第44話 藍秀、自分の使命に気づく


「旺花さんから、文をあずかりました」


 二人になった時、藍秀は旺花からあずかった文を白規に手渡した。


 目の前の若い男は無造作に文の封を開け読み始める。読み終えたのち文を畳んで皮鎧と着物のあいだに仕舞い込みながら、彼は言った。


「藍秀さん、お手数をおかけしますね。明日にでも返事を書きますので、その時は旺花さんに渡してもらえますか」


 文をことづけた時の旺花の様子からして、文の内容は逢引きの打ち合わせに違いない。しかし恋文のやり取りをしれっと語る白く美しい男の顔は、銀狼山脈の頂上の万年雪のようになんの表情も浮かんでいない。


……先日、陵容さまが白規の年齢を問われた時、十八歳となりましたと言っていた。でも、わたしよりも十歳も二十歳も年上に思える。『白い面を被った妖魔』って、ほんとその通りだわ……


 どう努力しても好きになれそうにない旺花ではあるけれど、こんな人でなしの宦官に惚れてしまうとは、同じ女として気の毒にも思えてきた。腹が立つと同時に藍秀の口が勝手に動いた。


「わたし、あなたとそれから多くいるらしいあなたの遊び相手との間を取り持つなんて、いやよ。わたしは文を足に結わえた愚かな鳩ではないわ」


 今まで表情らしい表情のなかった男の顔が、雲間から差し込む陽の光のように輝いた。薄青色の目が細められて、白い顔の少し色のある唇の両端が上がった。


「愚かな鳩? それは嫉妬から出た言葉ですか?」


「な、な、なんてことを!」


 藍秀の慌てぶりにこらえきれないのか、白規が声にしてひとしきり笑う。


「おれが女も男も抱けることは、もう噂でご存じでしょう? もう一つ加えれば、相手の容姿も年齢も気にしたことはありません」


 にこやかに語るその言葉にけおされて、藍秀は同じ言葉を繰り返すしかできなかった。


「な、な、なんてことを!」


「そんなにうろたえなくても。しかし、ご安心くださいと言うべきか、残念でございますと言うべきか。おれは仕事仲間とは寝ないと決めています」


 怒りで唇が震えたが、言い返す言葉は思いつかなかった。


 顔が首筋に血がのぼったのがわかる。いまの自分は口をぱくぱくさせている赤い魚にそっくりなことだろう。言葉を失った彼女に、こともあろうか白規は以前に彼女が言おうとした言葉を言った。


「藍秀さん、立ち話はこのあたりで切り上げて、そろそろ出かけた方がよろしいように思われますが。今日は後宮の東の端を歩いてみましょう。そちらには後宮の雑用をこなす奴婢や下級宦官たちが住んでいます」


 その言葉に藍秀は自分が抱えている布包みに目をおとす。陵容に着物の染み抜きを頼まれたので、洗濯所に持っていくところだった。本来ならそこのものを呼びつけることで済む用事だ。


『第三皇子さまにいただいた大切なお着物です。わたしの不注意で汚してしまいました。藍秀、おまえが直接持って行って、洗う時に布地をいためないようにと伝えて欲しい』


 第一皇子の殿舎に蜜柑を持って行ってより、そのような用事が増えて白規を従えての外出が多くなった。いまでは、藍秀も陵容の言外に込められた陵容の、いやその後ろにいる父・趙将軍の真意に気づいている。


「も、もちろんですとも。こんなところで、油を売っている暇などわたしにはありません」


 そう言い放って踵を返して歩きはじめた藍秀だが、白規の笑いを押し殺した声が追いかけてきた。


「藍秀さん、東はそちらの方向ではありません」




※ ※ ※


 陵容のそばにあっては、言葉遣いや礼儀作法に目を光らせる侍女仲間がいる。外に出れば、白規にからかわれてばかりだった。しかし、陵容が流産してしまったあとに思えば、そのような日々はなんと楽しかったことだろう。


『第三皇子さまも陵容さまもお若い。二人目の懐妊はすぐにある』という希望と、頻繁に訪れる髪の白い少女の吹く笛の音が悲しみを払ってはいる。しかし、藍秀自身は自分は引き返せない場所に来てしまったのだという思いが日々に強くなっていた。


『命をかけて陵容お姉さまを守る』


 父の趙将軍に対して誓ったほんとうの意味を知ってしまった。


『命をかけて陵容お姉さまを守る』、それは自分の命を差し出すことではない。その真意は陵容を不幸にしようとたくらむ者たちの命を先に奪うことだ。その結果として、自分の命を差し出すことになるかもしれないが。


 後宮の建物と道を覚え、侍女と宦官たちの名前と顔を覚える。白規にさんざんにしごかれながら、騎乗を覚え剣の扱い方を覚える。それらはすべて人を殺すことに繋がっている。


 陵容が流行り病に似た症状に陥り、腹の子を流してしまった。それは皇太子の座を争っている第一皇子のなしたことだとの噂がひそかに囁かれている。皆、血眼になってその証拠を探し求めている。


 白規がその美しい顔と体を使って、第一皇子妃に仕える旺花を虜にしている理由がわかった。


 第三皇子と彼に嫁いだ娘の陵容を守るために、父の趙将軍は戦場で人を殺す。情報を得るために白規は後宮で人をたぶらかす。そしていずれ自分もそうなる。




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