本文(各章一場面)

【第1章】


 彼の幼馴染は時折、ぼんやりと朝日を眺めるのが好きだった。それを知ってかどうかは分からないけれど、彼もまた時折早起きするようになった。


「あぁそう」

「ねえ聞いてる?」

「聞いてるよ」

「じゃあなんて言った?」

「さあ」


 肩に小さな衝撃が走る。隣を歩く少女、海島真夏の拳が藤山充めがけて飛んできていたからである。

 充は呆れたように目を擦りながら、ふわりとあくびを一つしてみせる。真夏はムッと口を結び、彼の言葉を待った。


「眠いんだよ」


 あまりにも想定通りで、真夏はもう一度肩に拳を飛ばす。


「もう。昨日遅かったの?」

「いや別に。早起きしすぎた」

「なんで?」


 互いに家が隣同士で、2階にあるベランダに顔を出せば、鉢合うことだって少なくない。

 充は不思議と早く目が覚める日が多くなっていた。朝日が昇り始めたころ。もう一度眠りにつこうと思いたくなる、冷える春先の朝。それでも彼はベランダに顔を出した。

 今日は、隣に彼女が居なかった。仕方ないから、ジャージの上から薄手のコートを羽織って朝日が来るのを一人待つ。そうやって睡魔を野放しにしていたから、今に至っているわけで。


「ちょっとミツルってば」

「え、ああなに?」

「ビンタして起こしてあげようか?」

「遠慮します」

「じゃあ、今日の放課後付き合ってよ。勉強教えて」

「どうせノート丸写しするつもりだろ」

「そうそう! あはは!」


 バンバン彼の背中を叩く真夏は、学校に近づくたび明るくなっていく。その様は充と対照的で、彼は分かりやすくため息をする。

 すっかり登った春の太陽は、彼らが纏う制服のブレザーを確かに温める。長時間いればうっすら汗が滲むぐらいに春の足音がする。


「進路、決めた?」

「うん。首都大志望」

「変わってないんだな」

「そりゃあ、変わらないよ。簡単にはさ」


 真夏は言う。明るさの中に切なさを感じる声で、充は思わず固唾を飲んだ。黒髪のショートヘアが良く似合う彼女は、妙に色っぽくて。


「ミツルさ、まだ決めてないでしょ」

「なんで決めつけるんだよ」

「決まってるの?」


 予期せず顔を覗き込まれたせいで、充は言い返す言葉を見失ってしまった。


「ほらー目逸らしたー」

「うるさいな。関係ないだろ」

「む。そんなことないと思うな」

「なんでだよ」

「それは……その」


 充が彼女を見下ろすと、つい数秒前の自身を見ているようだった。少なくとも形勢逆転した事実は分かったが、ここで追撃するのは気が引けたようで。立ち止まる彼女に合わせることにした。


「ほら、遅刻する」

「う、うん。分かってるってば!」

「怒んなって」

「怒ってない! アホ!」

「朝から暴言やめてくれませんかね」


 物心ついた時から、二人は一緒だった。

 偶然、隣の家で同じような境遇の家族。進路も幼稚園から高校まで同じで、もはや家族と同じぐらいの関係性である。

 それゆえに、少しだけ不安になったのだ。大学では充が近くに居ないかもしれない。困りごとがあれば、何かと頼ってきただけに。


「だってほら、ミツル基本的にボッチだし」

「決めつけんな」

「違うの?」

「断じて」


 ある意味、双方の言う通りだった。充が言うように、友達が居ないわけではない。ただ、真夏が言うように常日頃誰かと一緒にいるわけでもない。

 クラス内でも、ひどく中途半端な位置付けである。それは本人も理解しているが、別に気にしているわけでもなかった。

 先週からの新クラスでも、同じように立ち回るつもりだったから。

 対照的に、真夏は学内の人気者だった。快活で、冗談も言い合える。加えて、ショートヘアが良く似合う可愛い女の子であった。


「彼女のひとりぐらい連れてくれば良いのに」

「ぜってー真夏には会わせないからな」

「えーの間違いでしょ。居ないから」

「お前な……」


 今日は随分と突っかかってくる。充の眠気は気がつけば二時間目まで飛んでしまったようで、さっきまで重かった瞼はすっかり軽くなっていた。


「置いてくよー!」


 そのせいか、駆け出した彼女の姿がよく見えた。



【第2章】


 藤山充は耳を疑った。偶然再会した中学の同級生、千々石ちさとから遊びに誘われ、入ったファストフード店。聴き慣れたBGMと久々に聞く彼女の甘ったるい声。「ダイエット中だから」と言いながら、ミルクティーを吸い上げる様に突っ込むことすら忘れていた。


