第2話 帝国で一番邪悪な美少女、北の海の女王イルムヒルデ

 ロイデン帝国とは、大陸の中央部にあるロイデン地方とその周辺地域少々をすっぽり覆うように形成された大帝国である。大部分が深い森で、数本ある川の岸辺が街道となって森の中に点在する都市と都市とをつないでいる。北は暖流の海に面していて暖かく、南は高山なので寒い。


 帝国といっても、強力な皇帝の独裁的な親政が行われているわけではない。帝国の中には五つの大きな国と無数の小さな国が内包されていて、政治はその各国の代表者の合議制で運営されていた。皇帝はむしろただのまとめ役に過ぎない。


 その中にある、南部地域でもっとも大きな国が、ジークの生まれ育ったザイツェタルク王国である。


 ロイデン帝国の中には皇帝から王位を認められた国が三つあり、そのうちのひとつがザイツェタルクだった。


 ザイツェタルクはロイデン人の魂、大陸でもっとも古い歴史をもつ英雄の国だ。ザイツェタルクの祖は南方からの異民族と戦って国を興した騎士王であり、誇り高く強く正しい王国なのだった。


 それがどうしてロイデン帝国成立時に皇帝にならなかったのかというと、理由はふたつある。


 ひとつ、祖先の騎士王がロイデンの皇帝になった一族の家臣だったから。


 ひとつ、火中の栗を拾う役目を避けたから。


 きっと初代ザイツェタルク王は賢い男だったのだろう。彼が帝位を辞退したことで、ザイツェタルクはロイデン帝国を陰ながら支えるという名目でかえって帝国議会で相当数の議席を確保している。そして皇帝一族に議会での発言権はない。


 ザイツェタルクの雪深い山の中には大小さまざまな湖があり、それぞれから美しい川が流れ出している。そのうち一本がザイツェタルク王都を流れるユーバー川で、この川は帝国中央のツェントルム王国の王都を通り、最終的に西のノイシュティールン大公国の海に面した公都で北方のロイデン海に注ぎ込んでいる。ユーバー川はその優美で穏やかな流れと大地にもたらす恵みから母なる川と呼ばれている。


 ジーク、ジークの父オットー、リヒャルト、リヒャルトの父と兄、そして数人の随行団は、王都のユーバー川に沿ってツェントルム王国に向かった。


 ツェントルム王国はロイデン帝国の中枢であり、ロイデン皇帝を輩出する国である。大陸のちょうど中央部に位置していて、森が開けており、全体的に平らで、交通の便が良い。しかしそういう土地柄が災いして周辺各国の食い物にされており、独立して財政を回すだけの力がない。ツェントルム王は自動的にロイデン皇帝になれるが、ツェントルム王になるには周辺各国の承認が必要だ。


 ザイツェタルクでは荒々しかったユーバー川は、北に進むにつれて流れが穏やかになり、何回も何回も蛇行して森の中を潤した後、ツェントルムにほど近い都市国家から船に乗れるほどに落ち着いてくる。一行はここで馬から船に乗り換えてツェントルムを目指す。


 そうして帝都にたどり着いたのは王都を発ってから三日目の夕方のことだった。


 秋分も迎えていない晩夏の夕方はまだ長い。空は明るかったので、一行はすぐさま宮殿に上がることにした。


 最新技術で建てられた優美な宮殿、乳白色の漆喰の壁に古典的な屋根をのせた皇帝の住まい兼執務処は今日も夕焼けの中で静かにたたずんでいた。周りは公園になっていて、喪服姿の一般臣民がまだ状況を理解できない幼子を遊ばせている。主を失ってもなお忠実な近衛兵士たちが、そんな一般臣民たちを見守っている。


 ザイツェタルク王オットーは、玉座に誰もいない謁見の間で宰相アスペルマイヤーと待ち合わせをしていた。

 ライバル国の中では一番早い到着のはずだと思っていた。


 ところがいざ広間に通されると、先客がいた。


「あら、ごめんあそばせ」


 玉座の斜め下、場にそぐわぬ革張りで猫足の椅子を置いて、ひとりの少女が座っていた。


 美しい少女だった。真っ白な肌は陶器のように滑らかで、毛穴がなさそうに見える。小さいが高い鼻に真っ赤な唇をしていて、長い睫毛に守られた大きな瞳はガラスのような氷色だ。長くて毛量の多い白金の髪は豪快に渦を巻いている。着ているドレスもレースとフリルをふんだんに用いられてたっぷり膨らんでいる派手なものだ。


