第2話 明るく素直で優しい女

 城には書庫が複数ある。大きな図書室に付属していて歴史資料を保管している部屋から税務や外交などの事務書類を保管する部屋まで、用途によって使い分けられているらしい。らしい、というのも、机仕事より体を動かすことのほうが好きなジークはめったに出入りしないので、どこに何があるのか正確には把握していないのである。


 書庫に限らず、グリュンネン城の内部には未知の空間がたくさんある。


 グルーマン邸で育てられたジークにとっては、実家であるはずのグリュンネン城はどうも他人の家のような感じがある。ミーヒャやリヒャルトの弟といった同世代の貴族の子供たちが探検に誘ってくれたこともあったが、居心地が悪くて長居できない。


 今、ジークは父に城へ引っ越してくるようにと強く言われている。王位継承者としてグルーマン邸から引きずり出そうとしているのだ。


 ジークの城内の私室自体は実はジークが生まれた十九年前からある。だが、アッシェンバッハ派の連中の妨害にあってなかなか城に入れなかった。ジークが健康に成長してオットーとグルーマン派が粘り勝ちしようとしている今だからこそこうしてここまで来れるが、嫌な視線や陰口を浴びて萎縮していた子供の頃の記憶は消えない。


 ついでに、父のセンスで理想の騎士の息子の部屋として飾り立てられた甲冑や剥製の並ぶ悪趣味な部屋は、ジークの好みではない。


 ミーヒャをはじめとする貴族の子供たちは、なぜかリヒャルトをジークの保護者だと思っているふしがある。

 今日もミーヒャはインノケンティウス司教にいじめられた件をリヒャルトに報告しようとリヒャルトを捜して城にやってきた。

 ジークとしてはこんなことでいちいち騒がなくてもいいではないかと思うのだが、ミーヒャはいたって真面目で過保護だ。


「ちょっと、ねえ、リヒャルト、真剣に聞いてる?」

「私だってヒマじゃないんですけど」


 リヒャルトは軍務に関わる資料を収蔵している書庫にいた。グルーマン侯爵が騎士団の幹部なので、息子たちも騎士団の仕事をすることが多い。中でもリヒャルトは事務能力に長けていて、侯爵と国王の間で書類のやり取りをする時に一緒に働くことがあった。


 書類をつづったものをぺらぺらとめくるリヒャルトに、ミーヒャが腕を回して文字どおりまとわりつく。二十一歳で人一倍背が高く体格のいいミーヒャが同じく成人男性であるリヒャルトにべたべたするのはちょっと気持ちが悪い。


「ジークが可哀想だと思わない? こんなふうに傷つけられるなんて、しかも聖職者である大叔父様に」

「思わないわね。もう百万回くらい同じようなことがあったので、ジークはとっくに慣れたことでしょう」


 両方とも酷い言いぐさだ。どちらにもジークの心境が理解されていない気がする。強いて言えばリヒャルトに近い感覚かもしれないが、この諦念のせいで自分がどんどん根暗になっていくのも感じる。


 ミーヒャのように無邪気で素直な男だったら、父の趣味で固められたあの部屋に住めるのかもしれない。


「今はこんなことをやっている場合じゃないのに。早くジークを認知してもらって次期ザイツェタルク王を立てないと」

「それはそうなんだけど、世の中はあなたが思っているほど単純じゃないのよミーヒャ」

「どういう意味?」

「さて、アッシェンバッハ家の息子であるあなたにグルーマン家の息子である私が軍事機密を流すのはちょっとねえ」


 こういうのがリヒャルトの悪いところだ。本当に話す気がないからそもそもこうしてほのめかすこともしない。ミーヒャを困る顔を見たくて、教えてあげてもいいことをわざと焦らして伝えるのである。

 案の定、ミーヒャが慌て出す。リヒャルトのもくろみどおりだ。


「どうしてそういう意地悪を言うの? 僕はもうケッヘム家の人間だよ、グルーマン派に転向したんだよ」

「本当に? 実はアッシェンバッハ派の間者で、グルーマン派から情報を引き出そうとしているのではなく?」

「そんなことはしないとわかっているくせに、僕を試しているのかな」


 ジークは溜息をついた。


「リヒャルト、どうしてお前はそうやってミーヒャで遊ぶんだ。それこそ俺は望んでいない」

「えっ、僕、遊ばれている?」


 その時、戸が勢いよく開いた。


「見つけた!」


 女のまろく甲高い声が聞こえてきた。

 見ると、赤みを帯びた金の長い髪をひとつにくくった若い女が入ってきているところだった。庶民の女のようなチュニックに胸元を覆うベスト、膝下の丈のスカートをはいている。明るい笑顔は溌剌はつらつとしていて、オリーブ色の瞳がきらきらと輝いていた。


