第2話



 二つ隣の駅で降りてスタバに入ると、ダークだのチョコチップだのフラペチーノだの、よくわからない呪文を繰り広げた後に出てきたのはクリームがコンモリと盛られたココアのシャーベット的なスイーツだった。



「おいひぃ」



 確かに、甘くておいしい気がしてくる。ただ、こいつは金額と店の雰囲気的に『マズいとか言わないよな? そんなワケないよな?』と脅迫されているような気がして、手放しに喜ぶことは出来なかった。



「あのさ」

「なんだい」

「今日の昼休み、神楽と一緒に教室に帰ってきたでしょ」

「あぁ、図書室にいたら彼女が来たんだ。暇そうだったから、二人で話をしていた」

「……ふぅん」



【何話してたんだろ。知りたい、知りたい知りたい知りたい】



 俺は、鞄の中から借りてきた例の恋愛読解本を見せて、無意識的にカウンターの上に置いた。隣同士で座っているから、本を見ようと茉莉が位置を俺側に移す。



 肩が当たる。わざとやっているのだろうか、柔らかくて少しドキリとした。



「なにこれ」

「見ての通り。恋愛に有利になる術が書かれてる。あと、心理テストとかの簡単な話題」



 書いてある女子の仕草の答え合わせをするように、グイグイと押し付けてくる茉莉。髪の毛の匂いまで昇ってきて、なんだか変な気分になってくる。



「ちょ、ちょっと離れてくれ」

「あっれぇ? 泉ったら、イヤらしいこと考えちゃってるのぉ?」

「そうじゃない! 考えてしまう前にやめてくれと言ってるんだよ!」

「んふ、えっち」



 流し目というか、誂うというか、とにかく俺を少し見下すような表情で茉莉はニヤニヤと笑った。

 こういう事の耐性は、知識だけじゃ絶対に補えないからな。ある意味、俺にとって一番の弱点なのかもしれない。



「それにしても、泉ってこういうのも読むんだね。いっつも意味わかんない本読んでるのに」

「俺、そんなに教室で本読んでたっけか」



【……またやった。泉が返したのを覗いてるんだから、あたしが知ってたらおかしいじゃん】



 ツッコむのは止めておこう。一見ダウナーっぽく見えて冷静じゃないのはもう分かった。



「なんでもない。何でもないから、ちょっと見せてよ」



 そうして、本をペラペラ捲りながらあーでもないこーでもないという茉莉の講釈を聞きつつ、俺はゆっくりとダークなんとかモカペチーネを完食した。



「流石、恋愛相談に乗ってるだけ実情に詳しいな」

「まぁね、泉の相談にも乗ってあげよっか?」

「相談するほど俺の人生に登場人物は出てきてないよ」

「あは、また変なこと言ってる」



【あたしのこと、何とも思ってないのかなぁ】



 心を隠すようにヘラヘラと笑った茉莉を見て、もう一服つけたところで俺たちは店の外へ出た。



 すると、そこには部活を終えたのだろうか。どうしてこのタイミングなのか、駅前には神楽の姿があった。



「い、泉。……と、茉莉か」

「教室ぶり、神楽」



【な、なんで茉莉と泉が一緒にいるんだ? この二人、付き合ってるのか? 付き合ってるのに泉は私に好きだと言ったのか?】

【その反応、やっぱり昼休みになにかあったんだ。朝もたまに一緒に登校してくるし、絶対に怪しい】



 バチバチと火花を散らすようなやり取りのあと、先に口を開いたのは神楽だった。



「二人で、何をしていたんだ?」

「暇つぶしだよ、神楽」

「……茉莉とは、意味が無くても遊んでイチャツくような関係なのか?」

「いいや、距離感で言えばお前と同じくらいなんじゃないか?」

「ちょっと、それどういう意味?」



【よかった、取り敢えず恋仲というワケではないんだな。でも、あんな事を言ったのに酷いよ。泉】

【神楽との距離感ってなに? というか、デートしてもそこにいるって事は神楽があたしより仲がよかったってことなんじゃないの?】

【私が誘ったとして、果たして泉は一緒に出かけてくれるのだろうか。もし断られたら、ちょっと苦しいな】

【なんで神楽ばっかりそんなに仲良いのよ。ズルい、あたしだって本当は他の男子なんて放っておきたいのに】



 ……なんか、変な汗が出てきた。心を読む力を寄越したあの医者が、この運命に立ち会わせたのだろうか。



 そういえば、精神の情報を頂くとか言っていたが。もしかして、これも――。



「二人は帰るところなのか?」

「えぇ? あ、あぁ。お開きだったところだよ」

「ならば、泉。今度は私に付き合ってくれないか。テーピングを買いに行くところだったんだ」

「ちょっと待ってよ、そんなのってなくない? なんでわざわざ泉に付き合わせるのよ」

「別にいいだろう。今から帰るところだったのなら、茉莉には関係のない話だ」

「はぁ? 意味わかんないんですけど。大体、あたしは全然帰る気なかったから」

「そんなバカな話が通るか。ダメだ、泉は私が連れて行く」

「無理。泉は今から私とお散歩するから」 



 この二人、俺が心を読んでいるのを知っているかのように自分のわがままを言ってくれる。もしかして、言い合いを通して遠回しに俺へ感情を伝えているのだろうか。



 ありえる。女は狡猾だと言うし、女の敵は女だとも言うからな。どう仕掛けるべきか、腹の探り合いをしているのだろう。



 喧嘩すればするほど、俺は面倒に巻き込まれたくなくなるんだけどな。



「3人で行くとかはダメなのか?」

「「ダメ」」



 ならば、仕方ない。ここはフェアに行こう。



「悪い、茉莉。今日のところは神楽に付き合う。女一人だと、遅くなれば危ないから」



 その時の二人の表情は、どちらも泣きそうにも関わらず実に対照的だった。



「……神楽なんて、めっちゃ強いじゃん。危なくないよ」

「腕っぷしは関係ない、そういうのは関係ないんだ」

「そっちを選ぶの?」

「今日のところはな」



 すると、茉莉は何も考えられなかったようで、複雑な表情のまま俯いた。男として、結構酷い事をしている自覚はある。でも、俺にはどっちも両脇に抱えるなんてマネは出来ない。



