第2章 激突! ザイツェタルク王国VSオグズ帝国

第1話 善良なザイツェタルク民

 帝都から帰宅した翌日、ジークは父と出掛けることになった。


 目指すのはザイツェタルク王国の首都グリュンネンの中央、グリュンネン大聖堂の近くにある共同墓地だ。


 ザイツェタルク王とその妃の棺は、代々グリュンネン大聖堂の地下室にある墓所に安置されることになっている。

 しかし、ジークの母親は正式な妃ではなかった。それどころか、ロイデン人ですらない。

 したがってグリュンネンの人々は彼女をグリュンネンの領域内に葬ることさえ嫌がった。

 それを、ザイツェタルク王オットーがどうしてもと言うので、彼に近しい家臣たちが取り計らって共同墓地に埋葬することに決めたのである。

 ちなみに味方の筆頭はもちろんグルーマン侯爵だ。


 共同墓地も、共同とは言いながら、社会格差の縮図だ。豊かな市民は大きな胸像を立てるが、貧しい市民は四角く平らな墓標しかない。


 ジークの母の墓標もシンプルな石の板を組み合わせただけのものだ。


 しかし彼女の墓碑には他の墓碑にはないものが書かれている。


 オグズ語である。


 一文字一文字が独立したアルファベットで構成されているロイデン語の下に、みみずが這ったような長いひとつづりの記号が書かれている。これは、どうやら、母の名前を彼女の母語であるオグズ語で表記したものらしい。


「マーフペイケル……」


 オットーがひざまずき、花を手向たむけた。


 ロイデン語にはない独特の響きの名前だ。


「とうとうお前の息子を立太子する時が来た。どうか見守っておくれ」


 そう言って指と指とを組み合わせる父の背中を、ジークは斜め後ろからぼんやり見つめていた。


 ジークの母マーフペイケルは、南方の遊牧民であるオグズ人の女だった。黒いさらさらの髪に大きな紫の瞳、厚い唇の女だ。ジークが三歳の時に熱病で亡くなったので直接はおぼえていないのだが、父が後生大事に彼の寝室にマーフペイケルが赤子の頃のジークを抱いている姿を描いた肖像画を飾っており、父に呼び出されてはこの顔を忘れるなと言い聞かされていた。


 肖像画のまだあどけなさを感じるほど若いマーフペイケルはゆるく微笑んでおり、幸せそうに見えなくもない。一国の王に愛され、五体満足の王子を産み、それなりにいい人生だったのかもしれない。同じ蔑まれるのでも、城の召し使いとして扱われるよりは、王のめかけとして疎まれていたほうがまだマシ、というものだろうか。


 王都のオグズ人がどういう待遇で生活しているのか、ジークは知っていた。それを思うと、表舞台に立つたびに混血だと馬鹿にされるだけで基本的にはグルーマン侯爵家で大事にされている自分は、まだマシな境遇なのかもしれない。


 どういう人生が成功で、どういう人生が失敗なのか。


 人の身の上はままならぬ。


「お前も祈りなさい」


 父に言われて、ジークはしぶしぶ一歩を踏み出し、父の隣で膝をついた。


 異民族の言葉、異民族の文字、異民族の音――マーフペイケル、王妃になれずに死んだオグズ人の女。


 目を伏せ、手を組み合わせようとした、その時だった。


「貴様ら、何をしている!」


 野太い男の声が響いた。


 顔を上げると、白い司祭服を着た恰幅のいい初老の男性が駆け寄ってくるところだった。しわの刻まれた顔を真っ赤にして、太い眉を吊り上げている。オリーブ色の瞳の周りは赤く充血していた。


 男はオットーとジークのほうを指差しながら怒鳴った。


「その墓に花を捧げるなど言語道断、貴様はその墓石の下にいる女悪魔にたぶらかされて子を成すという恐ろしい罪を犯した自覚がまだないと見えるぞ」

「インノケンティウス猊下げいか


 オットーが立ち上がり、呆れた顔で司祭服の男――グリュンネン大聖堂司教インノケンティウスを眺めた。


 インノケンティウスが怒り狂っている。


 この男はたいへん異教徒に厳しい。聖隷教を信じない者は死後地獄に落ちると言って他の宗教を奉ずる民族を積極的に排斥してきた。グリュンネンがオグズ人に厳しい街であるのはこの司教のせいと言っても過言ではない。


 彼は異教徒の女にそそのかされて子を成したオットーが大嫌いで、顔を合わせるたびにこうして罵ってくる。すでによわい六十にもなる高僧なのに、落ち着きがなくて嘆かわしい。しかしザイツェタルク民の多くは彼の言葉を神の言葉だと思っていて、略奪と暴虐の象徴であるオグズ人への反発心を鼓舞してくれる存在として慕っているようである。