「どうかな?」


 痺れを切らしたようで、唖然としている充に問いかけてくる。ちさとの目を見る。小動物のように可愛らしく整った顔立ち。中学の頃もすごく人気があったと思い出していた。


「どうって言われても……」

「困惑するよね。ごめん。それを承知でお願いしてるの」


 どうやら本気らしいと、充は呆れたような感情を表情に出してしまう。ため息が出なかっただけマシだと思うことにして。


「千々石、そんなこと言うヤツだったんだな」

「そんなこと?」

「冗談ってことだよ」

「だから違うよぉ!」


 頭が柔らかいわけではない。にしては、どうしてそんな言葉が出てくるのか不思議でならなかった。

 充は惰性で頼んだメロンソーダをストローで啜る。口の中を刺激する炭酸は、砂糖の味に変わってしばらく口内を泳ぐ。ちさとの甘い声も相まって、胸焼けしそうな気分だった。


「分かってるよ、分かってる」


 自分に言い聞かせるように、ちさとは言葉を紡ぎ始める。


「確かに、フジヤマ君にお願いすることじゃないと思う」

「普通は誰にもしないと思う」

「う、わ、分かってるよ。浮気相手になってくれなんて、私だって生きてるうちに言うなんて思ってなかったんだよ?」


 どうだか。充は口にしようか悩んだが、仕方なく飲み込むことにした。一方的に彼女を否定するのは違う気がしたらしい。

 ちさとは、充たちとは意匠の違う可愛らしい制服を見に纏っている。中学を卒業して以来の再会にしては、随分の重苦しい空気感だった。


「と言うことは、相手が居るんだろ?」

「一年付き合ってる彼がいる」


 高校生の恋愛にしては、かなり長続きしていた。だからなおのこと、充は否定的になる。もし相手にバレたら、怒りの矛先が自身に向けられてもおかしくないからだ。

 だが、ちさとは「それはない」と否定する。充が理由を問うと「彼は優しいから」と笑って見せた。


「それ彼氏泣くぞ? マジで冗談やめとけって。俺が当事者なら耐えられない」


 紛れもない本心だった。彼にとっては回答同然でもある。メロンソーダを啜ると、乾いた音がなる。空気と氷がぶつかる独特の音。緑色が無くなった証でもあった。


「それが、いいの」

「……え?」


 ストローの位置を変えて、僅かに残る液体を啜ろうとした矢先であった。充は思わず視線を上げる。すると、口角を上げて微笑む彼女が目の前には居た。


「彼ね、すごく私のことを求めてくれるの。ちさとには、俺が居ないとダメなんだ、って、そう言っていつもそばに居てくれるの」

「千々石……?」

「求められたいの。彼に必要とされたいの。ただそれだけなの」


 ゾクリと背筋を抜ける寒気は、やがて手先にやって来る。痺れて動かしづらくなったから、紙カップから手を離す。

 目の前にいるのは、自身が知らない存在であった。千々石ちさとの見た目をしている別人ではないか、と充は考えてしまう。


「な、ならさ。別に浮気とかしなくても」

「私がよそ見をすればするほど、彼は私のところに来てくれるんだ」

「それは――」


 好意でもなんでもない。そう続けるはずだったが、この空間はすっかり千々石ちさとに飲み込まれてしまっていた。


「大丈夫。口裏だけ合わせてくれればいいから」

「そ、そう言われても」

「会うこともない。ただ気になる人がいるかも、ってそそのかしたいの。そうすれば、彼はまた私を求めてくれるから……」


 メロンソーダの甘さが、今は恋しくすら思えてしまったのだ。


【第3章】


 真夏の元陸上部の肩書きは凄まじく、かなりの知名度を誇っていた。と言うのも、成績ではなくその抜群のルックスにある。

 本人も少し自覚しているようで、あまり良くは思っていない。大会時は他校の男子生徒から連絡先を聞かれることも多かったぐらいだ。


 ただ、出待ちを食らったのは初めてだった。その顔には見覚えがあった。


「びっくりしたよ。キャプテンになったんでしょ?」

「おかげさまで。メンバーに入るかは分からないけどね」


 そう言いながら、上品にコーヒーを飲む男。道ヶ丘高校陸上部の主将、松嶋龍徳である。

 真夏とは同学年で、大会時に面識があった。龍徳は整ったルックスで女子人気はかなり高い。だが一途に彼女を想う一面があり、それもまた女子の好感度を上げまくっていた。