 罪悪感で、死んでしまうよ。



「明日、空いてる?」

「空いてるよ」

「じゃあ、明日は夜まであたしに付き合ってよ」

「わかった」



 そして、彼女は静かに駅へ向かった。

 その背中を見ながら、俺は『いよいよヤバい事になってきやがった』と、はち切れそうな心臓を抑えながら深くため息を吐いたのだった。



「……どうして、私を選んでくれたんだ?」

「さっきも言ったろ。帰るところだったし、危ないからだ」

「私が、危ない目にあうと思うのか?」

「当たり前だろ、なにバカな事を言ってるんだ」



 すると、神楽は俯いて小さく笑い、弱い力で俺のブレザーの袖を掴んだ。



「ありがとう、泉」



 その淡い笑顔から目を逸らして、俺は小さく呟いた。

 心を読まなかったのは、耐えきれそうになかったからだ。決して、答えを先延ばしにするための口実にしようと思ったワケではない。



 ……いや、自分に嘘をつくのはやめよう。



 俺は、答えを先延ばしにした。二人とも魅力的で、どちらと向き合うべきなのかが分からなかったから。もう少し時間をかけて、俺が恋心を抱く瞬間まで甘えることにしたのだ。



 だが、心を読める俺が恋をすることが出来るのだろうか。その答えは、皆目検討つかずヒントさえさっぱり分からなかった。



「ところで神楽、その顔どうしたんだ? 絆創膏なんて珍しい」

「あぁ、これか。これは、稽古の途中でうっかり意識を逸してしまってな。部員には本気で打ち込めと言ってあるから、男子の正拳を直撃されてしまったんだ」

「あらら、そいつは災難だな」

「彼は、目を白黒させて驚いていたよ。まさか、この私に攻撃が当たるとは思っていなかったらしい」

「もしかすると、神楽の意識よりもその部員の急激な上達が理由になってるのかもしれない。ウカウカしてると抜かれるぞ」

「ふふっ、その通りだな。精進しよう」



 少しだけ静寂、しかし再び声。



「い、泉」

「ん?」

「どうして、私に好きだと言ったんだ?」

「そりゃ、好きだからだよ。構ってくれるからな」



 しかし、俺の口調で何となく言葉の意味に気が付いたらしい。



【……そうか。私の早合点か】



 その時、俺は思った。その傷の理由、神楽が空手から目を背けるほどの考え事について。

 しかし、恋愛とはそういうモノなのだろうか。彼女の生き甲斐を奪うほど、俺は――。



「クス。そういう意味じゃないというのは何となく分かったよ。お前は、本当に罪作りな男だな」

「まさか、そんな言葉を聞くことになるとは思わなかった。謝ったほうがいいか?」

「何を言うんだ、絶対にやめてくれ」



【謝られたら、二度と茉莉と肩を並べられない気がするから】



 そういうモノなのだろうか。よく分からないが、止めろと言うならやめておく。



 まぁ、いい。



 俺は俺で、責任を感じすぎても今度は俺が不幸になるし。そもそも、大したこともしてないのに勝手に向こうから惚れてきたのだから、全部が全部俺がやらなければならないというのはあまりにも酷い話だ。



 段々、この能力に腹が立ってきた。ふざけやがって、せっかくなら女を侍らせても罪悪感を覚えない図太い神経もプレゼントしてくれればよかったのに。こんな、右往左往を強いられるようなギフトだけを寄越しやがって。



 あの医者、今度会ったら一発ぶん殴ってやる。



「テープ、買いに行くんだろ?」

「あぁ、行きつけのスポーツショップがあるから、そこまで付き合ってくれ」

「わかったよ」



 道中も、神楽は俺の袖を離さなかった。口調はいつもと同じで如何にも強そうな感じなのに、仕草と素振りがあまりにも弱々しくて、そのギャップに思わず笑ってしまいそうになる。



「嬉しかったよ、私のことを心配してくれて」

「しつこい奴だな、危ないモンは危ないんだよ」

「本当に久しぶりだ。父以外に、私の安否を案じてくれる男は」

「そんな事ないだろ、本当は部員たちだってお前のことを心配してる」

「ふふ、そうだったらよかったんだけどな。生憎、私はボディーガードに使われる側の女なんだ」

「お前、結構卑屈な奴だったのな。全然気付かなかったよ」



 すると、今度は裾をギュッと握って俯いた。



「そうだ、私は周りに言われているほど明朗でも快活でもない。しかし、それを説明すれば嫌味に捉えられてしまう。私の、誰にも話せない悩みだ」

「違う、それは神楽が素直じゃないだけだ。お前が素直に接すれば、きっとみんな分かってくれる。世界は、そんなに醜く出来ていないんだよ」

「……泉みたいにか?」

「俺みたいにだ、安心していい」



【もうだめだ。いずみいがいになにもかんがえられない。こんなにやさしいひと、ほかにどこにもいない】



 思わず心から目を逸らして、誤魔化すように咳払いをした。俺の代わりなんて幾らでもいるってのに、どうしてそこまで盲目的になってしまうんだか。



「ねぇ、泉」

「今度はなんだ」

「今だけは、私以外の子の事は考えないでほしい」

「意味を教えてくれ、何か相談でもあるのか?」

「恥ずかしくて言えないけど、泉なら分かってくれるだろう?」



 買いかぶり過ぎだよ、神楽。俺は、本来言われないと分からない人間さ。



「さぁ、入ろう。遅くなりすぎると良くない」



 スポーツショップって、こんなモンまで売ってるのか。ヌンチャク、三節棍、トンファー、青竜刀によく分からない棒。

 カンフーで使う武器なんだろうけど、これを買って表を歩く勇気は俺にはない。



「何を見てるんだ、神楽」

「道着だ、新しいのが欲しくて」

「へぇ、これって買い替えるようなモノだったのか」

「あぁ、最近は少し胸がキツイんだ。晒しを巻かないと零れそうになる」

「……そうか」



【それに、おっぱいが大きいとインナーの買い替えも早いんだ。かと言って、サイズを上げすぎると腹回りがブカブカで困る】



「動きにくいのも問題だ。蹴るたびに揺れて――」

「分かった、もう分かったから胸の話はやめてくれ」



【ど、どうしたんだ。男子には聞き馴染みが無さすぎて嫌になったのだろうか。私だって、好きで巨乳になってるワケではないのに。クラスメイトに揉まれるのも、やたら変な気分に――】