 今、ザイツェタルク王国はふたつに分裂している。


 ひとつはオットーを支持しジークを後継者として認める派閥、もうひとつはジークを認めずオットーの遠戚からザイツェタルク王を探してこようとしている派閥だ。

 前者の代表者はグルーマン一族、後者の代表者はインノケンティウスを輩出したアッシェンバッハ一族である。


 感情論でものを言う人々は、この国をおびやかすオグズ人を排斥したいアッシェンバッハ一族が大好きだ。しかし、他の誰を擁立するのか、とか、ロイデン帝国本体が危機の今にやることか、とか、冷静に物事を見ている人々はグルーマン派である。


 こんなことをしている場合ではない。今、ザイツェタルク王国はまた別個の危機に瀕している。

 だが、こんなふうに怒鳴られていると、自分がそこまでこの国に尽くしてやる義理はない気もしてくる。

 とはいえグリュンネン生まれグリュンネン育ちのジークには他に行くあてもない。父やグルーマン派の人々の陰に隠れてやり過ごすしかない。


 カール少年を思い出した。


 気に入らない親、不運としか言いようのない境遇、それを変えてくれるものは何か。


 ジークには、それを変えたいと思うほどの気力が足りないような気もする。こうしてインノケンティウスに言いたい放題に言われていると、だんだんやる気を失っていくのだ。


 オットーが怒鳴り返した。


「撤回していただきたい! この子は私のたった一人の息子ですぞ、この子がザイツェタルク王にならなければ国が滅びるのです!」

「代わりなど探せばおるわ」

「ではどこを探すと? 見つけてから言っていただきたいものですな」

「なんの、他の国の王侯貴族に嫁いだ姫君たちがおろう。その者たちの子孫をたどっていけば、あるいは」

「新王に迎えた者の出身国の後ろ盾もグリュンネン大聖堂を保護してくれるとよいのですがね」


 インノケンティウスが黙った。結局のところ、この男も俗世の金や権力に弱いのだ。自分の基盤である司教座を手放したくないのである。彼はザイツェタルクの名門アッシェンバッハ家の出で、彼の地位を裏付けてくれているのはなんだかんだ言ってアッシェンバッハ家の上に立つ王家なのだ。


「我々が滅びる時はあなたも滅びる時ですよ、司教。聖隷教には徳の高い司祭がたくさんおられる。替えがきくのはあなたのほうです。なんなら教皇様に土地を寄進するということもありえる」

「卑怯だぞ、オットー。そこまで言うなら破門だ」

「大いに結構。王家の支援が不要ならばいつでも私に破門状を」

「猊下、陛下!」


 不意に第三者の声が割って入ってきた。

 はっとしてあたりを見回すと、いつの間にか人だかりができていた。なんと、国王と司教がみっともなく罵り合うところを一般民衆に見せてしまったことになる。恥ずかしいことこの上ない。


 声の主は若い男性だった。金茶の髪にオリーブ色の瞳の、ザイツェタルク民としてよくいる色合いの青年である。背は高く、肩はがっしりしているが、端整な顔立ちは甘めで、体格のわりには雄々しさを感じさせない。


「大人げないことを! みんなが見ていますよ」


 インノケンティウスが振り返って歯ぎしりをした。


 青年はインノケンティウスとオットーの間に立ち、オットーのほうを守るようにインノケンティウスの前に立ちはだかった。


「やめてください。神はなんじの隣人を愛せと言われたのではなかったのですか。隣人であるオグズ人を愛したオットー陛下に何の罪がありましょう。ましてジークはなおさら」

「この、ミヒャエル、裏切り者めが」


 彼、ミヒャエル、通称ミーヒャはアッシェンバッハ家の次男坊である。インノケンティウスからしたら兄の孫、又甥またおいに当たる。


 アッシェンバッハ一族の者でありながらジークをかばうミーヒャは、一族の者から疎んじられている。しかしまことに善良な男であるミーヒャはジークがいじめを受けていると思って真剣に味方をしてくれる。


 ミーヒャは知らない。

 彼のそういう素直さが、ますますジークを縮こまらせる。


「いずれにせよ民のみんなが見ていますよ。弱き者を差別する猊下からひとの心が離れていくこともお考えいただきますか」


 インノケンティウスはふたたびあたりを見回してから唸り声を上げた。


「私は俗世から離れた身だ。この件に関しては兄とその息子、ミヒャエルの父親にゆだねる」


 一週間に一回は同じことを言っているので誰も信用していない。


「何を見ておる! 散れっ、散れ!」


 そう言って肩を怒らせながらインノケンティウスは大聖堂のほうへ戻っていった。野次馬たちもちらほらと立ち去っていって、その場にオットー、ジーク、ミーヒャの三人が残された。三人はそれぞれ順繰りに顔を見合わせてから、大きな溜息をついた。

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