 美男美女がチェーンの喫茶店で向かい合っているわけで、自然と場の空気が彩られたようになる。


「海島さんも元気そうで。ケガはもう?」

「うん。痛くないし、全然問題ないよ」

「そう。今から戻る……わけもないか」

「あいにく、受験モードなもので」


 彼女の愛想笑いに、龍徳もつられて笑う。

 思いのほか、二人の間には距離感があった。それは互いに理解していたが、真夏は彼が訪れた理由が読めなかった。


「私に何か用があるんでしょ?」


 真夏の問いかけに、グラスをカチャリと置いて頷く龍徳。その神妙な面持ちに、彼女は無意識に体に力を込める。


「最近、彼女がよそよそしいんだ」

「…………はい?」


 拍子抜けであった。力の抜けた声で聞き返すと、龍徳は慌てた様子で言葉を足す。


「こんなことを海島さんに相談するのはおかしいと思う。だけど、他に女子の知り合いが居なくて」

「え、松嶋君すごくモテるじゃん。たくさん居るんじゃない? それこそ、同じ学校にも」


 真夏の疑問はもっともであった。

 彼の端正なルックスは同校のみならず、他校にも知れ渡っている。本気を出せば、その辺の女子高生でも話し相手になってくれるだろう。


「申し訳ないけど、変な噂を立てられたくないからさ。陸部の女子から海島さんは面倒見良いって聞いて」

「あー……」


 心当たりがあった。大会時の待ち時間で他校生徒と雑談することも少なくない。そこで恋愛相談に乗ることもあったのだ。

 道ヶ丘高校も例に漏れず。だから龍徳と言うことはある意味正しかった。


「そんな大層なことはしてないよ」

「それでも良いんだ。話を聞いてくれれば」

「なんか必死みたいだし、分かったよ」


 完全な興味だった。おそらく、道ヶ丘高校の女子生徒からすれば、この話はビッグスクープである。誰かに漏らせば、その翌日には広まりきるだろう。

 だが、真夏はそんなことをするタイプではなかった。口は堅く、たとえ藤山充から問われても割ることはない。そもそも、彼が無理に聞き出してきたこともないが。


「彼女とは一年付き合ってるんだけどさ、最近メッセージの返信遅いんだ」

「疲れてるんじゃない?」

「SNSは更新してるのに?」

「それとこれは別物だよ」

「そう、なのかなぁ」


 龍徳は首を傾げる。納得した様子はない。「前までは10分もすれば返ってきてたからさ」と自身に言い聞かせるように言う。

 真夏は少し驚いていた。人は見かけによらないものだと。こう見えて、龍徳は結構女々しいタイプなのだ。それがビックリでもあり、がっかりでもあった。


「よそよそしくもあるんだよ?」

「俗に言う倦怠期とか」

「倦怠期……」

「一年も付き合えばそうなると思うよ」


 偉そうに言うが、真夏に恋愛経験はない。だが周りは彼女のルックスを見て「経験あり」と決めつける。真夏は言うにも言えない状態になっていた。


「俺は、すごく好きなんだ。なのに倦怠期なんて……」

「彼女さんはどう思ってるんだろ」

「それが分からないんだ。だから怖いんだよ」


 視線を落とし、グラスを手に取る龍徳。先ほどよりも力無く、肩を落としている。


「愛情が重すぎてもツラいから」


 彼は、ぴくりと鼻を動かす。コーヒーを飲み終わると、先ほどよりも丁寧にテーブルに置いた。


「俺、重かったりする?」

「あぁいや! そういうわけじゃなくて」


 慌てて否定したが、それは表面上だけであると彼女は分かっていた。

 まるで恋人のことしか見ていない恐怖感。それが普通かどうかなんて、今の真夏が理解できるはずもなく。ただ、充が同じような相談をしてきたらハッキリ「重い」と断言する自分があった。


「いずれにしても、少し距離を置いてみたら? 考えすぎも良くないよ」

「……と言うと?」

「例えば……一週間ぐらい松嶋君から連絡しないとか」

「そんなことしたら嫌われないか」

「だって返信遅いのは彼女さんでしょ?」

「それは……そうだけどさ」


 松嶋龍徳という男は、あまりにも優しすぎた。相手に合わせることは抜群に上手いが、自分自身の決断には自信がない。だからこそ周りを生かし、まとめ上げる主将に選ばれたのだ。部として話し合うことができ、それは自分自身の意見ではないのだから。