「やめてくれ!」

「きゅ、急に大声を出さないでくれ。少し怖いぞ」

「あぁ、いや、すまん。別に、大した理由はないんだ」



 どうやら、本当に悪意なく俺を殺そうとしているらしい。性的なことに関しては、神楽はあまり聡くないようだ。

 しかし、そんな文字列から目を逸らせない俺のスケベっぷりは、如何にも童貞臭くて嫌になってくる。もう少し、余裕のある男になりたいモノだ。



「それじゃ、会計をしてくる。待っててくれ」



 店の前でボーッと夜空を見上げた。幾つかの星が瞬いて、自分がちっぽけな存在だなんて気分になってくる。

 こういうモノを眺めると、俺は俺の価値や意味を忘れられるから好きだ。自分の人生にたいした責任がないと思うほど、他人に優しくしようと思えるのだ。



 所詮、俺は騙し合いや化かし合いの世界で生きていけるようなメンタルの持ち主ではない。ならば、誰かのために生きていくために、常に穏やかにいられるようなロマンを持つのがいい。



 そういう風に、思ってる。



「待たせたな」

「今日は少し冷える、早く帰ろう」

「……少しだけ、遠回りしたいよ」

「ダメだ、そういう約束はしてない」



【無闇に甘えてもダメか。クス、普通の男だなんて自己評価は間違ってるよ。泉】



 こうして、俺たちは足早に神楽の家の付近まで向かい、危険が無いことを確認してから別れの挨拶をした。



「なぁ、泉」

「それで最後にしてくれよ、どうした?」

「明後日は、空いてるか?」

「空いてるよ、完全に暇だ」

「……そうか。ならば、私にもお前の時間をくれ。プランはこっちで練っておく」

「はいよ、それじゃ」



【ずっと、ここにいてくれたらいいのに】



 こうして、俺は恐らく人生で一番長かった一日を終えた。

 風呂に入り、だらし無い声をあげて目をつむり、上がれば父さんと母さんと3人で夕飯を摂って、気の済むまで勉強をしてからいつも通り講談を聞いた。



 スマホには、何通かのラインの通知が届いている。しかし、いよいよ俺の怠けゲージが臨界点に到達したようだ。

 俺は、誰からの連絡もすべて無視して、布団に入るとフロイトの教え通り様々な言葉を無作為に思い浮かべて眠りについた。



 相変わらず、二文字目にも辿り着かず眠れてしまうモノである。やはり、色々と知識を蓄えておけば怠けるのに役立つ。眠るための術なんて、普通に生きてれば手に入らない知識だろう。



