藍秀の初仕事(後編)

第45話 白規の宦官としての過去 ≪1≫


 少し離れたところで頭を垂れてかしこまっている若い男を、初めて見るもののように趙蘆冨は見つめていた。


 十年前に北辰国で拾ってきた若い男だ。

 その名前は白規。処刑寸前のところを救い新しい命を与えたのも彼だが、西華国についた時に新しい名前もまた与えた。


 白規の装いはいつもと同じく着物の上前の衿を喉元まできっちりと重ねた白く短い麻布の上着に、胴だけを覆った簡素な皮鎧。そして同じく麻布の裾を絞ったズボンと柔らかくなめした手入れの行き届いた長靴ちょうか


 警護の仕事では、自分の命を守ることよりもとっさの出来事に対して俊敏に動くことのほうが大切だ。ただし……と、蘆冨は内心で苦笑する。


……それはわかっているが。味もそっけもない武人の格好だが、美しいものが身にまとうと、このようにさまになるとはな。こいつの前では、わしの黒革に銀の鋲を打ち込んだ鎧がかすむではないか……


 ただいつもと違って、白規は耳あてのついた皮の兜は着用していなかった。宮中にある蘆冨の執務室に呼ばれたことにたいしての、彼なりの敬意の表しかたなのだろう。


 漆黒の髪を頭上で丸く一つに結い、小さな銀の簪でとめている。うつむいているので、蘆冨からは髪の色とはあまりに対照的な白い秀でた額と形のよい耳が見えた。


 北辰国で白規を初めて見た時は彼はまだ幼子だったが、いまは十八歳となったはず。その体つきにもさりげない所作にも、少年と大人のあやうい境界線に立っているように思われる。


……あやうい? いやは白規の場合は、危いと言うべきかもしれんな。役に立つかと思い処刑場から拾ってきたが、とんでもない男になりおって。母親が目の前で斬首されると、皆が皆、白規のようになるのか? いや、そういうものではなかろう……


 かしこまって微動だにしない若い男に「顔を上げよ」と言いたいところだが、蘆冨はためらっていた。男でも見とれるその美貌を見たいのはやまやまだが、その奥に隠されているものを彼が一番よく知っている。




※ ※ ※


 北辰国から連れてきたまだ七歳だった白規を、趙蘆冨は逞周徳てい・しゅくとくという名の老いた宦官にあずけた。


 逞周徳はでっぷりと太った宦官だった。


 ゆったりと着込んだ着物でも隠せないほどに腹が異様な形で突き出ていた。その腹を揺すってちょこまかと歩き、髭のない顔は女のようにつるつるとしてはちきれんばかりに丸い。


……老人だと思っていたが、案外と若かったのかも知れんな。その見かけから宦官の年齢をおしはかることはむつかしい……


 時に逞周徳を思い出すことがあれば、蘆冨はそう思う。


 用済みとなれば家畜のようにその命を処分される浮き沈みの激しい宦官の世界で、それほど重要な役職についていなかったにもかかわらず、逞周徳は後宮の裏の主と陰で囁かれるほどにしぶとく生き残っていた。


 後宮にあって雑用をこなしながら、彼には裏の顔があった。


 完旦の街のはずれに宦官となる少年専門の人身売買を商う店がある。時々暇をとって後宮を出ては、彼はそこで少年たちの男根を切断する仕事を請け負っていた。


 見かけによらぬ器用な手を彼は持っていたが、何よりもその仕事が好きだった。好きというより男根のすべてを熟知していたというのが正しい。そして、少年の股間から流れ出る血で両手を濡らすことに、人には言えない快感を覚えた。


 それゆえにその切り口は鮮やかで、施術中の死者も少ない。

 仕事を終えて後宮に戻る時は、着ている着物の懐がその重さに垂れるほどに礼金をもらった。


 また時に彼はその店で将来宦官として見込みのありそうな少年を見つけると、謝礼のかわりにもらい受け後宮に連れ帰った。子飼いとして手元におき、数年をかけてその頭と体に後宮のすべてを教えこんだ。


 そうやって逞周徳が育てた男根のない少年たちは、使い勝手のよい宦官として、後宮に住むやんごとなき皇族やその妃たちが欲しがった。またまた大金が彼の懐に入って来る。


 下級宦官にはふさわしくない豪奢な部屋に彼は住み、その床下を掘って作った隠し部屋には金銀の詰まった宝箱が置かれている。


 そういう逞周徳のすべてを知っていて、あえて蘆冨は白規を逞周徳にあずけた。


「五年をかけて、白規を後宮の隅々まで知り尽くした宦官となるように育ててくれ」


「五年をかけてでございますか?」

 

 逞周徳はためらったような声で尋ねた。こういう頼み事というものは、普通は急かされるものだ。


「ああ、急いだことはない。時は十分にある。急いては事を仕損じるというではないか。わしは失敗作は欲しくはない。それだけは心得よ。白規をわしの意にかなうように育て上げれば、礼金はおまえの望むままだ」


 揖礼の所作のまま突き出した両腕の隙間から、逞周徳は横に立つ美しい顔立ちの少年をちらりと見やった。


「趙将軍のお目にとまっただけのことはありますな。将来が楽しみでございます。必ずや、将軍さまのご期待に添うことをお約束しましょう」


 そう答えて逞周徳は顔をあげた。これから白規の頭と体に教え込むすべてのことが、その嬉しそうな顔に書いてあった。


 その顔に、『人の面をした怪物が……』と、蘆冨は思った。




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