これからの時代における『創作』

@simizu0613

第1話

 『創作』というものに、変革が起きようとしている。

 具体例を挙げれば『AIを利用したイラスト制作』『virtualを活用した動画活動』

 最近ではTwitterにてこの二つの事例は大きく取り上げられている。

 AIがイラストを作成することによって、現職のイラストレーターたちが食い扶持を無くしてしまうのではないか……。炎上とか、賛成や否定。憶測なども飛び交っていたりと、忙しい。

 方やvirtualというのは、俗に言う『Vtuber』のことを指している。Twitterを覗いてみれば、トレンドの中に必ず見かける、ライバーと呼ばれる人たち。


 私たちも小さな頃は『ネットで小説が読めるんだよ!』とか『ゲーム実況ってのがYouTubeであるんだよ!』とか、YouTuberとか。いろいろと、目新しい物を発見しては話題にしていたし、それを受容して、生活の彩りに加えていたはずだ。


 より昔の話をすれば、油絵が写真の普及で需要が衰退していったり、バンクシーの作品は芸術なのか否か。で、物議を繰り返したり。

 物事の形は違っても、問い続けることに変わりはない。

 いずれも私たちは『変化』について、意見やぎろんを口ずさむのだ。


 そのたびに、きっと一つの時代の終焉とやらを体験してきた人はいるだろうし、新しい技術の犠牲になった多くの創作者がいたはずだ。


 そしてその都度、変化する創作は『変革』を起こしてきた。


 一つのキャンバスがあるとして、色を塗って、塗り重ねて、私たちはここに居る。レイヤーに分割されて、何度も何度も、変化してきたのだ。


 今回はそんな、変化についてのお話をしたい。


 創る上で、私たちに今後必ずと言っていいほどついてくるであろう、時代。そしてそれに尾を引いてついてくる技術。これらについて、私の個人的な意見を述べさせていただきたい。


 (意見を述べることにおいて、三つの『変革』を軸にして話を進めることをご了承願いたい。また、この意見に関しては確定できるエビデンスや、判断材料などを用意していない。あくまで、一個人の意見として、読み手は受け取ってほしい)



 【目に見えるもの=評価ではなくなってきた】


 まず、この話をするにあたって、最も明確で、顕著に述べることができる事の一つは、評価の変革である。

 前述の例で挙げた『AIイラスト』が、まさにこの事を示している。

 近年見られるイラストの中には人工知能が創作した高度な技術の作品が紛れている。私は常々Twitterなどを開いては、良いイラストを見かけるといいねやらRTやらをしているのだが。実際のところを言えば、

AIイラストと開示したり、投稿主がそう言われなければ、人間が描いたイラストだと思ってしまうのだ。

 目に見えるものが、どんなに優れているかを確認する事は簡単であるが、それがどんな工程を踏んで、ここに到達しているのか。

 という『過程』を見抜けるほどの観察眼を、私たちが持ち合わせているわけでもない。


 そこで懸念されているのが、イラストレーターという職業の衰退だ。

 一イラストレーターの意見としては『今まで努力してきた技術が、プログラムによって数秒で再現することができてしまう。我々が頑張ってきた意味が無くなってしまう』というもの。

 私もその意見には頷いてしまう。これまでは、人と人との間でのパワーバランスが保たれていて、技能の量で勝負していたり、才能があっても、ある一定の領域まで到達すれば、一定数はファンが付いて、それなりに評価をされる。安住の地が、イラストレーターにはあったのだ。

 ところが、AIの侵略(AIイラスト作成技術)はそのイラストレーターの生態系を壊しつつあるのである。


 それまでは、イラストレーターどうしが依存することはなくても、お互いの持ち前の能力で競うことのできた場所に。比較的技術の高いイラストを複数枚、しかも短時間で量産、作成することのできる者が現れてしまった。


 技術、技能の習得。という課題を必要としない存在。しかも、その技術はまだ未発達であり、これから進化し続けると言うのだ。恐ろしい。


 私が思うに、イラストレーターで働く過半数は業界から消えてしまう可能性がある。

 なぜなら、AIイラストの技術技能は、ある一定よりも上で、それを維持している。目に見えるそれは、誰もが口揃えて「上手」と言えるものであるし、否定する材料は「機械だから」という難癖しかないためだ。

 さらに言えば、Twitterやpixiv(イラスト投稿サイト)などで、ユーザーが絵を閲覧する時、それを評価するのは『いいね』というボタンひとつだ。


 大抵の人々は、そのイラストをじっくりと見て、吟味し『この部分が原点だ、でもここは素晴らしい加点だ』と厳しい眼差しで見ることは、SNSではまず無いと考えて良いだろう。

 我々は、対象を見て、感覚的に良いか、悪いでしかイラストの価値の左右を評価していないと言っても過言ではない。むしろ、見たものを素直に『綺麗』と言えるものは、間違い無く素晴らしい。とまで判断してしまう。