 もちろん、俺は身を以て知らなければ理解しない愚者ではある事は確かだが。



 × × ×



 能力を授かってから、既に一ヶ月が経っている。



 そんな中で俺はというと、一日交代で神楽と茉莉と交互にデートを繰り返していた。

 状況だけ説明すると、なんだか俺が二人の女子を誑かしているように聞こえるかもしれないが、実際は完全にその逆。



「昨日は神楽と出かけたのに、あたしとは一緒にいてくれないんだ。どう考えてもフェアじゃないよね?」



【絶対に許せない、あたしの方が絶対に泉のことが好きだもん】



 このように、俺の思い遣りを逆手に取って脅迫まがいなお願いをして、挙げ句に引っ張るように何処かへ連れ回していくのだ。



 果たして、彼女たちを動かしている原動力は本当に恋心なのだろうか。

 俺には、もうとっくに本当の理由なんて忘れてしまっていて、互いの戦いのルールに組み込んだ俺を奪い合っているようにしか思えない。



 ますます、俺でなくてもいいような気がしてくる。このままじゃ、俺はどっちにも恋なんて出来ない。



 気の強い女は好きだけど、幾ら何でもやり過ぎだよ。



「分かったよ、でも疲れてるんだ。どこか、ゆっくり出来る場所で時間を潰すのでもいいか?」

「なら、あたしの家においでよ。今日は両親ともいないから」

「そうかい。それじゃ、遠慮なく」



 放課後になると、校門の向こうまで先に歩いていた俺の元へ茉莉が駆け足で近寄ってきた。二人とも人気者だから、絡んでいる関係をあまり他人に見せたくないのだ。



「ごめんね、ちょっと振り切るのに時間かかっちゃって」

「デートの誘いか」

「うん。まぁ、そんな感じ」

「嫌ならスパッと断れないのか?」

「断っても次々に相手が出てくるから、変に答え出さないほうが楽だって気付いちゃったの」



 そう言って、茉莉はベッと舌を巻く出して俺の片腕を掴んだ。

 跳ね除けそうになったが、なんだかいい気持ちになってしまって、何も言えずにただ前へ歩くことしかできなかった。



【んふ、かわいっ】



 茉莉の家に着くと、俺は彼女の部屋に入って部屋の隅で小さくなっていた。

 考えてみれば、女子の部屋に来るのなんて初めてだ。勝手がわからないし、あまり視線をズラすと良くない気がしてくる。



 つーか、男を呼んでおいて下着を放置するってのはどういう了見なのだろう。それとも、彼女なりの戦略か?境界線が曖昧になるような方法は、あまり歓迎出来ない。



 たっちまったら、どうするつもりなんだよ。俺は、土壇場で自分が我慢できるなんて思わないんだ。



「おまたせ、お茶とお菓子持ってきたよ」

「あぁ、ありがと」



 お盆には、渋茶と金つばが乗っかっている。決して明かしていない俺の好物を知っている理由を探るつもりはないが、これが本当にうまいんだ。



「泉って、本当に和菓子が好きだよね。あんこ、そんなにおいしい?」

「おいしいよ、饅頭も最中も大好物」

「つぶあんとこしあんならどっちが好き?」

「こしあんが好きだ、言問団子なんて最高のお茶請けだよ」

「それ、浅草公演を見に行ったときに食べたんでしょ。おいしいよね」



 茉莉は、もはや俺をストーキングしていた事を隠さなくなっていた。俺がツッコむ事をやめたから、無意識的に許されたのだと思っているのだろう。



 まぁ、実際怒ってはいないけど。ちょっと、背筋がヒヤッときたくらい。