「ガービィも交ぜて! ガービィだけ仲間はずれにしないで!」


 彼女は、愛称をガービィ、正式な名前をガブリエラ・ケッヘムという。グルーマン派の中でグルーマン侯爵家に続く大貴族ケッヘム侯爵家の次期当主で、これでも一応騎士だ。男性に比べれば小柄でも女性のわりには大柄で、服の下の体はしっかり鍛えられていると聞いた。ミーヒャから、だ。


 ガービィが書庫の中に走ってきた。ほこりが舞う。ジークとリヒャルトは露骨に嫌な顔をしたが、彼女は我関せず、左腕でミーヒャを、右腕でジークを抱いた。背中に布越しで弾力のある肉が当たる。彼女からしたら何気ないスキンシップでも、ジークはどきまぎしてしまう。


 ジークは無神経な女が苦手だ。しかしガービィもミーヒャ同様明るく素直で優しい女なので、強く拒絶できない。


「何のお話よお、ガービィも聞きたいよお」

「うるっさいわね、呼んでないわよ」


 リヒャルトは辛辣なことを言うが、彼女にはまったく響かない。


 彼女はジークの頬に頬擦りしてこんなことを言った。


「ジーク、またインノケンティウスのクソジジイにいじめられたんだって? あちこちその話題でもちきりよお。おねえさんが慰めてあげるからちゃんと報告するんだよ」


 彼女の滑らかで柔らかい頬の感触を味わうと、自分の頬が脂ぎっていないか不安になる。


 ミーヒャが言った。


「そうだよ、僕が止めたんだ。なのにリヒャルトは酷い言いよう。リヒャルトはジークをかばってくれないし、僕のこともいじって遊ぼうとする」

「あらたいへん!」


 そう言って、ガービィはミーヒャにも頬擦りをした。ミーヒャは嬉しそうに目を細めた。


「リヒャルト、酷い奴! わたしの可愛い夫をいじめて遊ぶなんて。ガービィ、リヒャルトをやっつける!」


 ジークとミーヒャを離して、リヒャルトの腹に拳を入れようとする。リヒャルトが左手に書類の束を持ったまま右手でそれを止めた。彼はあくまで冷静だ。


「あんたはすぐ暴力に訴える。あんたみたいなののせいで騎士団の品位が疑われるのよ」

「リヒャルトも騎士団の人間でしょ? リヒャルトのほうがよっぽど騎士団の格を下げてるよ、ツェントルムで何人の女の子を引っ掛けたって?」

「耳が早いわね。女の子と男の子が一人ずつ」

「うっそ。わたしはかまをかけたつもりだったんだけど」


 ジークは引いた。あの過密スケジュールのどこでそんなことをしていたのか。長時間リヒャルトと一緒にいたはずだが、気づかなかった。


「少なくとも私は騎士団の事務方の人間として真面目に働いているので。あんたみたいにミーヒャといちゃいちゃしたりミーヒャをいじめるいじめっ子と喧嘩したりして日々を過ごしているわけじゃないので」

「ひどい! わたしは体を鍛えてる、剣術の稽古も槍術の稽古もしてる!」


 そして、彼女の目が鋭く光った。


「で、今日は何の書類仕事をしてるって? ツェントルム観光を早々に切り上げないといけないくらい大事な用事の関連資料でもあるのかな?」


 普段は馬鹿っぽく振る舞うが、彼女もそれなりに勘が働くさとい女だ。


 リヒャルトがようやくこちらに向き合った。


「今年の収穫は軍の糧食に回さないといけなくなるかもしれないわ。民には悪いけど、いったん城に備蓄しないと。そういう徴収のための仕事よ。最後に戦争をしたのはもう二十年前だからね、古い資料をひっくり返さなければ」


 ガービィが「やっぱり」と呟いた。ジークは緊張で拳を握り締めた。ミーヒャだけがおどおどきょろきょろしている。


「戦争が始まるの」

「まだ確定ではないけれど、備えあれば憂いなし。まして前回は私たちにとっては物心がつく前のことでしょ。若い騎士たちは戦争を知らない。前に戦争で活躍した連中は中年太りで五十肩」

「ツェントルムでそんなひどい揉め事に発展したの? どこと戦うの? ノイシュティールン? ヴァランダン?」

「いいえ、帝国内部ではないわ」


 リヒャルトの瞳は、鈍く輝いた。


「オグズ帝国よ」


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