高身長の初老男性の彼にはよく似合う。


 ジークは、その様子を、一般信徒の座る椅子の前に作られた空間にひざまずいた状態で見つめていた。


 今日、自分は彼から王冠を授けられる。


 正式な王になるのはまだ当分先だ。

 一応形式的にはザイツェタルク王はロイデン皇帝の家臣ということになっているので、ロイデン皇帝の許可がなければ王位につくことができない。

 ジークは今日から王を名乗る予定だが、ロイデン国内の他国が承認しなければいつでも引きずり下ろすことのできる王だった。

 オットーはそうならないようにということも考えてローデリヒを擁立していたのに、とんだ見込み違いだった。


 いつでも引きずり下ろすことのできる王だ。

 すぐ引きずり下ろされるかもしれない。


 ツェントルムで会った人々はザイツェタルク民ほど強くオグズ人を差別しているわけではなさそうで、ジーク本人に直接悪意をぶつけてきたことはなかった。けれど、腹の中ではわからない。


 今、礼拝堂でこの式典に立席している人々も、大半は快く思っていない。


「ジギスムントよ」


 インノケンティウスに名を呼ばれて、ジークは立ち上がった。


 その時だった。


 背中に、こつん、と何か硬いものがぶつかった。


 足元を見ると、小石が転がっていた。


 王冠をかぶる直前に石を投げられる王か。


 これが生卵ではないのは、単に卵が貴重品になったからだ。

 籠城戦が始まってすでに半月以上が経過し、立てこもっている庶民の中には飢えが広がってきていた。貴族たちも節約に努めており、人参の葉も奪い合う状況だ。


 この状況を打破できる王になれる気がしない。


「民を愛し、民を守ると誓えるか」


 インノケンティウスに問われた。


「誓います」


 その場しのぎの、心にもない言葉だった。


「父と子と聖霊の御名みなにおいて祈り続けることを誓うか」


 聖隷教の神などクソ喰らえだ。


「誓います」


 いっそすべてを捨ててオグズ帝国に走ることができればどんなに楽だろう。


 しかし父のオットーがそれを望んでいなかった。


 父に報いなければならない。


 インノケンティウスはそれからいくつか祈りの言葉を捧げた。それらの言葉はジークの右耳から左耳に抜けていって何も心に残らなかった。

 侍従官にふんしたグルーマン家の息子たちが、クッションの上に置いた王冠と王笏おうしゃくを持ってくる。インノケンティウスがそれを手に取る。


こうべを垂れなさい」


 言われるがまま、頭を下げた。

 その頭に、ずしりと、重みがのった。

 首が折れてしまうのではないかと思うほど、重かった。


 拍手も歓声もなかった。誰もが静かに見つめていた。


 その静寂の中に突如轟音が響き渡った。


「何だ?」


 立席者たちがざわめいた。


 直後、また、どん、という音がして、建物が揺れた。


 兵士たちが扉を開け放った。騎士たちが建物から転がり出た。


 グリュンネン城は山の上、切り立った崖の地形を利用して作られた城だ。礼拝堂を出るとそこには煉瓦の手すり壁があり、城郭の中にある三重の城壁を見下ろすことができた。


 一同はそこから城の周りを見下ろした。


 悲鳴が上がった。


 また、どおん、という音がして地面が揺れた。


 王冠をかぶったままのジークも状況を知りたくて礼拝堂を飛び出した。


 城下を見下ろした。


 いつの間にか装備を揃えたらしいオグズ帝国軍が、投石を始めていた。


 城に巨大な石がぶつかって壁が崩れている。


 このままでは城そのものが崩れる。


 壊れた壁の合間、散乱する煉瓦の中を逃げ惑う人々の姿も見られた。よく見るとすでに岩に押し潰されて無惨な姿を晒している遺体もある。


 惨状、としか言いようがなかった。


 飢えより先に、圧死する未来が見えた。


「どうする」


 ケッヘム侯爵がグルーマン侯爵に問いかける。

 グルーマン侯爵は「どうもこうもない」と答えた。その声は落ち着いているように聞こえたが、顔面は血の気を失って蒼白だった。


「打って出るしかあるまい。投石機を破壊するか投石機を操作している者たちを殺すかしない限り城が崩れる。城内に避難しているすべての人間が死ぬぞ」

「打って出たところで勝算はあるのか?」

「ない」


 背中がひやりとした。そして、後からじわじわ絶望感が這い上がってきた。


「だが、このまま何もせずに見ていても遅かれ早かれ死ぬ。どうせ死ぬなら戦ったほうがいいだろう、我々は騎士なのだから」


 グルーマン侯爵の言葉に、みんなが頷いた。

 彼こそまさにザイツェタルクの王だった。

 ジークは王冠をかぶっているだけの人間で、何の力もない。


 何もできない。


 グルーマン侯爵がジークのほうを見た。

 目が合った。


 怖い。


「陛下」


 いつものように、ただ、ジーク、と呼んでほしい。彼が育てた養い子の一人として扱ってほしい。

 そんな日はもう来ない。


「出撃命令を」


 喉が、震える。

 でも、言わなければならない。

 それが、王の務めだ。


「出撃する」


 みんながジークを見ている。


「皆の者、支度をせよ」


 ジークがそう言うと、その場に集まっていた騎士たちが各々おのおの駆け出した。グルーマン侯爵も息子たちの名を呼んで準備するように言った。


 これでよかったのか。


 王になって最初の仕事は勝ち目のない戦に自国の騎士たちを突撃させることだったのか。


 この国は滅びる。


 そう確信したジークに、新たな知らせが入ってきた。


「陛下!」


 遠くを見張っていた若い騎士が叫んだ。


「何者かが近づいてきています!」

「え?」

「何か、軍馬の軍団だと思われる一団が遠く丘の向こうからこちらに迫ってきています!」


 出撃の支度のために散り散りになろうとしていた人々がふたたび集まってきて、手すり壁に手をついて彼が指す遠くを見やった。


 その一団は、猛烈な勢いでこちらに迫り来ていた。土ぼこりを上げ、馬をいななかせて、城のほうにまっすぐ突進してきていた。


「何だあれは」


 誰かのその呟きが聞こえてきた頃、その一団が背負っている軍旗の紋章が見えてきた。


「赤地に黒十字、黄金の太陽」


 ケッヘム侯爵が言った。


「ヴァランダン騎士団……!」


 くれないのマントを翻らせ、白銀のやいばつるぎを輝かせながら、数え切れないほどの大軍勢がこちらに向かってくる。


 ロイデン最強の陸戦部隊、ロイデンの剣、辺境伯領のヴァランダン騎士団。


 彼らはオグズ帝国軍に背後から襲いかかり、帝国軍の戦士たちを蹴散らし始めた。


 投石が止んだ。


「援軍だ」


 ザイツェタルク騎士たちの間に、安堵の息が広がった。


「ヴァランダンが援軍に来てくれたぞ……!」



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