「茉莉は、浅草に行ったことが?」

「ないよ、今度連れてって」

「あぁ、そのうち」



【まだ早い、落ち着いて茉莉。来たばっかりだよ】



 何をムズムズしてるのか、茉莉は俺が茶を飲むところをジッと見ていた。もっというと、茶を飲む口元をジッと見ていた。



 無作法があっただろうか。それに、まだ早いとはなんのことを言っているのか。相変わらず、重要な事の意味がわからない能力だ。



「泉、家でもそんな感じでボーッとしてるの?」

「そうだなぁ。ひっくり返って本を読むか、適当なラジオを流して本を読むか、それくらいだな」

「あたしの部屋でもゆっくり出来てる?」

「そりゃ、もちろん」

「んふ」



 半歩、ジリと茉莉が俺に近づく。俺は、気が付かないフリをした。



「茉莉は、いつもここで何してるんだ?」

「本読んだりするよ」

「本当かよ、あんまりイメージ湧かないな」

「あ、ひっどーい。あたしのこと本も読めないバカだと思ってるの?」

「いや、同じ高校に通ってるんだから俺と同じくらいだと思ってるけど」



【……それは、ちょっと買いかぶり過ぎかも】



 茶に目を落として、再び一息。

 ゆっくり出来てるといったが、実はまるで嘘である。俺は、彼女の匂いにドキマギしてしまっていつものように喋ることができないでいた。



 落ち着かない。これがなんの緊張なのか、自分でも分からないのが余計にモヤモヤする。



「それじゃ、直近だとなんの本を読んでたんだ?」

「意識の諸相、上巻の半分まで頑張ってる」

「で、デイヴィッド・J・チャーマーズってお前。それ、女子高生が読む本か?」

「だって、泉が読んでたから」



 言われ、俺はグッと黙った。確かに、俺と茉莉の知能に大した差がないのなら、彼女が読めたってなんの不思議もない。



 意識の諸相は、哲学的ゾンビであるデイヴィッド・J・チャーマーズの著書だ。上巻では意識下で起きた現実を元に真の問題を探り他理論を批判し、下巻では実験により得た思考データを元に新たなパラダイムを提唱する構成となっている。



 分かりやすく言えば、映画マトリックス。あんなややこしい映画を解き明かす本といえば、どれだけ難しい著書なのか想像しやすいだろうか。



 実際、俺もほとんど理解できてないし。先駆者の艱難辛苦と死屍累々を思えば、ただページをめくって文字を読んだ程度としか形容出来ないほどに。



「俺がそれを読んだのには理由があったんだよ。やっぱり、何となくで読めるモンじゃない」

「ふぅん、目的って?」



 もちろん、俺の心を読む能力について知るためだ。

 言ってみれば、これは不可視の境界線とも言うべき現象だから、俺の意識に基づいて理由を探らなければならないと考えたのだ。



 もちろん、読んでも大したヒントは得られなかったけど。



「自分の事を知るため、というのがシックリくる気がする」

「ふふ、また意味分からないこと言ってる」

「俺にも分からん。ただ、インドで一人旅をしても見つかる答えじゃないのは確かだ」

「あははっ、色んな人に怒られちゃえ」



【でも、そこがしゅき。わからないからてにいれたいんだもん】



 これは、他の男の事を知っている、という意味と捉えてしまっていいのだろうか。それとも、相談と経験を一緒くたに混ぜ合わせてパーソナリティを確立している?