「私から言えるのはそれぐらいだよ。彼女さんのことも知らないし、あんまりいい加減なことは言いたくないから」

「いや、助かったよ。面倒見が良いと言われる所以もよく分かった」

「それはどうも」


 海島真夏のアドバイスに何のよどみもない。それは事実。

 だが、彼は真夏が思っている以上に恋人へ溺れていたのだ。


【第4章】


 梅雨が明け、夏休みの足音が迫っていた土曜日。藤山充はどんよりと湿気の中に立っている気分だった。太陽はこれでもかと熱く地上を照らしているというのに。

 普段中々来ない駅ではあったが、彼が思っていた以上ににぎわっていた。


「お待たせ。待った?」

「すごく」

「もうっ。そこは待ってないでしょ?」

「浮気してるヤツに言われたくないって」


 あはは、と千々石ちさとは笑う。初めて見る私服姿は、彼が想像していた通り非常に甘い色をしていた。同時に、あまり好みではないと直感が訴えかける。胸焼けしそうなクリームみたいな匂いとともに。

 彼女の行動はエスカレートしていた。充を使って彼をもてあそぶ快感を知ってしまったせいか、自身の生活範疇に充を巻き込みつつあった。

 この日だって、二人で買い物である。初めてではあったが、充は良い気分ではない。「彼の誕生日プレゼント選び」との名目だが、それは本当に建前に過ぎないわけで。ほかの男と選んだと知れば、自分だったら萎えると、充はため息をする。


「今日のこと、彼氏に言うんだろ?」

「ううん。ハッキリとは言わないよ」


 思いがけぬ返事で、彼は戸惑った。けれど、ちさとは続ける。


「誰かと行った、って事実を伝えるだけで、彼は考えてくれるの。そうして、私のことを見てくれる。私だけを」

「それなら女友達と行けよ」

「既成事実は欲しいからね」

「狂ってる」

「そうかなぁ」


 そうだよと追撃しようとしたが、先に口を開いたのはちさとだった。


「フジヤマ君もそうじゃない?」

「一緒にすんな」

「だって、ウミシマさんの名前出したら弱いじゃん」


 チクリと、割と太めな針で心臓を刺された感覚だった。

 藤山充という男は、元々こんな馬鹿な話に乗る人間ではない。今回だって、何が何でも断るつもりでいたのだから。それがこんなことになってしまったのは、ちさとの上手さがあった。


 中学の同級生なのだから、当然ちさとも真夏のことを知っている。特段仲が良かったわけではないが、充と真夏が幼馴染であることは周知の事実。そして、二人の関係性は恋愛に発展してもおかしくないソレだと。


「フジヤマ君って意外と分かりやすいよね」

「うるせ。さっさと行こう。帰りたい」

「あー逃げないでよぉ」


 ちさとを置いていく勢いで歩き出す。行き先は何も聞いていないが、適当な店で適当に選んで帰れば良い。その程度にしか考えていなかった。


「あ」


 通りがかった雑貨屋から出てきた少女は、思わず声を出した。自身の顔見知りが目の前を通り過ぎようとしていたからである。


「おっす! ぼっちのミツル君」

「げ、真夏……」

「なに『げ』って。ひどくない?」

「いやまあ……」


 充は動揺していた。この場面を彼女に見られるわけにはいかない。咄嗟にそう思ったからである。真夏からすれば、二人のいびつな関係性を知らない。普通にしていれば何も問題はないのだが、彼はそこまで器用でもなかった。


「あーウミシマさんだー! 久しぶりっ」


 彼の背中越しから匂う甘ったるい香水。真夏は嫌悪感を顔に出さないように慌てて取り繕った。

 久しく聞いていなかった声だったが、一気に記憶が蘇る。あぁいたなこんなヤツ、と真夏の中に眠る闇が躍る。


 そんな彼女が、ピタリと充の隣に付くもんだから、真夏は思わず声を失ってしまう。


「えー……あー……そういう感じ……?」

「断じて違う。今日のことは忘れてくれ」


 彼は力を込めて否定するが、それもまた相まって、真夏は愛想笑いするしか出来なかった。

 なんだよそれ、高校生の良くある言い訳じゃん。彼女の心の声は、今にも言の葉となって空気中を舞ってしまいそうだ。


「おーい。ウミシマさん」

「あ、えっと、久しぶり。千々石さん」

「えへへ。覚えててくれて嬉しいな」


 真夏は心底イラついた。彼女は自身と対照的であったから。何より、そんな彼女と彼が一緒に居ることに。今すぐ殴りかかりたくなるほどにはムカついている。


 そんな彼女を知ってか知らずか、ちさとは煽るように笑って見せる。


「そんなヤキモチ妬かなくても大丈夫だよ」

「は、はぁ!? そ、そんなんじゃないし」

「どうかなぁ。あはは。ま、本当に付き合ってるとかじゃないから」


 ちさともまた、快活な彼女に苦手意識を持っていた。中学時代は一度も同じクラスになったことはないが、噂は出回る。このルックスなのだ。当時好きだったクラスメイトも、真夏に惹かれていた一人だった。

 だから、彼女は気味が良かった。あの時の復讐が出来たみたいで、彼に求められるのとは違った快感が心を覆い尽くす。


「行こ? 


