第30話 変わらぬ日常
いつもと変わらない、昼食時でざわついた食堂内。
なんだかんだと、長く濃い付き合いになりつつある後輩へと篠田は視線を向けた。
毎食何を食べるかを考えるのは、意外と労力がいる。
後輩が海外赴任から戻ってきてからは、彼の前日の晩飯を参考にしてメニューを決めていた。
ついでに、後輩とその恋人についての話を聞くのが、いつもの流れ。
それは、彼らの細やかな日常。
「昨夜、何食った?」
毎回、素直に答えてくれる後輩は、今日は珍しく少し躊躇い、悩む素振りを見せた。
「……居酒屋料理を、いろいろと。アワビとか。肉料理がおいしいお店だったらしくて、いろんな部位の肉を食べました」
「ふーん。珍しいな」
特に意味のない、ただの感想だった。
それに対して後輩は、何やら考え込むように視線を落とし「そうですね」と、静かに答える。
篠田は牛丼を頼み、いつもより大人しい後輩の向かい側で昼食を素早く済ませた。
食後のお茶を一息で飲み干し、後輩の完食を待ってから立ち上がる。
「ちょっと一服しようぜ」
二人とも、タバコは吸わない。
いつもは昼休みの終了時刻まで、そのまま食堂で会話して過ごす。
珍しい誘いにも関わらず黙って従った後輩を一瞥して、篠田は微かに苦笑を漏らした。
「お前ってさ、わかりやすいよな」
篠田の言葉に、返されたのは嘆息だ。
「篠田さんの察しが良過ぎるだけですよ」
食器を返却口へと運び、二人はオフィスビルに隣接した公園へと向かった。
途中、エレベーター前の自動販売機で缶コーヒーを二つ買い、一つを後輩へと手渡す。払うという申し出は断った。
「んで? 何があったんだ?」
人気のないベンチに腰掛けた直後の、第一声。
恋人関係の出来事だとは察しがついた。だからこそ、食堂内では聞かなかったのだ。
周囲が意外と、二人の会話を、興味を持って聞いているということに気付いてしまったから。
かわいい後輩である
「篠田さんってエスパーなんじゃないかって、時々思います」
眉根を寄せて、律瑠が不満そうに短い息を吐き出した。
篠田は缶コーヒーのプルタブを開けながら、人のいい笑みを返す。
「まあ、周りをよく見られてる自覚はあるね」
「モテないなんて言ってますけど、嘘ですよね? それでモテないわけがないです」
「なんだよ急に。ベタ褒めじゃん」
「単純な、感想です」
「モテるお前に言われてもなぁ」
「俺は、顔だけですよ」
「自分で言えちゃうところが、お前らしいよなぁ。まあ……それだよ。人間って結局、第一印象重視だからな。顔の要素はデカいって。あ! 『自分が女だったら』とか言うなよ。キモいから」
言われそうなことを先回りして止めた篠田に、律瑠は笑うことなく、真顔で応えた。
「秘書課の彼女さんは、見る目があると思います」
「おー。あんがとな」
どことなくこそばゆい空気が流れ、篠田はそれを、気の抜けた笑みで払う。
昼休憩は、長くない。
「で? 親切で気遣い完璧な篠田さんが聞いてやるよ。なんかあったんだろ?」
「……香乃の選択で、人生が変わった人達に会いました」
開けていない缶コーヒーを両手で弄びながら、視線を落としたままの律瑠が口を開いた。
それだけ言えば、篠田には伝わることをわかっての言葉。
それほどに篠田は、時任律瑠と金城香乃の事情に、気付けば深く関わるようになっていた。
「あー……」
無意味な音を口から漏らし、律瑠の横顔を盗み見る。
己の考えに沈んでいる瞳で、律瑠が言葉を続けた。
「たまに、テレビを観ながら香乃が言うんです。このCM、前の時は違う人がやってた気がするって。……それは、ドラマであったり、映画だったりもして。芸能界は運やタイミングが大事なのか、結構、変わっているらしくて」
「香乃ちゃんはそれに、責任を感じてるのか?」