 まぁ、別にそこを疑う思考に興味以外の意図はないけど。



「あたしね、最近は付き合い悪いって言われることが多いの」

「そりゃそうだろう。隔日で暇じゃないと言われれば、今まで構築してきたリズムのズレに不和を覚えても不思議じゃない」

「でね、なんで? って理由を聞かれたたからね」



 お茶に目を移した瞬間、茉莉は俺に肩を預けた。



「……好きな人が出来たから、その人と一緒にいたいって答えちゃった」



 遠い未来の事ではないと思っていたが、思っていたよりもずっと早かった。

 いよいよ、この関係も佳境を迎えたのだ。もう、甘えて引き伸ばす事も出来ないだろう。



 ……これは、審判の時だ。もう、これ以上先延ばしにすることはできない。



 告白。



 俺は、きっとここで答えを出さなければならない。そうしなければ、誰も幸せになれないから。



「なぁ、茉莉」

「……なに?」

「どうして、俺なんだ?」

「どうしてって、すごく優しいし」

「そうか、優しいからか」



【そんなの、決まってるじゃん。優しい以外に、どうやったら恋なんてするのよ】



 もしも、俺が優しくなくなったときに、果たして俺は彼女の心から目を逸らして生きていけるのだろうか。俺が受け入れようとしているのは、俺のことを好きでいてくれる彼女ではないのだろうか。



「こ、これからも、ずっと一緒にいたいと思う。その、誰よりも泉のことが好きだから」

 