 ジークは顔をしかめた。


 彼女の着ているドレスは喪服ではない。まだ膨らんでいない胸元が開けているそのドレスは金とピンクを基調としていて、妖精のように可愛らしい彼女にはよく似合うが、この場にふさわしいものではなかった。


 彼女は宝石のビーズがたくさんついた小さくて柔らかそうな靴で立ち上がった。そして真っ赤な唇の両端を吊り上げ、年齢にそぐわぬ妖艶な微笑を浮かべた。


「お久しぶりですわね、オットーならびにザイツェタルクの皆様。ごきげんよう」


 思わず顔をしかめてしまった。この小娘は、ジークの父親であるザイツェタルク王を呼び捨てにしたのだ。


 オットーはそれを何とも思っていないのか、それとも普段ジークの前では使わない鉄面皮で乗り切ったのか、それを指摘することなく膝を折った。少女が当たり前のような顔をして左手を突き出す。オットーがその手の甲に口をつけるふりをする。


「お久しゅうございます、イルムヒルデ女王」


 ジークは唾を飲んだ。


 イルムヒルデ――北の大国、ロイデン帝国の中で唯一ロイデン海の向こう側に位置する海軍大国クセルニヒの女王だ。年齢は確か十四歳で、母親である先の女王が亡くなって王位につきすでに三年になると聞いた。

 美しくて破天荒な娘であるとは聞いていたが、ここまで邪悪な美少女だったとは思っていなかった。できれば一生関わりたくないタイプの女だ。


「今日もお美しいですね、女王陛下。お背も少し伸びたようで何よりですぞ」

「子供扱いしないでくださらない? わたくしも婿取りを考える年頃になりましたのよ、レディとして接していただけないかしら」

「それはそれは、大変失礼申し上げました」

「にしても」


 イルムヒルデが顔をしかめる。


「ザイツェタルクでは召し使いに王子みたいな服を着せるのですね。馬のお世話以外のお仕事をなさるご気分はいかが?」


 彼女と目が合った。なるほど、彼女はジークをおとしめたいらしい。ジークの瞳が紫であることから、ジークの母親がもとは遊牧民であることを察したのだろう。

 この手の侮辱は慣れている。金の髪に青い瞳の古き良きロイデン人の娘にさげすまれるのは想定の範囲内だ。

 しかしジークはどう反応しようかためらってしまった。今のジークはザイツェタルクの王子としてここにいる。無視をするのも怒りを表明するのも得策ではない。


 ジークが黙っていると、イルムヒルデが高笑いをした。


「嫌ですわ、冗談にございます! お初にお目にかかりますわ、ジギスムント。わたくしはイルムヒルデ、特別にイルマと呼ぶことを許可してさしあげてもよろしくてよ!」


 ずっとイルムヒルデ――イルマのそばに控えていた女官がさっと歩み出てきて、イルマに声を掛ける。


「イルマ様、お戯れはそのへんまでに」


 その様子を眺めて慌てふためいていたアスペルマイヤーがようやく動き始めた。六十過ぎで背は高い肥えたこの男は何か口ごもっているだけで何の役にも立たない。


「こちらはオットー陛下のご長男で――お母上は王都に定住なさった方で――ええと――」

「存じ上げておりますわ、いまさら説明せずとも。このイルマが何も存ぜずにしゃべっているとでもお思い?」


 ジークの一歩後ろで様子を見ていたリヒャルトが一歩前に出た。


「イルマ女王、こちらはジギスムント、愛称はジークです。未来のザイツェタルク王で私の主君です。どうぞお見知り置きを」


 するとイルマが頬を染めて「きゃああ」と嬌声を上げた。


「いやですわ、リヒャルトではございませんか! この方、あなたが選んだお方なの?」

「そうですよ」

「いやあん! それならそうと早くおおせになって! わたくし、あなたがおっしゃるならジークとも仲良くしますわ!」


 彼女はころっと態度を変えて、ジークの手を取って「よろしくお願いしますわね」と言った。ジークはげんなりした。


「それでは、ごきげんよう! またルートヴィヒおじさまの葬儀でお会いしましょう!」


 イルマが小走りで扉のほうに向かった。その後ろを先ほどの女官が追いかける。

 謁見の間に男ばかりが残された。


「なんだあれ」

「私の顔がいいからよ。イルマ女王は三度の飯より顔のいい青年がお好きなのよね」

「俺の顔は彼女に認めてもらえるほどには良くないみたいだな」

「ジーク、現実を受け入れなさい」


 アスペルマイヤーが毛の薄い頭をぺこぺこと下げた。



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