 技術技能が最も顕著に現れるのは、結果として視界に映り込むその『イラスト』なのである。


 だからこそ、目に映るものの閾値の一定数を有しているAIイラストの侵略は、止まることがない。

 AIイラストと、人間の描いたイラストを用意したとして、かりに、AIイラストは、AIが作成したことあることを伏せたとして、Twitterで上下に表示された二つのイラストを見た時。

 確実とも言えないが、二つとも良いと思う人間が大多数である可能性は高いのである。


 同じ評価をされたとして、では、それを実用的に考えれば、時間をかけて作った物と、数秒から数分で作り上げられたものなら、手に取るのは後者の方が多いはずだ。

 オーダーメイドの服がはたしてこの世に蔓延っていると言えるかどうか。

 我々は生産品でも日々生活をする事において、比較的実用性とリーズナブルなものを利用しているはずである。たまには、奮発して少し高めのブランド品などを購入するだろうが、それはそのブランド品に価値があると思っているからだ。


 つまり、この時点で歴然とした実用性の差が生まれてしまうのである。

 書き手の私の本音を言えば、丹精を込めて、真剣に描いてくれた絵の方が、受け取った側としては嬉しいし、大切に保管するに決まっている。自分のためにこれだけ時間わかけてくれたのか、と思えるためだ。


 だが、イラストを仕事にする以上、そのイラストのベクトルは私個人だけに限定されない。例えば企業が、ソーシャルネットワークゲームを開発するとして、費用とリスクをなるべく抑えたいとなれば、安くて、ひいては生産性も高いもの。確実性のあるものを選びたいはずだ。

 そうなった時に、一定の技術があり、失敗をすることの少ないAIイラストは、非常に凡庸性が高いのである。

 さらにそのイラストは、百人中、十人が否定したとしても、残りの九十人はそれを賛成する確率が高い。


 こう言った実用性に視野を向ければ、当然手に取られやすいのはAIイラストなのである。

 人類の全員がオーダーメイドの服を選ぶならいいのだが。実際はそうではない。個人に対しての通行量は大きくなってしまうのが道理だ。しかし、安い材質で、見栄えが良く、かつ手に取りやすい価格帯の服を選ぶのが私たちだと言う事を理解ほしい。

 そして洋服の例えを『小』と考えた時、企業での依頼を『大』という解釈で考えて欲しいのだ。


 まるでそれは、写真の到来によって引き起こされた人物画の衰退の弧線と同じ辿り方をしているのである。

 一定層の消滅。それが、これからイラスト界隈で起きるかもしれない可能性の一つと考えたい。


 このように、可視化できる評価の淀みが生じている事を知ってもらいたい。すでにこの現実は進行し続けているのだ。


 一定の技術よりも上、のイラストレーターはもちろん生き残るし、絵の価値が変動しない強いイラストレーターらもちろん生き残るはずだ。しかし、一定のラインを超えられないものは切り落とされてしまう。


 では、その余波から少しでもその人々が避難して生き残るために。その策を考えことも必要だと私は考えている。

 この話の主に置いているのは『可視化』と言うものだが。では、見えないものを、どれだけ見えるものにして行くかが、今後のイラストレーター界隈、ひいては創作界隈に重要になって行くのではないか、と私は考える。

 というのは、努力している過程を知れば、人はそれに感化されるためだ。感動する映画を見て、わけもなく涙を流す人間はいない。

 それと同じように努力を知っていれば、そのイラストの価値が引き上がる可能性があるのだ。

 だからといって『私は頑張っています!』と露骨に表現しても意味はないだろう。それを確認するためには、まず、クライアントが知るために、段階が必要になるためだ。

 私はここまで見てきた。だから、このクリエイターの絵には価値があると信じている。と言える人間が百人中何人いるのかと言う問題がある。


 ただがむしゃらにそれを発言しても、耳を傾ける人たちは増えることはないと考えて良い。


 そこで私が提案するのは、イラストを描く人間のキャラクターを確立することだ。

 その昔、夏目漱石が俳句を詠んだことで、それが有名になったというが、夏目漱石の句がそれほど素晴らしい! と言うわけでもなかったのだと、私の知り合いの先生は言っていた。


 『夏目漱石が詠んだから、この句は凄いのだ』と。


 偉人の経歴がいくら雑多でいい加減でも。成した功績が素晴らしいものであれば、全てがよりよく見えてしまう。それは、結果的に成した物の大きさが影響してしまうところにある。

 ならば、私と言う個人を気に入ってくれる人間がいたとして、その人からの好感が、イラストに関与することも否定しきれないはずなのである。


 好意のある人間のセクハラと、関係のない人間のセクハラの意味が違うように。


 物自体の値打ちを見定めるのではなく、ブランド品である、と言う概念を売る。そう言った心がけが、今後人間が『イラスト』を生業とするために必要になって行くものになるのではないか。と私は考えるのである。


 (もちろん、どんなイラストでも、人が一生懸命考えて創り上げたものには素晴らしい価値があると、私は信じている)

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