「感じてるとは、思います。だけど、もうどうにかしようもないので、諦めてもいるようです」
冷えたコーヒーを一口含み、篠田は意味もなく、公園の景色に視線を向ける。
梅雨は明けて、夏が始まった。
これからどんどん、暑さは増していく。
「お前が会った人たちは、いいほうに変わったんだろ?」
「はい。前の時には売れてなかったんでしょうね。香乃の記憶には、ない人たちだったみたいです」
「それでお前は、何が引っ掛かってるんだ?」
律瑠は口を引き結び、手の中の缶コーヒーの存在を思い出したのか、プルタブを開けて一気に飲み干した。
ため息のように大きく息を吐き出して、己の思考を、言葉として整理する。
「責任、というほどではないにしろ、香乃はきっと、気にしてるんです。無自覚の期間に誰かの機会を奪ってしまったことを。誰かの人生を変えてしまった、重さを。俺は……香乃のために何ができるんだろうなって、なんだか、考えてしまって」
律瑠の手の中には、空になったコーヒーの缶。
篠田は、両手でスチール缶を包むようにして持つ律瑠の横顔を視界の隅に捉えながら、微糖のコーヒーを飲み干した。
「気にしているからこそ、距離を取ろうとしてる人たちなのかなって。なんだか、そんな気がして」
「お前も一緒に飲みに誘われるぐらいなんだから、親しい間柄じゃないのか?」
「親しいと思います。香乃もきっと、好きな人たちなんです」
「なのに距離を感じたからこその、違和感か」
「はい」
空を仰いで、思い出す。
篠田が初めて香乃と会ったのは真冬で、季節どころか、国も違っていた。
寒空の下、彼女は青白い顔をしていて、心が、ぼろぼろで。一人で立っていられないほど疲れきっていた彼女に、律瑠が寄り添っていた。
「逃げるのも、一つの手だろ」
律瑠が望むものではないとわかったうえで、吐いた言葉。
「俺は……逃げる段階は、過ぎたんじゃないのかなって思うんです」
「なら今は、どんな段階なんだ?」
一瞬黙り込み、律瑠はすぐに、己の思考を言葉として紡ぐ。
「変化は、受け入れるしかないと思うんです。これからの香乃は、俺らと同じになるんです。知ることのできない未来を、歩いていくんです。だから……ただ、それを楽しんでくれたら、俺は嬉しいなと思います」
「まあ、未来を知らないのが『普通』だからな」
ただ、その『普通』を謳歌するには、彼女が背負ったものが、重過ぎる。
「あの時も考えたけどさ、パラレルワールドってやつなのかね? 小さな選択の繰り返しで、人生ってやつはいくつにも分岐するだろ。その分岐の先が、香乃ちゃんが一度生きた世界とは違うだけで。それって今を必死に生きた結果なんだから、香乃ちゃんのせいじゃないだろ。神様でもあるまいし」
「神様がいるなら聞いてみたいですね。どうして、香乃だったのか」
「過去に戻った理由、香乃ちゃんにもわからないままなのか?」
イギリスで聞いた時は、心当たりがないと言っていた。
篠田が向けた視線の先、律瑠は微かに眉をしかめ、ためらう素振りを見せた。
「関係があるかはわからないですが、前の時、香乃は、お百度参りをしたらしいです」
「それで、やり直したいって願ったのか?」
「いえ。ただ、幸せになりたいと」
「幸せかぁ……。曖昧な願いだな」
「お百度参りなんて、一般的ではないにしろ、香乃以外にもやってるはずです」
「だよなぁ。てか、お百度参りって、何すんの?」
「香乃は百日間、毎日同じ時間に、同じ神社へお参りに行ったらしいです」
「どんな天気でも、欠かさず?」
「らしいです。……ちょうど、離婚したばかりだった時で、心の整理のためにやってみたんだとか」
「ちょい待て! 離婚!? 離婚って何?」
初めてもたらされた情報に、篠田は座ったままで身を起こした。
思い切り立ち上がってしまいそうなほどに、驚いた。
「それは当然、前の時だよな?」
念のため、確認してみる。
