金銀蝶
存思院
オープンカフェにて
少し疲れたので、目に留まったオープン・カフェにて一杯の珈琲を注文した。
春の午後は穏やかで、背中を向けて遠ざかる店員も、周囲の花々や暖かい陽光を背景にすると一枚の水彩画のような趣をもつ。
真っ白なパラソルの下、ダークブラウンの椅子には空席も目立つが、微睡む老人や読書の若者等、珈琲を片手に思い思いの時間を過ごす者にはうってつけの場所なだけに、このお洒落な店はそこそこ繁盛しているようだった。
注文のアメリカンを待つ間、微かにレモンを感じる冷水で喉の渇きを癒す。
グラスの氷の涼やかな音を聞いていると、足元の植木鉢に可愛らしく咲いている、撫子色の花の周りを二匹の蝶が舞っていることに気が付いた。
一匹は光の具合なのか、優しい金色に見えた。
一匹は光の加減なのか、静かな銀色に見えた。
私がそのきらきらとした二匹の蝶を見つめていると、先ほどの店員がアメリカンを持って来たので、私の視線は自然とそちらに吸い寄せられる。白のカップとソーサーを此方に引き寄せ、珈琲の香りを楽しむ。カップに口を付け、ほんの少し口に含むと、苦みよりも酸味が口に広がった。私好みの味だ。そのまま、ミルクと砂糖は入れずに三分の一ほど飲んでしまう。
私はこの店の珈琲に大変満足したのだった。
――ふと視界の隅にきらきらとしたものが映った。
先ほどの金色と銀色の蝶が此方にやってきて、アメリカンの周囲をひらひらと飛んでいる。
やけに綺麗な色をしているが、一体何という種類の蝶なのだろうか、と私が考えていると、二匹の内の銀の方が、カップの淵に留まった。
これは美しい絵画になるなと思っていると、白銀の蝶はカップからこてりと落ちてしまった。木のテーブルの上で弱々しく羽を動かすも、数秒もしない内に動かなくなる。
「あなたのせいよ! あなたがあんなにも美味しそうに飲むから!」
呆気にとられていると、横から突然の声。
見ると、金髪の少女――小学校高学年くらいだろうか――が目に涙をためて私を睨みつけていた。勝気そうな釣り目も、エスニックなヘアバンドも、とてもよく似合っていて格好良い女の子なのだが、その表情は年相応でいじらしい。
ただ、大変怒っていることもよくわかった。
「……えっと。君は?」
「私のお友達が死んじゃったじゃない……!」
女の子は私の質問を全く聞いていないようで、今にも声を上げて泣き出しそうに体をふるふると震わせて、テーブルの上の銀の蝶を指さした。
「お友達……? ……あの銀色の……」
「あなたさえいなければ、あの子が珈琲を飲んじゃうなんてことはなかったのよ…………!」
――どうやらこの子は、銀の蝶が私の珈琲を飲んで死んでしまったことに、大層ご立腹の様子であった。
私は混乱する思考をどうにか制御して、きっとこの子は見かけた綺麗な蝶が死んでしまったことにショックを受け、やり場のない感情を私にぶつけているのだ、と理解した。なぜ蝶が珈琲を飲もうとしたのか? なぜこの子はあの蝶のことをお友達と呼んでいるのか? など疑問は尽きないが、それらは今この子に聞くことでもないだろうと、私はなるべく優しく聞こえるよう、声をかけた。
「そうだね……。私が悪い。……この子がちゃんと神様のお国に行けるように、一緒にお祈りしようか……」
「いやよ! お祈りしても、あの子は帰ってこないじゃない! あなたが殺したんだから、生き返らせなさいよ!」
我ながら、大人げなかったと言わざるを得ない。私は、彼女の理不尽な物言いについ、カッとなってしまった。彼女の気持ちは理解したと思ったのに、相手が子供だということも忘れて怒鳴ってしまっていた。
「あいつが馬鹿なせいじゃないか! 食べていいものと悪いものの区別もつかない蝶なんて聞いたこともない!」
言った直後、しまった、と思った。情けない。相手は傷ついた子供だというのに。
「……ごめんなさい。言い過ぎたわ……」
予想に反して、彼女はしゅんとして下を向いていた。
その仕草が、私の罪悪感を増していく。
私が何も言えないでいると、彼女が小さな声で
「……祝福のおまじないって知ってるかしら?」
と言いながら、私を上目遣いで見つめてきた。
「いや……」
私は子供の遊びだろうかと思い、次の言葉を待った。
「私とキスして?」
気が付くと彼女はいつの間にか私の膝の上にいた。
その小さな腕は既に私の首にまわされている。
彼女の柔らかい体を感じ、湿った唇を間近に見る私は、どうしようもなくドキドキしている。突然のことで何が何だかわからない。
ただ、少し顔を動かせばキスできる
そして
これはいけないことだ
ということが頭の中でぐるぐるしていた。
「キスすれば神様のお国に行けるって、絵本で読んだの」
彼女の潤んだグレーの瞳が、宝石のようだった。
私のすっかり混乱した頭は、彼女のためという大義名分を得たことにより、この美しい娘とのキスがいけないことだという、当たり前の認識ができなくなりつつあった。なぜ私たちがキスすると、彼の銀の蝶が神の国にたどり着けるのか、などという、当たり前の疑問が出てこないくらいの、それはそれは甘美な誘惑だった。
彼女の瞼が閉じられた。
まるで、それが合図だったかのように、私の理性は敗北した。
――蕩けるような甘い感触。
直後、私は苦痛に悶えた。全身を駆け巡る何かが、内側から私の体を焼いている。
喉は、塩酸でも飲んだかのように爛れていくのがわかる。
「……っあぁ! ああああっ! ……っ!」
視界がぐにゃりと曲がり、ぼやけて、私は自分が地面に崩れ落ちたことを知った。
「私の唇は食べちゃだめだって、知ってたでしょ?」
――――ああ、…………これじゃあまるで。私が銀の蝶じゃないか。
ふと目を開けると、テーブルの木目が視界に入った。
はっ、として喉に手をやるが、異常はない。
全身にいやな汗を掻いているのがわかる。心臓がばくばくと早鐘を打っている。
震える指先を抑えつつ、ぬるいアメリカンを一気に飲み干す。
私は、地面に崩れ落ちても、体の内側から爛れてもいなかった。
――ふと前を見ると、きらきらした金色と銀色の蝶が、可笑しそうにひらひら、ひらひらと踊っていた。
私がその後、彼女を見ることはなかった。
金銀蝶 存思院 @alice_in
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