第43話 藍秀、侍女の旺花に出会う
美しく着飾った数人の女たちが向こうからくる。
どこの殿舎の誰につかえる侍女たちであるかは、後宮で暮らし始めてまだ日の浅い
……わたしたちが道を塞いでいるわけでもないのに……
「これはこれは、
白規に声をかけられて、それまでの鋭い目つきを緩めた一人の侍女の顔が紅潮した。その集団の中の真ん中を陣取った太った一番目立つ女だ。
「まあ、白規。このようなところで出会うとは」
「わたくしどもは、これから第一皇子さまのお屋敷にお伺いするところでございます。行き違いになるとは残念です」
「いえ、わたくしの用事はささいなこと。すぐに戻ります」
「それはよろしゅうございました」
そう言いながら白規が笑顔を送ったのだろう。他の侍女たちがきゃっと黄色い嬌声あげた。そして白規に声をかけられた旺花という女の着物の袖を引っ張り合ってからかいながら、通り過ぎていく。
男女のことにはうとい藍秀だったが、それでも横に立つ宦官と通りすがりの侍女たちとの間で淫靡な雰囲気が流れたのはわかった。こういう経験は初めてではない。白規のそばにいて何度か同じ光景を見てきた。
……なにが、『藍秀さん、これからは白規とお呼びください』よ。この顔とこの声で、誰彼かまわず、同じことを言っているんだわ。ほんとうに嫌な男。あっ、宦官って、男ではなかった……
白規がいまいましいのか、それともそんな白規に話かけられたらいつも胸が高鳴ってしまう自分がいまいましいのか。彼と旺花という女の意味ありげな会話と親密そうな目配せにうろたえてしまった自分が腹立たしい。
持ち前の負けん気がむくむくと頭をもたげてくる。
……顔だけがよい宦官なんて、大嫌い。そうだ、忘れていた。私たちは
大嫌い、大嫌いと唱えるように自分に言い聞かせて、横に立つ男を睨みあげる。しかし口を開いたのは、白規のほうが早かった。
「藍秀さん、後宮の建物とそれを結ぶ道の様子も覚えてもらわなくなりませんが、後宮に住む妃と仕える侍女と宦官たちの名前と顔も必ず覚えてください。いまは詳しくは話せませんが、いずれ藍秀さんの命にも関わってくる大切なことです」
彼の顔にはもう旺花たちにむけられていた笑みはかけらも浮いていない。
ひたと見つめてきた男の薄青い空を思わせる瞳の色に捕らえられて、藍秀は自分が何を言おうとしていたのか忘れた。蜜柑を詰めた竹籠を意味もなく胸に抱えなおし、こくんと大きく首を折って頷く。なぜかやはり胸が苦しいほどに高鳴った。
その日から、白規に言われた通りに外を歩く時は不審がられぬように気を配りながら、周囲を見渡す。仲間たちの他愛ないお喋りにも注意深く聞き耳を立て、後宮に住まうものたちの情報を集めそのものたちの顔と名前を覚えるように心がけた。
趙将軍の娘でありながら奴婢同然に育った。母が亡くなったあとは、あちらこちらに出入りしては子どもにもできる仕事を与えてもらい、食べ物をもらった。そんな暮らしをしてきたせいか、それとも持って生まれたものがあったのか、白規も驚くほどに藍秀の覚えは早かった。
※ ※ ※
「ねえ、そこのおまえ!」
突然、後ろからかん高く女の声で呼び止められた。
振り返ると、先日、白規が旺花と呼んだ女が一人で立っていた。もともと太った女だったが、この数日の冷え込みで着ぶくれてますます丸くなっている。寒そうに白い毛皮の襟巻に埋めた顔はチャウチャウ犬を思わせた。
「いま、ひとり?」
頷くと女は高飛車に言葉を続けた。
「やっと会えたわね。なんなのよ、気が利かない子ねえ。そんなふうに突っ立っていたら、不審がられるじゃないの。わたしの後ろを少し離れてついて来て」
言われた通りについていくと、寂れた建物の中に入っていく。皇帝が新しい妃を迎えなくなって十年。後宮の外れでは、住むもののいない殿舎が目立つようになった。ここもその中の一つだろう。
「ここだったら、誰にも見られないわ。わたしは……」
「第一皇子さまのお妃さまにつかえておられる旺花さんですね」
今度は女のほうが驚く番だ。瞼と頬の肉に埋もれた細い両目を見開く。
「わたしの名前を憶えているの? ええと、おまえの名前は……」
「藍秀です」
「藍秀……。まあ、そういうことはどうでもいいのだけど。おまえに頼みたいことがあって、会える日を待っていたのよ」
女は着物の袖口に手を入れて、紙切れを引っ張りだした。白規への付け文であることは、女のもったいぶった態度からしてあきらかだ。
だが、藍秀のためらった表情から美しい宦官に懸想しているのは自分一人ではないと気づいたのだろう。女の顔が悔しさで歪んだように見えたが、顎を突き出してえらそうに言いはなった。
「いいこと、必ず返事をもらってくるのよ」
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