「当然、そうです。今回は俺がいるんですから」
「そうだよな。お前がそんな隙、与えるわけないもんな」
「当然です」
自信満々で断言する律瑠の言葉で、体の力を抜いた。
だが、続いて律瑠が吐いた言葉は、再び篠田に衝撃を与えることになる。
「香乃を殺した犯人、強盗じゃなかったらしいです。結婚していたことを俺に言いづらくて、嘘吐いたらしくて。……前の時、香乃は、元夫に刺殺されたんだそうです」
皮膚の周りの空気は暑いのに、体内の温度が一気に下がった心地がした。
「そのまま死んでしまったから、動機とかは想像することしかできなくて。今回はそいつに会いたくなくて、違う選択を繰り返したっていうのも、あるみたいです」
「なら、今回そいつは、香乃ちゃんとは無関係の人生を歩んでるってことか」
「そうでしょうね。地獄のような人生であることを願います」
「探して報復しにいったりするなよ?」
「しませんよ。というか、できません。香乃がそいつの情報を教えてくれませんから」
「うん。それは賢い選択だ」
乾いた風が吹いて、公園の木々を揺らした。
葉擦れの音が心地良い中、篠田は視線を空へと投げる。
「幸せになりたいかぁ」
「ありきたりだけど、切実な願いですよね」
そうだなと同意しながら、篠田は思う。
今回、その願いは叶えられているのではないかと。
律瑠の隣で、柔らかな顔で笑う香乃を、脳裏に描く。
「これが神様の仕業なんだとしても、やり直さなきゃ叶えられなかったってのがなんか……切ないな」
香乃と共に生きるのは、律瑠以外は、有り得ない。
恐らくそれは篠田以外にも、二人のそばにいる人間は皆、思っていることなのではないかと思うのだ。
「幸せかどうかなんて、周りからはわかんないものだけどさ」
他人からは幸せそうに見えたとしても、本当のところは違うかもしれない。
本人がどう感じているかは、自己申告以外では、推測することしかできない。
だけど――
「時任の存在は、香乃ちゃんにとっての救いになってるんじゃないか」
それが、篠田から言える律瑠への答え。
「普通なら有り得ない、あの子が抱えてる真実を知っている人間がいるってのは……自分一人で抱えなくてもいいっていう今の状況は、たぶん、いいことだ」
香乃は今、生きることに前向きになっていると、篠田にも感じられるから。
「それは、篠田さんもそうです。事務所の社長さんも、今でも香乃を気にかけてくれています」
「その社長さんは、芸能界の?」
返ってきたのは、肯定。
「俺はたぶん、前の時と今回で、変化のない人間なんだろうな」
なにせ、律瑠や香乃と出会ったのは社会人になってからだ。
人生を左右する大きな選択をするような時期は、過ぎている。この先の選択についても、律瑠と香乃の存在が大きく影響を及ぼすとは、考えにくい。
恐らくだが、だからこそ香乃は、篠田と接することを気楽に感じているのだろうと思うのだ。
「まあ。なんつーかさぁ……。篠田さんは、お前たちの幸せを願ってるよ」
祝福とも呪いとも言えそうな、香乃が置かれた状況。
それに深く関わり、共に歩むことを決めた律瑠。
願わくば、この状況は呪いではなく祝福であってほしいと、篠田は思う。
「篠田さんとの出会いは俺と香乃にとって、とても大きな、いい意味のあるものだと感じています」
こそばゆい気持ちになったが、特に言葉を返すことなく、篠田はベンチから立ち上がる。
それを追いかけてきた律瑠の肩を片手で叩きながら、篠田の顔には、自然と笑みが浮かんだ。
「さーて。午後もお仕事頑張るかー」
「そうですね」
この日常はこれからも、長く続いていく。
愛縁奇縁 ~二度目の彼女と 存在しなかった彼~ よろず @yorozu_462
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