第10話 グリュンネン城の門前にて 2

 視線がオットーに集中した。オットーは苦悶の表情を浮かべて拳を握り締めていた。


 これではオグズ人がザイツェタルク領内を好きに移動できることになってしまう。特にユーバー川を押さえられてしまうというのは地政学的にかなり重い意味がある。通行税も取れなくなるのは痛手だ。


 しかし、雪が降る前に終わらせたいのはザイツェタルク側も一緒だ。


 オットーが顔を上げた。


「……あいわかった」


 ヌルギュルとムスタファが勝ち誇った顔をした。


「すべて要求どおりに――」


 その時だった。


 予想外のことが起こった。


 まさかこんな展開になるとは思わず、誰も何の対応もできなかった。


 いつの間にか立ち上がっていたローデリヒが、腰の剣を、抜いた。


「この蛮族ども、貴様らにいいようにはさせない!」


 銀の刃が太陽の光を弾いてひらめいた。


 ムスタファとヌルギュルが立ち上がった。オグズ人の兵士たちが駆け寄ってきた。


 だがもう遅い。


 ローデリヒの剣が、幼い皇帝スルタンの胸を刺し貫いた。


 ほぼ同時に、ヌルギュルも腰にさげていた湾曲剣を抜いた。


 彼女がオグズ語で何事かを怒鳴った。


 彼女の剣が、ローデリヒの胸を斬った。


 一瞬の出来事だった。


 ジークには――ジークにも、何もできなかった。誰も冷静な行動を取れなかった。


 ヌルギュルがオグズ語で喚き散らしながら幼い弟を抱き上げる。ムスタファは苦しそうに呼吸してそのうち大量に血を吐いた。


「ムスタファ!」


 そうして名前を呼んでいるのだけは聞き取れたが、こちらは誰もオグズ語ができない。


 姉の服の胸をつかんでいた小さな手が、地に落ちた。姉が泣き出した。

 その周りをオグズ人の兵士たちが囲んでいく。


「まずい」


 グルーマン侯爵がジークの肩をつかんだ。


「ジーク、逃げよう」


 城門からオグズ人の兵士たちが雪崩れ込んでくる。

 正門からもザイツェタルクの兵士たちが飛び出てくる。


 怒号と弓矢の応酬が始まった。


「危ない!」


 味方の兵士たちが駆け寄ってきて、オットーやジーク、グルーマン侯爵やケッヘム侯爵を守り始めた。


 ローデリヒの体を抱き起こそうとした者たちもある。しかし彼は体に力が入らないようでひとりでは立ち上がれない。兵士たちが数人で掲げるように持ち上げて城のほうへと運んできた。


 訓練されたオグズ人たちが迫ってくる。ザイツェタルク側は恐怖と憎悪で混乱しながら応戦していて有効な手を打てない。じりじりと後退するしかない。


 ザイツェタルクのある兵士が転んだ。それに引きずられて何人もの兵士が地に倒れた。


 ローデリヒの体が宙に放り出され、堀に落ちていった。


「ローデリヒ殿下!」


 ジークは無我夢中で手を伸ばしたが、届かない。ローデリヒの体は冗談のような音と水飛沫みずしぶきを立てて堀の水の中に沈んだ。


「早く、早く!」


 ローデリヒには目もくれず、グルーマン侯爵がジークの肩を抱きかかえる。引きずられるようにして城のほうに向かう。


 空を裂く音がした。


 頭上を見た。


 雨のように、矢が降り注ぐ。


「ジーク!」


 目の前を大きな影が覆った。

 矢の雨を遮った。

 ジークが矢を浴びることはなかった。


 かわりに、赤い雨が降ってきた。


 血だ。


 ジークの頬に、赤い血のしずくが降ってきた。


「陛下」


 ケッヘム侯爵が腕を伸ばしたが、何もかも遅い。


 ジークをかばって仁王立ちになっていたオットーの胸に、数え切れないほどの矢が刺さっている。


 オットーはしばらくそのままの体勢で矢を受け続けた。ジークはそれを呆然と見ていた。そんなジークをグルーマン侯爵が強引に城の内側に押し込んでいく。


「陛下?」


 城側の人間はまずジークとグルーマン侯爵を受け入れた。そしてそのまま扉を閉めようとした。ジークはオットーとケッヘム侯爵のことを考えて「待て」と叫んだがグルーマン侯爵が「閉めろ」と叫んだ。


 このままでは橋の上にいる人間がみんな死んでしまう。


 閉まりつつある扉に、ケッヘム侯爵と数人の騎士たちが駆け込んだ。

 ケッヘム侯爵と騎士たちはオットーを抱えていた。今度は落とさなかったらしい。


 扉が完全に閉まったのを確認してから、騎士たちがオットーを地面に下ろした。


 オットーは蒼い顔をしてぜえぜえと息をしていた。胸には十本前後の矢が刺さり、血があふれ出て背まで汚れている。


「陛下」


 ジークはそのそばに膝をついた。

 何も考えられなかった。

 怖かった。


 死んでしまう。


 なぜ、どうして、こんなことに――


 失血が多いからか、オットーは目が見えなくなっているようだった。すぐそばにいるにもかかわらず、彼はうなされたように「ジーク、ジーク」と息子の名を呼び続けた。


「ジークはどこにいる、無事なのか」

「大丈夫です陛下、ここにいらっしゃいます」


 グルーマン侯爵もオットーのすぐそばで膝立ちをした。彼は次にジークの手首をつかんで、ジークの手に強引にオットーの手を握らせた。ジークは無言でされるがままにしていた。


 手が触れたのを感じて安心したらしく、オットーはわずかに表情をくつろげた。


「おお、ジーク」


 声が弱々しい。


「ジーク、よく聞け」


 ケッヘム侯爵が反対側からオットーの肩を叩く。


「陛下、何もおっしゃらないでください、今医者を呼びます」


 オットーはケッヘム侯爵には何も言わず、ジークのほうを向いていた。


「私はマーフペイケルを愛していた……。正直なところ、彼女が私をどれだけ想ってくれていたのかは、今となっては少し自信がない。しかし、私は愛していたのだ」

「陛下!」

「だがこれだけはおぼえておいてくれ。お前を抱いていた時の彼女は、本当に幸せそうだった」

「陛下」

「お前は父母の両方に愛されていたのだ……それをけして忘れるな」


 ジークがぽつりと「陛下」と呼ぶと、オットーは蒼白い顔で微笑んだ。


「最期くらい父と呼んでくれないか」


 その時が、迫り来ている。


「父上」


 そう言うと、オットーの手から力が抜けた。


「お前を……ザイツェタルク王に……」


 もはや、この世の人ではないことは、明らかだった。


「マーフペイケルの子を……ザイツェタルク王に……」

「父上、父上しっかりしてください」

「ジギスムント……愛している」


 それを最後に、彼はもう何も言わなくなった。


 ジークは叫んだ。喉が潰れるほど声を上げた。


 外は静かになっていた。矢の音も剣の音も聞こえない。

 それはザイツェタルク軍が完全に城内に入ったまま外に出られなくなったことを意味していた。

 ローデリヒも堀の汚れた水の中に投げ捨てられたままで誰も回収に行けなかった。


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