想定外なこと

三咲みき

想定外なこと

 こんなハズじゃなかった。

 壁にかかった時計をチラッと見る。何度この動作を繰り返したことだろう。針は先程より5分も進んでいなかった。12時まであと30分以上もある。

 視線を目の前のパソコンに向け、なんとか集中しようとする。しかし一度気になったものから注意をそらすのは至難の業だ。



 転職してから2週間が経った。仕事内容はデータ入力、書類作成、電話対応とよくある一般事務だ。

 前職は接客業だった。安い賃金で時間に追われながら笑顔で接客。それに疲れて転職した。

 初めてのデスクワークではあるが、仕事内容も自分に合ってる、人間関係は良好、お給料も申し分ない。なのにまさかこんなことが悩みの種になるなんて。

 事務職に就いて、こんな悩みが待ち受けていようとは、転職活動中には思いもよらなかった。


 はぁ…………………。





 自分のおなかをさすった。





 おなか空いた………………。


***


 朝どれだけしっかり食べてもダメ。パンから白ご飯に代えてもダメ。玉子料理を一品増やしてもダメ。11時を過ぎると必ずおなかが空いてしまう。


 おなかが空くと何が問題か。音だ。

 "グー"とか"キュウ"とか可愛い音ならいい。私のは残念ながら"ゴーギュルギュルギュル"と、それはそれは20代の女子から鳴るとは思えないえげつない音だ。

 オフィスは誰かが普通の声量で話せば、それがフロア全体に聞こえるほど静かだ。右斜め前のデスクには、気になる先輩もいる。彼には絶対に音を聞かれたくない。


 おなかを極限までへこませてみたり、咳払いをしたり、椅子を後退させてみたり、座り直したり。音が鳴りそうになるたびに、それでなんとか気を紛らわせてきた。そのかいあってなんとか恥をかかずに済んでいるものの、おかげで全く仕事に集中できない。


 接客の仕事をしているときは、おなかの音なんて全く気にならなかったのに。誰か面倒臭い仕事を頼んでくれないだろうか。そうすれば気を紛らわすことができるのに。


 おなかがすいたのなら、お菓子でもなんでも食べればいい。仕事中の飲食が禁止されているわけではない。現に隣席の先輩は、お菓子が入っている小物入れを常に机に置いており、つまみながら仕事をしている。

 自分もそうすればいい。お菓子を食べている人はたくさんいるのだから。

 しかしここに勤めてから2週間。私は勤務中にお菓子を食べたことがない。だからその姿を見られるのはなんとなく恥ずかしいのだ。


 あーヤバい…………。また鳴りそう。


 一度引いた空腹の波が押し寄せる。

 おなかを極限まで引っ込めて、机とおなかがくっつくくらい、椅子を引き寄せてみる。自然と息が止まる。


 耐えろ………私のおなか…………………。

 このまま波が引くまで…………………。


 そのとき………


「井上さん」

「はい!」


 自分を呼ぶ声に反射的に返事をした。その拍子に一気におなかが弛んで………


 ゴォォォォォォ


 すさまじい音をオフィスに投下してしまった。


 私を呼んだ隣席の先輩は、「あっ……」と言って、恥ずかしそうに下を向いた。恥ずかしいのはこっちだというのに。

 そして「いる……?」と言いながら、お菓子の入った小物入れを差し出した。


「いただきます………」


 クッキーの包みをそっとカゴから取った。俯きながら包みを開けてそっとクッキーを口に運ぶ。くるみの香ばしい匂いが口いっぱいに広がった。


 右斜め前の席を見ると、先輩がこちらを見て笑っていた。顔に熱が一気に集中する。

 



 明日からお菓子を持参すると心に誓った。

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想定外なこと 三咲みき @misakimaru

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