 良い性格をしていると、ちさとは自嘲した。初めて充を下の名前で呼んで見せた。海島真夏という、幼馴染の目の前で。彼は戸惑っているが、真夏の目の前ということもあり、平静を保っているようにも見えた。

 ちさとが真夏に背を向けて、一人歩き出す。だが彼は、それとは反対方向に足を進めた。


「紹介してないだろ」

「えっ?」

「彼女できたら連れてこいって言ったのは真夏だろ。そうしてないってことは……。分かれよアホ」

「イテッ」


 優しいデコピンが、彼女の額をうっすら赤く染める。

 太陽を光をよく吸収した黒髪から、柑橘系の甘い匂いが舞っていく。


「じゃあな。また学校で」


 額を抑えながら、遠くになっていく彼の背中を見つめるしかできなかった。心の距離が少しだけ離れてしまったみたいで。


「そういうことじゃないって……ムカつく」


 夏は、まだ始まったばかりである。


【第5章】


「なんで付いてくるんだよ」

「べ、別にいいでしょ? ミツルには関係ないじゃん」


 ある種の修羅場である。自身の相談相手が二人並んで歩いている。いや、これが元鞘なのだから何も問題ない。しかし、二人は気が気でなかった。

 自身との関わりがバラされれば、なんと言い訳しようか。浮気相手とは名ばかりで、ソレらしいことは何一つしていない。だが、やはり聞こえはめちゃくちゃ悪い。充としては、なんとしてもバレるわけにはいかなかった。


 藤山充と海島真夏。よりになって二人が一緒に帰っている時に遭遇してしまった。充は理由付けて彼らの後を尾けるが、そんなんで振り払えないのが真夏であった。


 そんな二人に気づいていない千々石ちさと、松嶋龍徳。歩く度に手が触れるけど、繋ぐ気配はない。もどかしさすら覚えるが、それは杞憂に終わる。人気のない路地裏に消えていったのである。


「ちょ、ちょっと! ヤバいんじゃない!?」

「興奮しすぎだって」

「だってミツル、あそこで何するか分かんないの?」

「分かんないから見に行くんだろ」


 冷静な充であるが、それが表面上だけだと真夏はいとも簡単に見抜いた。


「覗きたいだけでしょ。サイテー」

「………さあて、イクカ」

「無視すんなコラ」


 それなりに痛い拳が肩にぶつかる。

 だが、興味があるのは真夏も同じ。彼と同類になるが、気にしないようにして後に続く。

 そもそもが人気のない道。路地裏を覗き込むことに不審がる視線もないのだ。


 ゴクリ、と充の固唾が動いた。真夏の冷めた視線が彼を襲うが、無視して路地裏を覗き込んだ。彼女も続く。充の肩に手を乗せて、後ろから顔を出す。


 だがそこには、想像したような姿の二人はなくて、ただ壁際にちさとがいて、龍徳がその前に立っている。


「……ほかに気になる人が、できたの」


 龍徳は声にならない声を出して、分かりやすく狼狽えて見せた。けれど、それは充と真夏も同じで。特に真夏は気になる人が「ミツル」だと直感的に察してしまったようで。


(……ちょっと痛いって)

(うっさいバカ!)

(えぇ……)


 左肩が千切れてしまう前に、彼は意識を目の前の二人に戻す。だが、充は分かっていた。それもこれも全て、ちさとの妄言であると。

 ただ、根拠となる相手が居ればそれで良い。充のことを好きでもなんでもないが、二人で出かけたという事実が彼女をそうさせた。


「だから……リュウ君とはもう……」


 充から見て、ちさとの演技は怪物的だった。あれは自分が知らない存在で、人を陥れる天才的な生き物。証拠に、龍徳の呼吸は荒くて、肩が上下に動いている。


「俺は……」


 真夏は心底ムカついていた。だから、言ってやれと願う。「もうお前とは付き合えない」と。龍徳は心の底で別れを願っている。真夏は、その背中を押してきたつもりだ。だからこそ、ここで言ってやれと念ずる。


 しかし、彼の口から出てきたのは正反対のモノだった。


「ちさとのそばに居たい。ただ、それだけで幸せなんだよ」

「でも……」

「ちさと!」


 そう言って大柄な龍徳が、ちさとの体を包み込む。人気がないとは言うが、人目を憚らず抱きしめたのだ。




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