 どう贔屓目に読んでも、二人の感情に差はないと俺は思っている。彼女たちは、彼女たちの全身全霊をかけて俺を好きでいてくれているのは分かる。



 だから、付き合う事自体にはなんの嫌悪感もない。むしろ、先に告白してくれた茉莉を受け入れるのが、どちらにも恋をしていない俺の成すべき事なんだとは思う。



 ……けど、俺はここに来てようやく気が付いたのだ。



「ごめんよ、茉莉」



 俺から興味が無くなる瞬間の彼女を、心から恐れている事に。



「え……っ?」



 俺は、恨まれるかもしれない今から目を離すため、決して彼女の心が読めないように、体の距離を誰よりも近くに寄せた。



「ごめん」

「……な、な、なにが?」

「俺は、お前とは付き合えない。今日まで楽しかったけど、俺は茉莉を迎えられるほど器のデカい男じゃなかった」



 水を打ったような静かな空間。その中で、彼女の泣きそうな体の震えを感じながら理解した。



 つまるところ、俺は落ち着いていたい。安心して生活していたいのだ。

 しかし、それは決して金や女を好きにする事ではなく、ましてや生き甲斐とやらをわざわざ見つけるような事でもない。



 ならば、嫌われないように生きることは、俺のモットーである怠けから一番遠いやり方を選ばなければならない。そんな事を、俺は決して望まないのだ。



「だから、無理なんだ。ごめん」

「……じゃあ、なんでハグなんてするの」



 心を読みたくないから。そんなふうに、素直に言えてしまえばいいのに。

 俺は、こうして罪悪感を得たくないから、嘘をつかないように生きてきたのに。



 苦しいな。



「茉莉が、可哀想だと思ったから」

「……ふふ。泉があたしのことをフッて可哀想にしてるのに。そのことで慰めるなんて」



 本当に、なんてマッチポンプだ。バカバカしさに、頭がクラクラする。



 けど、これでいい。俺は、誰かの心を恐れて生きていたくないから。



「帰るよ、明日っからはただのクラスメイトだ」

「……うん」



 そして、俺は茉莉の家から離れた。心がズキズキと痛む。俺を求めていた女子があんなに悲しそうな顔をしたからだ。

 ただ、未来と比べれば今が一番傷も浅い瞬間のハズだ。俺も、茉莉にとっても、正しい選択をしたに決まっている。



 だって、俺の代わりは幾らでもいるのだから。茉莉は、俺と歩まなくたって必ず幸せになれるのだ。



「……ふぅ」



 家へ帰る途中、神楽からラインが届いた。

 どうやら、部活が終わったらしい。ある種の条約的なモノが彼女たちの間で締結されていたのかは知らないが、互いの時間では俺への接触を避けていたようだが。



「どうしても会いたい」



 さっきの出来事を知らないハズの神楽から、こんな言葉を投げられる事になるとは。

 何か、尋常ならざる事件でもあったのだろうか。それとも、昼の時には既に二人で決着をつける話し合いでもしていたのだろうか。



 とにかく、緊急の用事である事は確かだ。俺は、この関係を終わらせる心の準備をしてから、「場所を教えて」と短く返事をした。



「……おつかれ、泉」

「あぁ、お疲れ様」



 駅前で出会った彼女の顔を見て、俺は本当に驚いた。

 なんと、瞼の上が腫れていて、更に青色の痛々しい傷を応急処置の絆創膏で隠していたのだ。



 傷や怪我のある男というのは、何だか戦士らしくてカッコよく思えてしまうモノだが。こと女となると、このジェンダーレスの時代とはいえどうしても可哀想に思ってしまう。



 俺の価値観は、やはり古いのだろう。そんな事を思って、聞こえないように小さく息を吐いた。



「少し、歩いてもいいか?」



 無言の神楽に誘われたのは、広い公園のベンチだった。俺は、近くにあった自動販売機で温かい緑茶を二本購入し、一本を神楽へ渡して隣りに座った。



「ありがとう、泉」

「いいよ」



 向かい合わなかったのは、彼女の心を読みたくなかったからだ。これ以上同情してしまうと、俺も何をするのか分からない。



「ワガママを言ってごめん、どうしても会いたくなってしまったんだ。泉のことが気になって、練習に集中出来なくてなこのザマだ」

「なんだ、空手は生き甲斐じゃなかったのか?」



 すると、神楽がペットボトルを強く握って唇を噛み締めた。今の皮肉は、冷た過ぎて俺らしくない。いつもより、余裕がないのが嫌でも分かってしまう。



「……うん」



【だって……っ】



 素直に受け止められて、何を言いたかったのかがどうしても気になって、神楽の胸元へ目線を落としたが。心の中にも、何も言葉は浮かんでいなかった。



「お茶、飲めよ。体冷めるとよくないぜ」

「あ、あぁ。そうする」



 一口飲んで、深く息を吸い込む。そして、俺から少しだけ距離を離すと、神楽はもう一度深呼吸をして徐ろに口を開いた。



「私が強くいられたのは、泉がどこにも行かないと思っていたからだった」

「……なに?」

「泉は、いつも一人でいただろう? 特に寂しがるような素振りも見せず、嫌味なことも言わず。それでいて、私の事を優しく慰めてくれた」



 別に、一人でいることを臨んだワケではないのだが。その客観的な事実は甘んじて受け入れる事にした。



「羨ましかった。そうやって、一人で自由に生きられる泉の力が。だから、私はいつの間にかお前に憧れていたんだ」



【きっと、恋をしても誰にも取られることがないって、ずっと安心出来るって確信したから】



「でも、そうじゃなかった。きっと、私のように泉に憧れている女子は多い。大人に見えて、余裕があるように見えて、それでいて優しいんだ。むしろ、そんな男子が気にならない方がおかしい」



【本当は、スケベなのかもしれないけど】


 

 その通り。



「私は、きっと見ないフリをして安心していただけだったんだ。泉が陰で話しているのは私だけじゃなくて、茉莉や、他の女子だっていた事を無意識的にな」



 ……。



「その事実が、浮き彫りになった。茉莉は、やはり泉のことが好きだった。なら、一人でも存在を知ってしまったら、もう見ないフリは出来ない。きっと、明日になればいつものように褒めてくれる泉が、ある日いなくなってしまうと思ったら、私は。私は――」



 言葉に詰まった神楽は、目に涙を浮べて俯いた。



【嫌だ、泉がいなくなる事だけは嫌だよ】



「泣くだなんて、ズルいのは分かってる。ふ、フラれるまでは、泣かないように頑張ろうと思ってたんだ。だって、たくさんいる中から私のような女を選ぶワケがない。泉に優しくしてあげられる女子もいるのに、お前に厳しい言葉を吐くことでしか関われなかった私が選ばれるワケがないから……っ」



 あぁ、そうか。



「なぁ、神楽」



 俺が、安心して生きている事を頼りにしてる奴ってのもいるのか。



「な、なに?」



 ……最後の言葉を伝える前に、そういえば神楽の心を読んだって、一度も浮かんでいなかったハズの重要な気持ちがある事に気が付いた。

 やはり、心を読んだって本当に大切なことは何も分からないモノなのだ。



「まだ、あの時の答えを聞いてなかったよな」

「あのとき?」

「お前、俺のこと好きなの?」



 息を吐くまで、時間が止まっているような気がした。空からは、季節的にもまだ早い、白い雪が舞っている。



 やがて。



「……好きだ」

「そうか。なら、俺はお前以外の奴のところには行かないよ。これからも、ずっと最強で居続けるといいさ」



 手が悴んでいるから、俺は神楽の手を握って目を見た。彼女は、何が起きているのかもさっぱり分からないといった様子で惚けていて、かと思えば。



「わ、わた……。えっ?」



 ようやく言葉を飲み込んだらしく、泣きっ面をポッと赤く染めて口をポカンと開けたまま、俺から目を離せないでいた。



「冷たいな、手」

「あ、う、うん」

「ちょっと、ゴツゴツっとしてるな」

「ご、ごめん」

「ここに来るために、よく頑張ったんだな」

「……うぅっ」



 神楽は、胸の前に文字を浮かべず、しかし俺が手を握っているから隠すことも出来ず。ただ、ポロポロと涙を流して嗚咽を漏らしていた。

 まったく、罪作りとはよく言ったモノだ。初めてカノジョが出来て、まず初めにしたことが泣かせることだなんて。



「俺は、頑張り屋さんが好きだからさ。お前のためにも、精一杯怠けてダラダラ生きる事にするよ」

「ふふっ。あ、あはは! ……あぁ。約束だぞ、泉」



 × × ×



 これまでのエピローグとか、これからのプロローグとか、そういうありきたりなモノはない。なぜなら、一ヶ月前までの元の自分に戻っただけだからだ。



 ただ、朝ごはんを食べて、適当に授業を受けて、本を読んで漫画喫茶へ行って、そして夜にも娯楽を貪って生きているだけだ。



 元々、神楽の公式戦は誘われるままに見に行っていたし、勝敗を確認すればカノジョと話さずに帰宅していて、神楽を恋人にした今でもそれは変わらない。



 だから、本当に元のままだ。恋人という形を手にしただけで、ずっとダラダラダラと生きている俺でありますよ。



 ……あぁ、そうそう。



 茉莉には、何やらとんでもなくカッコいい先輩のカレシが出来ていた。

 俺との関係を終えて、確か一ヶ月くらいの話だったハズだ。わざわざ俺の席まで自慢しにきたから、記憶力の悪い俺でも覚えている。



 そりゃ、そうさ。お似合いのカップルだと思ってるぜ。



「ふぅ」



 そんな事を考えながら、俺は何度目か分からない意識の諸相の読了を得た。

 物理主義に抗うという意味で言えば、これほどまでに俺の状況とマッチしてる参考図書も少ないと思う反面、やっぱり頭が良すぎて理解ができない。



 ただ、どうせどの人間も物理的な真理との間にギャップを感じているのなら、俺は俺の意識の中で出来ることを探すまでだと思った。せっかくだし、俺にしか出来ない事をするべきだろう。



 ……最初に考えた事と、何も変わったちゃいないな。



「遅くなった、泉」

「あぁ、おつかれ」



 しかし、答えを応用する術に関しては少しだけ変化した事もあると自分でも思う。



 なぜなら。



「なぁ、神楽」

「ん、どうしたんだ改まって」

「今日もかわいいな。好きだよ」



【しゅ、しゅきしゅき! わたしもしゅき! なんかよくわからないけどほめられちゃった! しゅきしゅきしゅき!」



「きゅ、急に何を言うんだ。まったく、ここは図書館だぞ」



 フェアじゃないが、こうやって無警戒のカノジョを誂って。心と言葉のギャップを楽しむことを覚えたからだ。

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【中編】目が覚めたら人の心が読めるようになっていたラブコメ 夏目くちびる @kuchiviru

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